十一月一日(土) 迷宮街・道具屋脇公園 一〇時二一分 懐かしいな、と三原俊夫(みはら としお)が思ったのはどうしてだったろう。懐かしさを呼び起こしたものが何かはわかっている。それは自分に投げかけられた津村さゆり(つむら さゆり)の挨拶の声だった。いや、かれこれ一年以上ともに部隊を組んでいる仲間だから挨拶の言葉自体が懐かしいのではなく、その言葉をこの時間に聞く状況が昔を思い起こさせたのだった。このところ、この二ヶ月ほどはまだ暗いうちに集合していたのだから。今日からは遅い時間にスタートする。 「おう。体調は?」 異常なしです、と微笑む女の目元はしかしひどく腫れており、黒目がちの瞳は真っ赤に充血している。三原はいぶかしく思った。何かあったか? その問いかけに津村はご存知なかったのですかと意外そうな顔をする。 「美濃部さんが昨日の探索で亡くなられました」 三原は絶句した。 「——美濃部がか。そうか。で、お嬢は?」 他に死者はありません。代わりの戦士として南沢さんが加入されるそうです。 そうかとだけ答え、開脚した右足の上に上体を投げ出した。お嬢が無事ならあそこは大丈夫だろう。それにしても、続くなこのところ。 津村はうなずいた。泣き腫らした瞳のこの娘は確か美濃部という戦士とは同郷で仲良くしていたはずだ。そしてほんの一週間ほど前に死んだある女性とも親しかったはず。この三ヶ月ほど、目立ったメンバーでの死者が出ていなかった探索行において、最近になってぽつり、ぽつりと再び皆が意外に思うような、有力探索者の死者が出始めている。探索事業が開始された初日に登録した三原と津村は、犠牲者の出現には波があることを経験的に知っていた。またこれからしばらくの間訃報が続くことになるのではないか。口には出さないがそういう不気味な予感がある。 「大丈夫か? 今日は休んでもいいぞ?」 いたわる言葉にまだ二十代前半の娘は微笑を返し、しかしはっきりと首を振った。私は腫れが引かない体質なんです。もう大丈夫です。それよりも、と表情を改める。 うちのマイナーリーグであるアマゾネス軍団と月原部隊に今週で二人死者が出たことになります。真城さんのところはすぐに補充が利きましたが月原さんのところはあれから休業状態です。マイナーリーグたちにもさらに下の部隊の面倒を見てもらったほうがいいんじゃありませんか? 「そして、その動きは一軍の私たちが率先して薦めたほうがいいと思います」 三原は何も言わず、パンダの配色のツナギをまとった仲間を見上げた。しばらくしていかにも気が進まない、というように呟く。人間をまとめるのがイヤでこの街に来たんだけどなあ。 「でも、好き勝手に死なせていたらいつまで経っても埒があきません」 娘の言葉は明らかな正義感をはらんでおり、それが三原の怠惰を吹き飛ばした。 「わかった。今夜にでも魔女姫と話してみよう。それと、今日から第二期の募集が始まるな? 素質のありそうな奴には声をかけて、初陣で死なないようにアドバイスするように呼びかけるか。具体的なところは任せていいか?」 わかりました、と微笑むその顔を見て、どうして懐かしさを感じたのだろうとぼんやりと考えた。第四層へ足を踏み入れて二週間、今日からは目の前の娘のお陰で移動時間が大幅に短縮される。状況は明らかに良くなっていた。しかしそれでもぬぐえない不安感があって、それが気楽に他人の後を追えばよかった昔を思い出させているのかもしれない。両足をそろえて前屈し、背中に小さなお尻の重みを感じながら長く細く息を吐いた。 「さゆり、そういえばお前あさって誕生日か?」 「あら、覚えていてくださったんですか?」 「今思い出した。しあさっての探索は一日伸ばすから、聡とどこかに行ってくるといい。魔女姫にもあわせるように頼んでおこう」 ありがとうございます、と相変わらず落ち着きながらもどことなく嬉しそうな声ににやりと笑った。しかしなんとなしの不安感は晴れずに目を閉じた。 真壁啓一の日記 十一月一日 まさか自分が自発的に日記をつけることになるなんて夢にも思わなかった。それなのに敢えてしているのは日々を書き留めておかなければならないという強迫観念じみた意識が生まれたから。その動機はなんといっても、現在俺がいるこの状況が稀有なものであり日本人の大多数にとってこの日記が興味深いものになるだろうという確信だが、それを圧して、認めたくないが、強い感情がある。明日には自分の存在が消えているかもしれないという。俺は今京都市北部は比叡山のふもとにできた『大迷宮』にやってきている。そう。政府が門戸を開いた迷宮探索隊の第二期に志願したのだ。 一昨日東京のアパートを引き払い、その夜は友人たちの壮行会(ほとんどの友人の認識ではお別れ会だったろう。その証拠に由加里は姿を見せなかった)で費やし、昨日京都入りした。昨日の夜は京都市のホテルに宿をとり、大迷宮施設(以後はここでの慣習に従って迷宮街と書くことにする)に到着したのが今朝の九時。まずは説明があるかと思ったが、いきなりふるい落としの試験が始まった。 試験は単なる体力テストだった。試験官——徳永さんという迷宮探索事業団の職員——によればこの程度の体力もない人間が中に入ったところで生還はおぼつかないという。半公務員とは思えない眼光の鋭さ、迫力に俺を含めた七五人の来客は言葉を失った。 体力テストの中身はいたってシンプルで二〇キロの土嚢を背負ってぐるぐると運動場を歩きつづけるというだけのものだ。時速四キロの速度で九時間、五〇分ごとに一〇分の休憩と、途中で一時間の食事時間があったから実質六時間と少しになる。これは大変な重労働だった。二〇キロの土嚢は片手に下げられるものでも背負えるものでもないから肩にかつぐことになるが、片側に重量のかかる無理な姿勢を六時間以上も続ける経験など、俺を含めてほとんどの人間がしたことはないだろう。 迷宮街はこの不景気におけるゴールド・ラッシュと一部では目されており、客層は若者から中高年まで多様だったがそのほとんどが脱落していった。その中で俺の目を引いたのはなんといっても、俺と大差ない年齢と思える双子の女性だった。一卵性と見てとれる二人は成人男性でも音をあげる土嚢を、決して軽々ではなかったが身体全体の力を上手に利用しつつ保持し、歩幅の広い男たちに決して劣らないスピードで、俺たちとは比較にならない軽快さで歩いていたのだからたいしたものだった。他には身長が一七五センチあり決して背の低いほうではない俺ですら見上げる、おそらく二メートルは越えている大男がいた。この人とは夕食を一緒にとった際に名を訊いていて、津差(つさ)さんという。今年で二七才、サラリーマンよりは身体を動かしていたいというよくわからない理由でやってきた人だ。大柄な体格にふさわしい男っぽい笑顔だった。あとは、俺と同じような体格の小寺という男も、危なっかしい足取りとはいえ無事にパスしていた。この男とは、小寺が疲労を紛らわせたいという希望もあって最後の一時間は世間話をしながら歩いていた。 七五人いた来客が一七人にまで減ったすさまじいテストだったものの、俺はといえば決して悪くはなかったと思う。現在も特に疲労感はないし、歩いている途中では第一期の応募者である先達が合格に太鼓判を押してくれて、ぜひ自分を訪ねて来いと誘ってきたのだから。三原さんというその人は探索者の中でも一目置かれているのだと徳永さんが教えてくれた。そんな人に認められるくらいだから、決して悪いことはないのだろう。 試験が終了したあと、小寺と津差さんとで食事をとった。食事は『北酒場』と呼ばれている街の北側にある店で食べられるようになっている。定食だけなら迷宮探索者として登録していれば無料になる。俺たちはテスト生の証明書でパスできた。しかしアルコールは実費で生中が一杯四五〇円だから市価より少し安いくらいだろうか。 小寺と津差さんとの話はお互いのこれまでや、ここに来る動機で終始した。それはそうだろう。今後どういうスケジュールで迷宮に潜り、どういうシステムで金を稼ぎ、何が目的となるのかまだ知らされていないのだ。そんな状況で未来のことを話し合ってもそれは夢物語にしかならない。津差さんの動機はすでに書いたが小寺は「就職先が見つからなかったから」とあっけらかんと話した。とりあえず俺が銀行の内定を辞退してきたことは言わないでおく。 今回俺が参加しているのは第二期募集で、半年前まで行われた第一期募集期間では累積で約一万五千人の人間が迷宮街を訪れたらしい。大半はテストに落ち、パスした者もじりじりと減っていき、現時点で探索している第一期応募者は二〇〇人ほどだという。そのためか北酒場は盛況だった。身体が資本だから就寝は早いだろうという予想とどうも様子が違うのだが、探索者は連日地下に潜るのではないらしい。一日潜って二日は休息と装備の手入れ、訓練にあてるのだということだった。つまり、二〇〇人のうちの一二〇人は夜更かしができるのだ。週二日の労働で生活できるのだからすごいと思う。同時にリスクもすごいのだろうとも思う。 俺たちが北酒場を出る際に一つのニュースが入ってきた。それを聞いたから、一度宿(といっても俺たちは無料の大部屋だったが)で毛布に包まったというのに起きだして、こうして共有のパソコンでウェブ日記に登録してキーボードを叩いているのだ。どうしても、今日の記録を残すようにしないといけないと思ったから。 ニュースの内容は、三原さんの一行が全滅し全員死亡したというもの。ここでは人間は簡単に死ぬらしい。 十一月二日(金) 真壁啓一の日記 十一月二日 迷宮街に来て二日目。今日は属性と職業という二つのものを決めた。ここに来て初めて知った概念だった。 まず属性とは、迷宮内で遭遇する化け物との対応姿勢のことだという。もちろんこっちが侵略者でありかつ奴らにとっての食料である以上、お互いを発見したら戦闘になる当然なのだが、問題はお互いに気づいた際に十分戦闘を回避できるだけの距離的余裕がある場合だ。訓練所の職員はだいたい三〇メートルほどだと言った。その程度の距離があれば向こうはまず威嚇に終始し、よほど機嫌が悪かったり腹を空かせていない限りは様子を見るという。こちらが戦いを仕掛けず引き返したり、にらみ合っていれば向こうが去っていくから戦いを回避できるのだそうだ。ただ、戦闘を行う/回避するというその判断は事前に決め事としておかなければ意味がない。そのために心理テストで戦闘と回避のどちらが自分にとって自然かをあらかじめ判定し、そのポリシーが同じ人間としか仲間として認定されないのだ。具体的には、迷宮の入り口詰め所で通過を断られるという。 俺は戦闘派(以後タカ派と書く)だった。小寺は中庸で、これはどちらでも柔軟に対応できるということらしい。津差さんは回避派(以後ハト派)。津差さんと同じ部隊は組めないわけで少し残念に思う。仲間だったら頼もしい人だったのに。 その後、四つの基本職業である戦士/罠解除師/魔法使い/治療術師についての適性を調べられた。結論からすれば俺は戦士と罠解除師、魔法使いに適性があったが一番向いているのは戦士だと言われたので従うことにした。殴り合いをするほうが性に合っているし。だがそれぞれの診断方法は書いておこう。 まず戦士。これは単純に体力と筋力とを測られた。あちこちにあるポケットに鉄片を入れて重くした皮のジャケットをつけて、長さ六〇センチで重さ七キロの鉄の棒を片手で振り回すというもの。すぐ横で津差さんがまるで小枝か何かのように操る音にかき消されながらも、俺の棒だって早く動き、きれいに止まったと思う。体操に明け暮れていた大学時代は肉体労働に十分な下地を作ってくれていたとみえる。 以上が戦士の適性審査で屋根のついた広大な訓練場で行われていたが、ここから先の審査は場所を移して神社の境内を思わせる一角にある建物の中で行われた。内部は地上のどんな場所とも違う濃密な気配の立ちこめる空間で、昨日の合格者の中には入っただけで倒れてしまった人がいたくらいだ。ちなみにその人は失格ではなく、もっと密度の弱い場所で試験をするという。試験官の鹿島詩穂(かしま しほ)さんという女性によれば、その反応は恵まれた素質の証なのだそうだ。鹿島さんの説明によると迷宮の内部にたちこめるエネルギーを数倍濃密にした空間だとのことだった。ここで罠解除師、魔法使い、治療術師は日常の訓練を行う。つまり彼らの技術は地上では通用せず、このような濃密な気配を作っているエネルギーを利用して実現されるのだ。 ちなみにこのエネルギー、まだ科学的には判明していないらしく探索者の間じゃ『エーテル』と呼ばれている。買い取りの技術者さんの命名だそうだ。地下空間を満たしているであろうと思われる、いまだ正体不明の物質の名前としては適していると思うので俺も今後はエーテルと書くことにする。誰だ? 「え? MP回復?」 とかバカなコト言ってるのは。常識だぞ。「物理 エーテル」で検索しなさい。 罠解除師の適性検査は前方一メートルの位置に置かれた一枚の絵を模写することだった。単純なようでいてそれは難しかった。不器用だからじゃない。それ以前の問題だ。その絵までの空間を何か光を屈折させるようなものがたゆたっており、絵がゆらめきゆがみ、まともに形をとらえることができないのだ。そのゆらめきやゆがみのパターン、流れを適切に把握し対象となる絵を正確に模写できること。それが罠解除師の条件だった。 迷宮内で手に入る俺たちにとっての戦利品を、所有者である化け物たちはこのようなエーテルの流れで保護するらしい。そして不用意に触れたものにいろいろな悪い影響をもたらすのだという。そのゆがみを、指先をメスにピンセットに変えて抑え切り裂き、無力化するのが罠解除師の仕事だという。俺もなんとか描き上げることができた。一方小寺は戦士にも素養があったがこちらにはより適性があるらしく、俺では見透かすことができなかった部分もきれいに仕上げていた。 その次は魔法使いの適性審査だった。とはいえ魔法使いと治療術師は実際のテスト内容は同じで、連続で見せられた画像をなるべく正確に頭の中で再現するというものだった。面白いことに、さまざまな色、さまざまな形を正確に脳裏に描けている者ほど周りの空間を埋めているエーテルが顕著な反応をあらわして変質するのである。たとえば俺の番では俺の周辺が少し暖かくなる程度だったのに、俺の次に続いた三〇才ほどの女性の時には一〇メートル以上離れた俺たちにすら熱気が届き、俺には課されなかった二度目のテストでは一瞬にして空気が肌寒くなったのだから。こうやって魔法使いは化け物を倒す術を操るらしい。 外界の空間を変化させるのが魔法使いであるならば、治療術師はおもに物質を変化させるのだそうだ。俺には素養がないのでわからなかったが、津差さんによると『イメージすることで手のひらだけが温かくなり、昨日の土嚢を持った際の擦り傷なんかが消えていった』という。便利だなあ。 今まで半信半疑だったこと、しかし重要だったことがひとつ現実であるのだとわかった。それは、これはお遊びでもインチキでもないということだ。俺たちは(場所に限定されるものが多いとはいえ)これまでの常識を超えた技術を身につけることを要求されており、つまり、もうすぐそれらを必要とする生活になるのだ。 そうそう。昨日軽々と体力テストをパスした双子さんとお知り合いになった。笠置町翠(かさぎまち みどり)さんと葵(あおい)さんというお名前。お姉さんが翠さんで妹さんが葵さんだそうだ。あまり話せなかったが同期のよしみで仲良くしたいものだ。 十一月三日(月) 真壁啓一の日記 十一月三日 打ち身がひどく痛い。でも一番傷ついているのはプライドだった。今日は記念すべき日だ。一緒に迷宮探索をする仲間が二人できて、年下の女の子に叩きのめされたという。 今朝、迷宮探索者としてのパスが発行された。これを提示すれば北酒場の定食と、いま泊まっている男女共用の大部屋は無料で利用できる。最低限の生活は営めるということだ。しかし無料特典には期限があって、発行されてから一週間、その後は迷宮に潜ったら一週間更新らしい。ようするに自腹を切りたくなかったら一週間と空けずに地下に迷宮に下りろということらしかった。まあ自腹を切ってもそんなに負担ではないので、のんびり探すつもりで今日は戦士の訓練に参加することにした。そしてそこに笠置町翠(かさぎまち みどり)がいた。 初日の訓練を危なげなく突破していた双子の姉妹は強烈に印象に残っていたが、それだからこそ昨日の適性検査の場で姿が見えないことを不思議に思っていた。昨夜津差さんに紹介だけされて、帰ったのではないと知ってはいたが、それがこうして当然の顔をして戦士の訓練場にいるのは奇妙だ。そのことを質問すると彼女と妹の葵さんはもともと適性検査をパスしていたとのことだった。 詳しい話を訊く前に訓練が始まった。教官は橋本さんという筋骨隆々で角刈りの男性。三〇代半ばくらいだろうか。訓練場には三〇人くらいの人間がいるところを見るとすでに探索を開始している第一期の戦士たちもここで訓練しているのだろう。訓練といってもメニューがあるわけではなく、訓練場を碁盤状に区切って仕切られている正方形の一つを選んで素振りなり打ち合いなりめいめいが好きにしている。俺たちはといえば、午後いっぱい翠さんにいいようにあしらわれていた。彼女は強すぎた。津差さんの木剣はまるで小枝のように目に止まらなかったし、俺だってフットワークを使ってできるかぎり早く厳しい打ち込みをしたはずだった。しかし彼女はそれら全てが読めているようにかわし、そうかと思うと切っ先が俺たちの手首をはたいたり、喉もとに突きつけられたりした。最後は二人同時にかかっても一度も身体に当てることができずに三時間の訓練が終わった。ヘルメットを取った彼女の髪の毛が汗で濡れていたことで少しでも溜飲を下げなければならないくらいだった。 「二人ともスジはいいですね」 彼女はそう言って笑い、それでも俺はお眼鏡にかなったらしく、一緒に部隊を組まないかと申し出てきた。俺に拒否できるはずもなかった。双子の妹である葵さんもタカ派で魔法使いだというので、これで三人は確定したわけだ。罠解除師は小寺が成績がよかったらしいし、奴を含めれば四人かな。うん順調。 俺は別に男尊女卑というわけではない。相手が男だろうと女だろうと、ここまで子ども扱いされるとやり返したくなるのだ。明日の午前中は仲間探しで午後はまた翠さんと訓練の約束をしている(彼女は神戸大丸のバーゲンに行きたがっていたが)ので、明日こそはせめて一太刀なりと当ててやろうと思う。 十一月四日(火) 迷宮街・事務棟 一四時七分 うーん、と苦笑して恩田信吾(おんだ しんご)は携帯電話を切った。その電話の内容は不愉快になってしかるべきものだったけれど、まあ仕方ないかなという納得の気持ちがある。 勢い込んでこの街にやってきたとはいえ、探索者登録を終えればすぐに地下に潜れるはずもない。素質をもとに基本四職業と呼ばれるものにそれぞれが就いていることは地下探索が部隊を組んでの分業制で行われることを示していた。一日も早く地下世界への挑戦をしたい者は仲間を見つけることを急ぐ。北酒場などでのんびりと知り合いを増やして紹介しあう方法を迂遠だと判断したならば頼る方法は事業団による斡旋しかなかった。 午前中に面会した戦士は素晴らしいの一言に尽きた。坊主頭のその男性は自分よりも少し高い身長とがっしりとした体躯、落ち着いた雰囲気の中にも芯の強さを感じさせていた。体力テストでの土嚢運びを最も危なげなくこなしていたのがその男性だった。体力テストのあとすぐにも部隊を組もうと申し出るつもりだったが、声をかけるより早く迎えに来た恋人らしい女性とその場を立ち去ってしまい、それからことあるごとに探していたのだ。 しかし一向に見つからず、それなのに事業団に指定された個室で出会うことになろうとは。信じられない幸運だった。 落ち着いた仕草は年長であることともと僧侶だという経歴で納得できた。彼もこちらに不満は感じなかったらしくお互いにいい雰囲気で別れた。自分の身体能力は信じている。二人目の戦士も優秀な人間だと喜び幸先いいぞと午後からの面会を楽しみにしていたところ、まさにその戦士から断りの連絡が入ったのだった。 とある双子、噂だけでしか知らないが理事の娘たちで、非常に優れた身体能力をもち初日の試験を簡単に突破したという双子に直々に誘われたのだという。すまないな、と謝る言葉はしかし毅然としており、恩田はすとんと納得した。自分とその双子。おそらく現時点でも仲間としての信頼性に圧倒的な差があるのだろう。誰だって死にたくないから仲間を選ぶにあたり慎重に考えるのは当然であり、今回は縁がなかったのだ。それよりも、その双子が一本釣りするような戦士を自分はきちんと見極めたのだ。そのことをこそ喜ぶべきだ、今は。 午後からの面会は男の戦士と女の魔法使いのペアだった。ペアということで少し警戒したが自分と同じく二日目の試験をパスし、午前でお互い面接して行動をともにしているのだという。小俣直人(おまた なおと)という男の方は明らかに大沢真琴(おおさわ まこと)という女に対して下心があるようだったがそういうことは気にせずに能力だけを読み取ろうと努めた。 淡々と名前、ここに来た動機、探索する上での目標を伝える。とにかく下へ、より深くへ。週一日の労働で食べていけるこの街だからそれを目的として来る者も少なからずいるだろう。自分が探索それ自体を目的にしてやってきたことだけは伝えないと後々問題が起きる。果たして男のほうはそれを聞いて少々身構えたようだった。それならそれでしょうがない。 午前の戦士には劣るが・・・上背もあるし、動きも滑らかだ。悪くはない。しかしそれよりもこの女性はいいかもしれない。 身体の大きさ、身のこなしである程度実力を推測できる戦士とは違い、術師たちの良し悪しを判断する方法はわからない。けれどもその女性の真摯なまなざし、それでいて楽観的な笑顔には期待できる気がした。よければ、と視線を女性の顔に置いたまま続けた。よければ一緒に潜りたいですね。お二人で考えてみて連絡をください。その言葉になぜか女性の頬に朱が差した。対照的に男性が警戒する顔つきをし、その気配を察知して即座に男性にも視線を投げる。そして席を立った。 仲間内でのいざこざがあるかもしれない二人か・・・。胸の中でぼやく。しかし贅沢は言うべきではないこともわかっていた。 真壁啓一の日記 十一月四日 まず結論を述べれば今日も翠にはかすることさえもできなかった。それでもかなり目が慣れてきたと思う。昨日と同じく俺と津差さんは交代、彼女は動きづめだったが、昨日は軽々こなしていた彼女が何度か休憩をはさんでいたのだから。訓練場に隣接しているコンビニでお茶とお菓子を買って休憩した際に、どうしてそんなに強いのかと訊いてみた。答えは「物心ついた時から父親に鍛えられてきたから」というものだった。なんて親だと驚いたら、そういう家柄なのだという。そして「うちのお父さん知らないの?」と不思議そうに尋ねられた。 唐突に思い至った。この迷宮ができた当初、自衛隊による探索、掃討のアドバイザーをつとめた人が、確か笠置町なんとかという夫婦じゃなかったか。それを口に出したら、津差さんが呆れたように俺を見た。彼は名前だけですぐにわかったらしい。笠置町夫婦(翠と葵の両親)は自衛隊による掃討が甲斐なしとなったあと、自衛隊は警備とインフラ整備のみであとは一般人の志願者が探索するという現在の形式を提案し具体化した人々でもある。そしてこの迷宮探索事業団の理事でもあった。えーとつまり、あれか。俺は現場の社長の名前を知らない派遣社員ということになるのか? あの地震で迷宮ができた時、右往左往する政府に対して有力な助言をしそれが聞きいれられることが、笠置町夫妻の能力と名声というものを示している。話に聞けば彼女の家柄は今回のようなことが起きた時のために剣と術を磨くことを義務づけられているのだそうだ。なんて時代錯誤な、と呟いたらまったくだわと頷かれた。実際のところ彼女たちの両親も自分や娘たちの存命中にこのような事態が起きるとは思いもせず、ただ「今日雨が降っていないからといって、傘を捨ててしまうのは愚か者のすること」ということで自分たちも研鑚し、双子の娘にも技術を伝えたのだそうだ。そして雨が降った。 「うーん。子どもの頃は、友達が寄り道するのにどうして私だけまっすぐ帰って素振りをしなきゃいけないんだ、って嫌だったけど、ある程度の実力がついたころからは剣自体が面白くなったから。今は、それを試せる事態がやってきて、——本当はいけないんだけど——嬉しいのが正直なところかな」 こんな非常事態が起きて残念だった? と訊いたときの返答がこれだ。 休憩をはさんだ後半の訓練では翠の双子の妹、葵も見物していた。彼女もタカ派で俺と部隊を組むことが決まっている。彼女は母親から魔女としての訓練を受けており、いまさら初歩的な訓練の必要はないということで治療術師と罠解除師を探してくれていた。二人見つかったから、明日の朝引きあわせてくれるという。「真壁さんは剣道の経験者?」と真顔で訊かれた意味は、動きがサマになっているから。少し自信を回復する。 笠置町姉妹は一卵性の双子ということで顔かたちはそっくりだが、筋肉のつきかた、日焼け、髪型で判別に困るということはない。姉の翠が比較して大柄(とはいえ充分スリムなのだが)、日焼けして、髪は明るく脱色した肩口までのストレートである。短い髪は運動するのだから仕方ないのだろう。妹の葵はほっそりして色白、髪は肩甲骨くらいまで伸ばして緩やかにウエーブさせている。色は黒。共通しているのは充分美人だといっていいレベルだということで、あとはまるで別人のようにも見える。 姉妹が切り上げて河原町まで買い物に行った後は津差さんと打ち合った。そして驚いた。津差さんとは昨日の朝に一度だけ打ち合ったが、そのときに比べて明らかに威力も早さも正確さも増していたから。そして自分がそれに充分ついていけたから。津差さんに尋ねると、昨日の朝に比べて俺は身体の動きが滑らかに、早くなっているとのこと。ずっと翠とばかり打ち合っていたからわからなかったけれど、俺たちはとても上達しているようだった。 その晩は笠置町姉妹に呼び出され、小寺と岸田さんというハト派のもう一人の戦士の人と一緒に鴨川沿いの中華料理屋で食事をした。北酒場では安く飲めるけれど、こういうところでのんびりするのもいいものだ。夜景もきれいだった。 十一月五日(水) 真壁啓一の日記 十一月五日 頭が痛い。本日は戦闘の訓練はお休みだった。午前中は探索の基礎的なシステム説明会に出席し、夕方からは仲間たち(笠置町姉妹が探してくれた)との顔合わせの飲み会だった。両方とも大事なことだからいきおい日記は長くなってしまうのだけど、この頭で書ききれるだろうか? 説明会は八時半から事務棟にある中会議室で行われた。第二次募集が始まってから一昨日まで三日間(昨日合格した人たちは、今日は各職業の適性検査を受けているため次の説明会にまわされている)、三七人の新規探索者が出席していた。笠置町姉妹が隣りをつめてくれたので、(迷子になって)遅れていったにも関わらず前のほうに座ることができた。ちなみに津差さんは一番前。あの人は律儀でまじめで、会社勤めしていたころも成功してたんだろうなーと思える。 配布されていた資料を取りに最後列まで戻りながら他の面々を眺めてみた。最初の体力テストがあんなありさまだっただけに、みんな体力がありそうな顔ぶればかり。女性が少なくなってしまうのも仕方ないだろう。そんな中で屈指の美人姉妹に席をつめてもらえる俺は絶対についている。 資料は小冊子とバインダーだった。バインダーには同じ種類の用紙が三〇枚くらい綴じられていて、写真と説明が書いてあった。一番上の紙には『バブリースライム(いちごジャム)』と見出しが書かれてており、赤いゼリー状のわだかまりの写真を取り巻くように文章が並んでいる。 小冊子のタイトルは『一般迷宮探索者契約規定』とあり、ぱらぱらとめくると三〇ページくらいになっている。めくっていて気づいたが、いくつかのページは初日の試験後に渡されたコピーと同じもので、たとえば迷宮街の地図であったり、運営責任者の名前であったり、探索者のパスがあれば北酒場での定食や宿屋の大部屋(俺たちは木賃宿と呼んでいる)は無料で利用できる、といったことが書いてあった。これは初日の説明に使用された資料の完全版なのだな。 そして報酬の説明が始まった。 事務員が取り出したのは高さ一〇センチくらいの銀色の容器だった。形としてはカクテルのシェイカーが近い。その中には薬液が入っているという。そして事務員は言った。「この容器の中に殺した相手の死体を切り取って持って帰るように」と。俺は思わず隣りの姉妹の顔を見て、部屋を見回した。驚きを浮かべているものが大半で、そうでない人たちは下調べをしてきたのか。とにかく一様に気味の悪そうな表情を浮かべていて、それが俺と同じ嫌悪感を抱いているのだと教えてくれた。俺たちは敵の耳を切り取って名誉をあがなった蛮人のように、死体を切り取って日々の糧を得るのだと。事務員はそんな空気に慣れっこなのか説明を続けた。 たとえばダイオキシンのように、自然界では本来ありえない物質でも化学技術を用いれば精製することができるものがある。ダイオキシンは人体には有毒だが、もちろん有効な利用法がある物質もある。価値があるのだが、わざわざ精製するにはコストがかかりすぎる、あるいはその技術がまだ確立されていないいくつかの科学成分、それが怪物たちの死体には豊富に存在するのだそうだ。それを、死体の一部を保存液に漬けて持ち帰ることで人間は簡単に手に入れることができる。これらは提携している各企業、研究団体に高値で引き取られ、その一部を迷宮街の運営費にまわしたあと俺たちの手に入るのだそうだ。 納得した。現代のゴールド・ラッシュと呼ばれるこの大迷宮、来場一週間後の死亡率が二〇%を越える危険を成り立たせる多額の報酬はどこから出てくるのかと疑問に思っていたが、まさに俺たちはレアメタルのガリンペイロなのだった。 ちなみに迷宮最上層(現在は第四層まで探索と整備が進んでいる)で一度戦闘した際に得られる報酬は、平均すると三千円程度だそう。一週間に一度探索していれば最低限の衣食住は保証されるわけで、中には最上層の敵には簡単に勝てるようになってもここで週二回ずつ最上層にもぐり、蹴散らせる怪物を安全に蹴散らしてのんびりと暮らしている部隊もいるらしい。実力さえあれば若隠居としてはいいのかもしれない。もちろん俺も笠置町姉妹もそんなことは考えていないけど。 他に報酬に対する課税などの話を聞いたがそれは割愛してバインダーに話を移すと、これは現在迷宮内部で存在が確認されている怪物のリストだという。この迷宮が何層構造かわからないけど、現在人間の足が到達した(もっとも、そこに達していた三原さんたちはもう全滅してしまったけれど)第四層までで見つかった怪物の資料なのだそうだ。最初のページを例にとると、まず『バブリースライム(いちごジャム)』とある。これは正式名称を英語表記で「バブリースライム」といい、和名というかこの迷宮街での通称を「いちごジャム」ということを示している。そして説明には『壁を伝い天井から落ちてくる粘土状の物体。中心に核となる細胞があり、それ以外を切り取っても効果はない。粘液を触手状にしての打撃のほか、つぶてとして顔に取り付き気管を・・・』といった説明が書いてある。魔法という欄があったからページを繰ってみたら、『ガスクラウド』というところで魔法使い初歩という表記があった。怪物にも俺たちのように魔法を使うものがいるということだろう。 これらの写真は探索者から買い上げたもので、その鮮明さ、詳細さによって値がつくらしい。もっともよく撮れているものはこうやって説明ファイルに使用され、そうでなくてもプロマイドとしてオカルトファンに販売されているのだとか。やるなあ、事業団。直接戦闘に参加しない罠解除師のアルバイトにいいからと事務員も奨励していた。第一期の応募者の中にはここで写真の才能を開眼させてプロになったひともいるらしい。 写真がすべて探索者の自前によることが示しているように、ここの活動のメインは俺たち探索者である。たとえば迷宮内部と地上は電話線でつながれていたり最低限の照明が整備されているのだが、その設備は新しい階層を十分に制覇できる部隊が複数現れたとき、彼らを護衛として自衛隊の工作部隊が敷設している。狭い場所の掘削なども大規模なものは同じように、小さいものは自由に貸し出される小型のドリルなど工具を使用して探索者が独自に行っているのだそうだ。探索者主導はこの資料でも同じで、説明文も彼らの口述をまとめたものらしいし、その下には先輩冒険者のコメントが並べられていた。たとえば「いちごジャム」のところには「苦戦するなら転職をお勧めします by独善坊」というものをはじめとして「こいつの部品は日光で干からびても、水を吸って元に戻ります。いやな奴の味噌汁に入れましょう by大竹」などいろいろあった。なお、これらは探索者限定のホームページに常に最新のものがあり、自由にコメントをつけられる。 ページの最後は『ドラゴンパピー』というものだった。サイズはよくわからないが、青白いキチン質の皮膚をもった、直立するトカゲがいた。というより、後ろ足を短くしたティラノサウルスの背中にコウモリの羽をつけたよう、と形容したらわかりやすいだろうか。通称はまだない。最下層だから、まだ話題になるほど発見されていないのだろう。コメントには「二匹以上と出会ったら即座に逃げること 三原」とあった。 あたま いたい。午後の話は明日の朝早く書こう。 どーもみどりです。酔ってます。酔ってますが、共有のパソコンの前でつっぷして寝ている男よりはましだと思います。へー。パソコンは短大の授業以来だから知らなかったけど、こうやって日記を書けるのね。 ええと、特にどうということもないのですが一つ。この人まだ別れていない彼女がいるのね? 今日の飲み会で隣りのテーブルに座った小林さんに「彼女? いないよ? 生まれてからこの方もてたためしがない」と言って口説いていた(?)ことは書いちゃまずいのかしら? 現在は十一月六日の午前八時です。北酒場の朝定食がいちばん混雑する時間ですが、俺はといえばすでに朝食を終えてパソコンの前に来ています。普段はただでさえ娯楽が少ない迷宮街のこととて背突かれるように日記を書かなければいけない共有パソコンだけど、今の時間は隣りのマシンをずらしてコーヒーを置き優雅にキーボードを叩くことができます。そう。普段はパソコン端末は込み合っているのです。だから酔っ払って占拠してしまった俺は当然悪いし、苦情を聞いて回収にきてくれた翠には感謝の言葉もありません。ありがとう。でも他人の日記に勝手に書くか? 普通。 内緒で削除しようかと思ったけれどもすでに東京の友人たちには見られたらしいのでやめました。ちなみに小林さんというのは道具屋のアルバイトの一人でものすごくかわいらしい女性です。でも俺より年上だけど。それにしても口説いていたとは知らなかった。 さて昨日の続きだが、笠置町姉妹が探してくれたあと三人の仲間との顔合わせ飲み会は非常に楽しい酒になった。タカ派/ハト派ということで大きく分けられているし、こんなガリンペイロの境遇にわざわざやってくるような物好きだから気が合うのは当然かもしれない。とにかくこれからお互い命を預けあうに足る信頼と好意を抱けた。結局チーム笠置町のメンバーは 笠置町 翠(女 二一 戦 タカ派) 真壁 啓一(男 二二 戦 タカ派) 青柳 誠真(男 二八 戦 中庸) 児島 貴 (男 二七 治療 中庸) 常盤 浩介(男 一九 罠解除 中庸) 笠置町 葵(女 二一 魔法 タカ派) ということに。笠置町姉妹は何度か書いたから割愛するとして、同じく戦士の青柳さんは俺より少し高いくらいの身長でふたまわりくらいがっしりとしている。ここに来るまではなんとお坊さんだったらしく、一昨年の京都大地震、大迷宮が地上に口を開いたあの地震の直後、いくつか開いてしまった地上への出口を閉じるための祈祷に加わった一人だった。もともとは比叡山の宿坊にいたために駆り出され、加持祈祷でずっと穴の付近で寝起きしていた間、夜になると出没する怪物たちに被害を受ける周辺住民を見て義憤に駆られたのだということ。そんなことがあったなんて、ほとんどニュースでは流れなかった。「穴の一番下に、あいつらを出てこなくさせる方法があるのならそのために努力しなければならんのや」という言葉が印象に残っている。 児島貴さんと常盤浩介くんはもともと友人同士で俺と同じ初日に突破したメンバーだったから顔は覚えていた。というより頭は、かな。児島さんは黄色、常盤くんは赤と非常に覚えやすい。彼らはもともと同じバンドのメンバーだそうで、どういう音楽なのか? と聞いたら「上半身にトゲトゲの皮ジャンを着て鎖をジャラジャラ身につけて、下はフルチン」と言っていた。・・・コミックバンド? 東京のインディーズバンドで『試作型早漏ロボ』というらしいけど知っている人はいるだろうか。ちなみにグーグルではヒットしなかった。 そうそう。初日は二人ともトサカだったよ。今は坊主といっていいくらいまで刈っているけど。きらきらと光るピアスで重そうな両耳は初日と変わらない。彼らは「青柳さんには悪いけど」と前置きをしてから金のためにやってきたと言った。お金ねえ、と翠は呟いたけど、青柳さんはたしなめるように頷いた。お金を欲しがるのはよくあるが、必要とするのはなかなかいない。必要とするにはそれぞれの理由があるものだと禅問答みたいなことを言う。確かに、欲しいだけでこんな死と隣り合わせの場所には来ないだろう。であれば彼らは必要としているのであり、理由を語らない以上は訊くこともないけど、尊重はしないといけない。 バンドをやっている人たちに対して偏見があるのかもしれないけどこの場では外れていないようで、二人の掛け合いを軸としたその席の会話はとても楽しいものだった。積極的に全体を牽引してくれる笠置町姉妹、いつでも笑顔をもたらそうとするバンドマンふたり、穏やかに彼らの手綱を握るもと聖職者、といったところかな。俺が演じるべき役割がなくなっちゃった。のんびりお茶でも飲んでいよう。 十一月六日(木) 迷宮街・境内 一五時二二分 「ごー!」 明るい青色をした厚ぼったいツナギを身に付け、フードをしっかりとかぶった女性が叫んだ。フードの陰から真剣な瞳が前方を見つめている。視線の先は一五 メートルほど離れた一角。そこには三人の人影があった。二人が木製の直刀、一人が木刀を持って打ち合っていた。戦況は二対一だ。木剣の二人は男性で木刀を振るうのは女性だったが、木剣の二人がかりでも女性の動きを止めることができない。上半身を柳の枝のように揺らしながら男たちの剣筋をいなしては彼らの体勢を崩していた。 「よーん!」 続いての叫び声に、数字を勘定しているのだとわかる。その声が聞こえているのかいないのか三人は打ち合いつづけていた。三人の着衣はみな同じで、フードの女性よりも幾分光沢があり分厚いツナギである。違うのはフードのかわりに工事用に似たヘルメットをかぶっていることだ。側面と後頭部を覆うように同じ布地が垂れている点だ。あとは脛にプラスチック製と思われる板が縫い付けられていた。ツナギの色は各人選べるのか、女性は明るい緑色だった。男性はがっしりした男が黒。比較して——とはいえ平均よりは大きかったが——小柄な男性がオレンジである。オレンジ色の男が横なぎに女性の胴を払ったかと思いきや、女性は背後にブリッジを作り、そのまま後方に回転して立ち上がった。その際に土を蹴って大柄な男の顔に当て、動きを止めている。 「さーん!」 フードの女性の額に汗の珠が浮かび上がった。言葉と同時に、空気の中であきらかに異質なものが三人のもとに集まりだした。 「にー!」 その声と同時に、三人は弾かれたように背後に飛びすさった。後方を一瞬確認して跳躍し、着地して間髪いれずに再度の跳躍だ。厚ぼったいツナギの上からでも弾力ある下半身の筋肉の動きが見て取れた。 「いーち!」 フードの女性が両手を差し伸べた。先ほどまで三人が打ち合っていて、今は誰もいなくなった空間に向けて。 「どかーん!」 フードが強くはためいた。前方から突然やってきた強風にあおられてのことだった。それは高熱を伴っていた。寸前までありえなかった、炎がもたらす熱気を。炎は発生していた。彼女の最後の「どかーん!」という言葉と同時に空中に出現した橙色の固まりは次の瞬間には膨れ上がり、上半分は火柱として三メートル近くも立ち上がり、下半分は大地をなめるように半径五メートルほど炎を広げる。 フードの女性がひらりと手を振るや、火柱の上部から火炎が鞭状に伸びて依然として燃え盛っている火の海を叩いた。火炎の鞭は同時に五本暴れまわり、オレンジ色のツナギを着た男性が飛びすさって避けた。 「おわーりー!」 その言葉と同時に炎が掻き消えた。何かが起きたことを示すのは焼け焦げた地面と熱気だけだった。そこに三人がまた飛び込んだ。火炎の中心めがけて駆け寄り、ほぼ三人が同時に達するとそこで立ち止まった。 拍手が起きた。これまでそれを見ていたフード姿の人物だった。ツナギは群青の女性よりは厚手のもので、帯剣している三人よりは薄い。色は原色に近い赤である。 「大分よくなったんじゃないですか? 葵さん?」 群青のツナギとフードの女性——笠置町葵(かさぎまち あおい)が満足そうにうなずいた。 「青柳さんはあと二歩前でいいですよ。魔法の効果範囲から結構あまっちゃってますから。翠もあと半歩前にお願いね。真壁さんは完璧。距離感覚鋭いねえ。まだあと四〜五回はいけるから、もう一回やっておく?」 熱気の中心から歩いてきたオレンジのツナギの男性がヘルメットを取った。髪の毛は汗でぺったりと額に貼りついている。 「わかった、けど、少し休憩。君らは暖かくてありがたい程度だろうけど、俺たちはサウナの中で運動しているようなもんなんだからさ」 「じゃあ、吹雪の魔法にする? まだ制御が慣れていないし炎より見分けがつきにくいから、もしかしたら巻き込むかもしれないけどね」 「やめてくれ」 真壁啓一の日記 十一月六日 明日はいよいよ初陣だ。これが最後の日記になるかもしれない。もちろんそんなつもりはないけれど。 今日は午前中に道具屋で装備品を受け取り、午後から集団戦闘の訓練をした。二対一で片方が動きを止めて片方が打ち込むとか、アイコンタクトで前衛が後衛をかばうなどだ。そして魔法を実際に使用した際の前衛の動き方も練習した。結果は上々だと思う。 まずは装備品から。基本的に探索者の着る物は同じで、フードつきのツナギになる。色は各人自由に選べて追加予算を出せば柄をつけることができる。生地は頑丈な帆布に金属の糸を織り込んだもので、防弾チョッキに使用される材質らしい。ツナギにはいたるところに円形のカラビナが生えており、たとえば専用のリュックをそこに引っ掛けたり、生地が破けた場合はそのカラビナで予備の生地を止めるのだそうだ。翠がいそいそとキツネのしっぽのようなアクセサリーを尻からぶら下げていた。そういう楽しみ方もあるということか。葵や児島さん、常盤くんなどの着るものは、彼らは俺たちより体力的に劣るし、集中力を妨げるということで薄手のものだ。俺たちのは分厚く重く、脛には堅いプラスチックの装甲が施されている。利き腕の反対側には剣道の篭手のようなものをつける。これはアルミかチタンか、とにかく軽くて硬い金属で覆われていた。 頭はお椀のような交通安全用ヘルメットのようなものに、左右と後頭部を覆うようにツナギと同じ生地がたらされている。結構重い。そして剣。 訓練のときから木の剣を使っていたことからもわかるように、ここでは剣を使って相手を殴る。なんで銃を使わないのか? と訓練場の橋本さんに訊いたことがあるが、返事は「高いから」ということ。それに一般人に拳銃を使わせる法的手続きは、この迷宮街の治外法権的な性格から不可能ではないけれど、そして資金が潤沢な熟練探索者は銃を携帯しているらしいけれど、練習から実戦まで個人でまかなうにはお金がかかりすぎるのだそうだ。法的手続きをとるためには二〇回の探索経験と五〇万円の手続き費用が必要と聞いて考えるのをやめた。 で、剣だ。イタリアの美術館にあるようなものを想像していたけれど実際に渡されたのは大変無骨な、両手で握れる柄から切っ先までが一本の型で作られたとわかる鉄の塊だった。刀身は完全に研ぎあがっていたが、柄には自分で気に入ったグリップを巻くのだということ。俺は訓練場で慣れていたコルクを巻くことにした。 サイズ/重量ともに訓練場で最適値を出していただけあって、振るっても身体がよろめくということはない。各人へのオーダーメイドを徹底するために美観は考慮しない、ということだろう。ちなみに一式で一六万円である。探索者用のローンがあって、年利一五%でツケにできる。バンドの二人は利用していた。俺は一括。そろそろ貯金が少なくなってきた。ちなみに郵便局や主要銀行と地元の信用金庫は迷宮街内部に窓口を持っているからお金を下ろすことに問題はない。 鞘は皮製で、十字状の鍔にボタンで引っ掛けるようになっている。鞘にもフックがついていて、好きなところに止めることができる。俺はとりあえず左腰に止めることにした。 青柳さんの装備も同じだったが翠は家伝の日本刀を用意してきている。刀身は六〇センチくらいと俺たちのものと同じ程度だけど、比較にならないほど細かった。打ち合ったら折れてしまいそうだ。 その後で術者たちの訓練場(境内と呼ばれている)に移動して集団戦闘の練習をした。なんといっても初めて目にする魔法というものに度肝を抜かれた。魔法使いや治療術師が操る力には、ある一点を中心とする円形の空間すべてに影響を与えるものが多く、油断すると接近戦闘中の俺たちも当然巻き込まれてしまう。そのために術者は大声でカウントし、あらかじめ教えられている効果範囲とそのタイミングを考慮して俺たちは自己責任で避難しなければならないのだが、それは実際にやってみないと難しいのだそうだ。普通だったら全員が初心者のはずで、そうすると初歩の初歩、相手を金縛りにする魔法を練習用として使う。しかし何しろ初心者では一日に二〜三回しか使えないため回数はこなせないし実際効果が及ぼされている空間を視覚で判断もできないために、実戦で敵と一緒に棒立ちになるケースが続出するらしい。俺たちの場合は魔法使いである葵が家庭の事情で熟練しているので火の海を作り出す魔法で練習できた。 そう。目の前で魔法を見たのは初めてだった。もうなんといって表現すればいいものかわからない。葵の作り出した火の海は中規模範囲の魔法では威力の弱いものらしいが、目の前でガス爆発が起きたらこんな感じかな、と思えるような熱風と輝きだった。俺たち前衛は効果が消えると同時に残敵掃討のため飛び込まなければならないのに最初の二回は(翠も含めて)そんな勇気も出ないほどだった。葵のお陰で七回も練習できたから慣れたけど、こんなものを実戦でいきなり出されていたら呆然としていたと思う。俺はやっぱり恵まれている。 ところで小林さんが俺の顔を見たとたんに笑い出してしまったのだが、俺は昨夜何を言ったのだろう? まったく思い出せない。 十一月七日(金) 大迷宮・第一層 十一時四八分 前衛の一人である恩田信吾(おんだ しんご)が「いちごジャム」と呼ばれる粘塊の中心細胞に剣を突きたてたまま振り返った。残りの五人に「終わった」と声をかける。ほっとした空気の中、小寺雄一(こでら ゆういち)の視線はあるものをとらえていた。部屋の一角、いちごジャムを発見した場所に空間のゆがみがあった。 「お宝発見。罠をはずすんで周りへの注意頼むな」 恩田からの返事を確認して慎重にそのゆがみに近づいていった。ゆがみは床の一点をかこむように発生していて、その中心にはなにかが落ちている。はげしく光線が屈折しているためにそれが何か、どんなサイズかも信用できない。内容物を確認することをあきらめ、ゆがみの一番周辺から眺めていった。同時に心を静め、自分の右斜め後ろの空間にあるエーテルが右肩から右腕を伝い降り、右手指先から左手へと流れる様子を想像する。最初はうまくいかなかったが、訓練場で散々叩き込まれた腹式呼吸を思い出した。イメージをとどめながら意識は眉間に集中する。ぞろり、と背後の空気が動き出した。最初は緩急をつけながら、思い通りに流れの帯ができたことが感じられる。口の端をもちあげたのは、緊張をやわらげるため。右のまぶたがかすかに痙攣している。 エーテルの帯が十分に安定したことを確認してから左手の小指を折り曲げた。指先からこぼれるエーテルがわずかに収斂され強くなった。ついで薬指、そして人差し指を折り曲げて中指だけを立てるとエーテルは早く強い流れになる。ゴムホースの口を狭めて流水を強くする要領に近い。 その指先を、ゆがみのもっとも左側でいくつか重なっているところにあてる。そこが一番外側のゆがみの流れの中心点だった。ここをほぐせば流れは霧散してしまうはずである。はたしてしこりをほぐすような感触とともにゆがみの半径が半分近くになった。一度イメージを消し、脱力する。頬を流れる汗をハンカチでぬぐった。 外側のゆがみが消えて、いわゆる罠と呼ばれるものが明らかになった。球形を成すように流れるゆがみの中心に、水色のわだかまりが見えた。これは本来無害であるエーテルに負の方向性を持たせたもので、触れてしまうとじわじわと体力を消耗させる悪寒となって陽光をあびるか活性薬を注射するまで体力を削りつづけるものだった。毒気と呼ばれる一番ポピュラーな罠である。 「活性薬は買えなかったからなあ・・・」 感染してしまえば最後、治療術師に応急処置を施してもらいながらなんとか地上に出るしかないという。小寺は少し考えた。仲間はすでにいちごジャムの死体を切り取り一部を回収したようだ。一応の稼ぎはあるということになる。自信を持てないようならあきらめてもいいところだ。自分の命を賭けていいほどの成功確率はあるだろうか? いける。 球形のゆがみを形作っている集約点は二つあり、左側から右側へと流れるようになっている。右手で壁を作りつつ、左側の集約点だけを破壊してやれば負のエネルギーは誰もいないところに放出され、拡散して無害になるはずだ。訓練場では同じ球形であっても集約点が七つのものを無力化したこともある。それに比べれば決して難しいものではなかった。 目を閉じ意識を集中すると、胸の前で広げた右の手のひらに沿うように空気中のエネルギーが流れ出した。それは薄い幕となって小寺の前面をすっぽりと隠した。視界をさえぎらないようにできるだけ薄く、しかし事故を防げるようにできるだけ強く。難しいその作業をこなしつつ、左手で鉄砲の形を作って人差し指をその幕に近づけた。幕を指が越えた一瞬でためていたエーテルを打ち出し、左側の集約点を破壊しなければならない。 訓練場なら鼻歌を歌いながらできた作業だったが、さすがにはじめての本番では緊張感が違った。緊張は過剰な集中を要求し、その結果としての視野狭窄をひきおこす。だから、陰に潜んでいた新手の怪物に仲間たちがいきなり襲われたことを気づけなかった。 指鉄砲から放たれたエーテル塊が左側の集約点を破壊した瞬間、その肩を誰かにつかまれた。右手で作っていた幕が消え失せた。 「逃げろ小寺! 敵だ!」 ——敵? その言葉を理解すると同時に身を翻す。罠は無力化してあったが今となってはお宝もあきらめるしかない。視線を移すと前衛の一人である小俣直人(おまた なおと)が頭を押さえながら走っていた。その手の下から血が流れ出している。青白い顔で、目には涙を浮かべていた。 部屋の扉を蹴りあけ、地上への出口に向けて走る。五〇メートルほど走った時点で後ろを振り返ってみたが、もう追っては来ていないようだった。大丈夫だと声をかけようと前方を見ると仲間たちは依然として潰走を続けている。大声をあげようとして、ふと妙なだるさに気が付いた。 まさか、触れていたか? 毒気に? 小寺は二つの間違いをおかしていた。 一つ目は、無事に罠を解除できたと思ったこと。解除自体は完璧にこなしていたが、肩をつかまれたことによって防御幕が消えてしまい、かすかに飛来した負のエネルギーに毒されていたのだ。急激な運動によって悪寒は全身に行き渡り、治療術師に体力を分けてもらおうとあげた声は病人のようにかぼそかった。目がくらむ。 そして二つ目の間違いは、敵が追ってきていないと判断したこと。 消耗して膝をついた小寺の頭を、きっちりかぶっていたフードもろとも、錆の浮いた銅剣が叩き潰した。 真壁啓一の日記 十一月七日 初陣を無事に切り抜けた。まだ手が震えている。頭の中が混乱している。 明日、あさってと訓練と休息に充てるので、明日の夜には今日のことを書けると思う。 小寺が死んだ。 迷宮街・北酒場 二二時一〇分 一晩三千円を支払えばシャワー付の個室が借りられる。今日の収入は六千円と少しだから実際にはそんな余裕はないのだが、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は個室を借りることにした。今日が初陣で三度遭遇し、彼はハト派のパーティーを組んでいるので一度は戦闘を回避して二度の実戦を経験した今、迷宮出口のシャワー室で返り血はすべて流しているから別に銭湯でもよかったのだが、一人で思い切り身体を洗いたかったのだ。部屋にたどり着いてすぐにシャワーを浴び、一眠りして起きたらこの時間になっていた。小腹が空いたので何か食べようと北酒場に足を向けた。 店内は相変わらずの盛況だったものの知り合いの姿はいないように思える。あきらめて無料で食べられる定食を受け取り空いている席についた視界に知り合いの顔が入ってきた。同じく新参の探索者にして迷宮探索事業団理事の娘、笠置町葵(かさぎまち あおい)だった。こんな近くでも気づかなかったのは、普段の陽気さと騒がしさがまったく見られないから。瞬時に彼女の部隊の面子を思い出したが、誰も死んではいないはずだった。座る前に気づけばそっとしておいたものだが斜め向かいに腰掛けてしまった以上見て見ぬふりも通じない。 「葵さん、おつかれ」 びくりとして上げたその顔は何かに怯えているようだった。津差は疑問に思った。第一次募集からの生き残りは別として、第二次募集の探索者の中で彼女と双子の姉は最強の部類に入る。今日の戦闘で動揺するとは思えなかった。これが実力の劣る自分たちであれば、たとえば自分がシャワー付の個室を借りるように、また同じく今日が初陣だった真壁啓一(まかべ けいいち)が高熱を出してしまったように精神に変調をきたしてもおかしくはない。しかし目の前の娘はまだ現時点ではそういうものとは無縁に思っていたのだが。 「顔色が悪いね。大丈夫?」 うん、と小さく頷くが話を続ける気配がない。こういうときに啓一だったら、とおそらく現在も大部屋の二段ベッドでうなっているだろう男のことを思った。彼なら相手の気持ちに頓着せず話し、結局は和ませるだろうに。しかし津差にはあるべき振る舞いがわからなかったからそのまま食事をつづけた。 ゆっくりと噛んで食べる津差の長い食事が終わりにさしかかった頃、「あのう・・・」と声がかけられた。 「時間があったらちょっとお酒いいですか」 津差はうなずいただけで、通り過ぎたウェイトレスに中ジョッキのビールを頼んだ。 「君らの部隊は特に事故もなかったって聞いたけど?」 「・・・小寺さんのこと聞きました?」 津差はうなずいた。小寺雄一。津差と同日に訓練場にやってきて、罠解除師として別部隊を組んでいた男は今日、初陣を迎えそのまま帰ってこなかった。部隊は崩壊しもう一人治療術師が死亡、小寺は死体も回収されていないという。 「面白い、いい奴だったんだけどね。残念だ」 「小寺さん、最初は私たちと一緒に潜るはずだったんです。でも私がいやだって言って」 津差がうなずくと、葵はせきを切ったようにしゃべり始めた。 「中二のときに初めてチョコをあげた相手が同じ雄一って名前の人で、顔もどことなく小寺さんに似ていて、チョコをあげたんですけどなんだかそれをクラス中にばらされちゃって、ずっといじめられたんです。上の学年に高野くんのこと好きな先輩がいてそのひと不良グループと仲がよくって、翠は気が強くて何度も鈴本先輩に呼び出されては喧嘩してたんですけどその頃私引っ込み思案で先輩たちには翠に手が出せないぶん私をやってやろうってこともあったみたいです。その頃は髪型も同じだったからよく似てて」 高野くんというのがチョコの彼で、鈴本先輩が不良グループだな、と頭の中で整理する。 「すっごくいやな思い出だったからわがまま言って県外の学校に進学したんです。翠は家から五分のところだったから、私が家を出るときにはまだ翠は寝てたんですよ。ひどい話ですよね、でもそうやって忘れてたんですけど小寺さん見たらあの頃のこととか、いじめられてたことも全部思い出しちゃって、で真壁さんにどうしてもいやだって。そしたら真壁さんは『そういうことがあっちゃあ仕方ないな』って笑って断ってくれたんですけど、私わかってたんです。私と翠のおかげでうちのメンバーが一番生き残る可能性が高くなるってこと。真壁さんには『落ち着けないかもしれない』って言ったんですけど実際は高野君に似てる小寺さんを危険なところにやって、『私と一緒になれなくて残念だったね、でもがんばってね』って言いたかったんです」 津差は無言でうなずいた。まだ社会経験もないだろう目の前の娘にとって、甘えと同じレベルの小さな悪意のつもりだったはずだ。だがその相手は彼女の悪意を受け止めたまま帰らない。 「私が・・・あんなこと言わなければ」 「それはそうかもしれない。でも気にすることじゃないな」 見つめてくる瞳は涙で潤んでいる。それは誰かに処方箋を与えてほしいという他力本願のあらわれだった。二一歳という年齢なのか、人生経験がないのか、どちらにせよもう少しのあいだ誰かが保護しないと、今にこっぴどく騙されるんじゃないかとふと思った。そういう危うさがある。 「啓一から君たちの能力についてはよく聞いているからわかるんだけど、確かに笠置町姉妹と組めば第三層くらいまでは苦労しないだろうね。だから死にたくない俺たちは君たちと組みたがるし、君たちには選ぶ権利がある。とばっちりみたいな理由でもね」 とばっちり、という言葉に葵はびくりと震え下を向いてしまった。いかん、と反省する。 「でもそれ以前に、君が思うほど俺たちは生き延びることを重視していないと思う」 初陣の様子を思い浮かべた。敵は正式名称をコボルド、通称を青鬼と呼ばれている二足歩行の化け物だ。背丈は津差の仲間で治療術師の的場由貴(まとば ゆき)と同じ一五〇センチ程度。しかし四肢は筋肉質で青い剛毛に覆われていた。両手には指が発達しているようで銅剣を振るってきた。その動きは津差からすれば余りにも遅く、たとえば葵の双子の姉である翠の剣筋とは比べ物にならない。緊張のためか気ばかり焦るためか、思うように動かない身体であったが十分に剣を受け止めることができた。津差の心を砕いたのは刀身ではない。その殺意だった。 自分は早晩死ぬ。殺される。今の生活を続けていれば遅かれ早かれ、確実に。 その瞬間まで、高い死亡率や個々の犠牲者の情報を知りながらも現実として認識していなかったものが結実した。ここは日々自分に対する殺意が注がれる場所で、ほんの一握りの人間しか生き残れない場所だと実感した。もう一つ、それが自分だけではなく迷宮に挑むすべての人間にとって同じだということ。 ニ撃、三撃とコボルドが銅剣で切りかかる。あるものは受け止めあるものはそらしながら津差はこれまで自分に関わった人間すべてを思い浮かべていた。両親からはじまり前の職場でのいやな取引先まで。このまま迷宮街にとどまれば、おそらく一年後には話せなくなっている顔たち。いとおしい人々。 コボルドにはフェイントをかけたりする剣技はないらしく、あくまで力技で圧倒しようと大上段に剣を振りかぶった。津差はその胴を横なぎに払った。二〇三センチ、九四キロの体格にふさわしい腕力が産む破壊力は軽々とその身体を両断した。そして津差はすべての人間に別れを告げた。 ふっと我にかえった。相変わらず葵はすがるような目で津差を見つめている。 「君たち姉妹と俺たちとで違う点が一つある。君たちは自分の意志でここに来たんじゃない、ということだ。ご両親に言われて修行の一環でここにいるんだろう? 一方俺たちは自分で選んでここに来た。俺みたいに今ひとつその理由がわからない奴もいれば、啓一みたいに自分探しの旅をしている奴もいるし、うちの内藤海(ないとう うみ)なんて詩想を得るためだって言ってる。理由はそれぞれだけど全員に共通しているのは、自分の死を受け入れたってことじゃないかな」 マスメディアで迷宮街のニュースが少ないのは、その危険性、非人道性、なにより死亡確率を事業団がすべて公表しているからだ。情報の価値は正確さと、相手が知らないことを自分は知っているという二点で生まれるから開けっぴろげにしすぎた広報を前にマスメディアは食指を動かさないのだ。それだけに国民が知ることのできる範囲での迷宮街の情報はすさまじい。 みな、もちろん小寺もそれを知りつつ来た。津差がコボルドの殺意をもって初めて覚悟を決めたように大半は「自分だけは・・・」と甘い考えでいるのかもしれない。しかし甘い考えにせよ、高い死亡率のなかに飛び込むという決意を各人がすでにしているのだ。そういう意味でここに来るという行為それ自体が自殺に近いのだと思う。現実の死に一喜一憂する必要はもうないということだ。 しかし目の前の娘に話したところで理解はしないだろう。まずもって彼女は他者に強制されてここに来たし、自分たちのように死を実感するには強すぎる。 「小寺は死んで、それはとても残念なことだ。でもここに来たからにはそれは当然のことなんだ。ここでは死はすぐ隣りにあるし、それが納得できなかったら帰る道はちゃんとある。その道を選ばずここにいるんだから、その死で自分を責めるのは小寺の選択を侮辱することになると思う。別れを悲しむのなら別だけど」 「よく・・・わからないです。・・・津差さんは私のしたことをひどいと思いますか?」 「まったく思わないな」 三十分後。酔いつぶれた妹を姉が回収して帰っていったあと、バーボンのグラスを片手に持ちながらぼんやりと携帯電話の画面を眺めていた。そこにある笑顔は毎晩連絡を欠かさない恋人のもの。「生きて、稼いで、何かを掴んで帰る」と抱きしめた笑顔を、怯えながらも確信をもって信じている女性のものだった。ふっと微笑むと電源を切った。酔って一人でいる夜に電話なんかしない方がいいと、これまでの人生で知っているから。それでも津差はわかっていた。自分が生きているうちに、それは明日かあさってかそれより先か、いつか彼女に別れを告げるだろうと。告げなければならないのだと。 「死人が幸せになろうなんてムシが良すぎるんだよ。悪いな恭子」 十一月八日(土) 真壁啓一の日記 十一月八日 迷宮街の夜は早い。朝五時まで営業の居酒屋などやっていないから、夜遅くに目がさめてしまった俺は唯一のコンビニであるミニストップ迷宮街支店まで出かけていった。全国チェーンのコンビニにはいろいろ種類があるし、販売実績ではもっと上位のものもあったろうけど、ミニストップでよかったと思う。もう肌寒い十一月の夜、『木賃宿』(男女共用の無料大部屋でレンタル毛布で寝る宿泊施設の通称。一階部分の大部屋だけをそう呼ぶ場合と、二〜三階の男女別一泊千円で二段ベッドが並ぶ大部屋『モルグ』や四〜六の個室フロアーもひっくるめた建物全体を呼ぶ場合がある)を抜け出してコンビニで暖かい肉まんを買っても、それを食べるためにまた木賃宿まで歩いていくのはさびしいものだ。ミニストップの軽食コーナーはとてもありがたい。 すでに見慣れたアルバイトの女性は、俺に対して「あら、よかった」と笑った。彼女は大学生くらいだろうか。見覚えはあっても会話した覚えはない。失礼のないようにあやふやに笑いながらご飯をたっぷり買い込んで軽食スペースで食べていたら目の前におしゃべりに来た。そして無事で良かったね、と喜びの言葉をいただいた。 どうしてこのバイトさん——織田彩(おりた あや)さん——が俺の初陣を知っていたのか? 訊いてみたらすぐに納得した。仲間たちの顔合わせの飲み会で道具屋のアルバイトの小林さんにからんだ時、同じテーブルにいたらしい。それはつまり、酔っ払いに迷惑をかけられた被害者だということ。謝ったら織田さんは夜中とは思えない明るい声で笑った。 初陣はどうだったか、と訊かれて簡単に説明した。簡単に、というのはまだ頭の中が混乱しているから。自分でも整理できていないので、ここに書くことも断片的になることを許してほしい。 昨日は午前六時に目を覚ました。翠の指揮下、前夜の十時からみっちりとストレッチを行っていたためか、目覚ましが鳴るより前にぱちりと目がさめた。身づくろいをして道具屋の前に集合したのが午前七時。普段は道具屋に預けている武器防具を受け取り身につけ(アルバイトは小林さんじゃなかった)、九時まで柔軟体操と身体を温める程度の運動。そしてエネルギー源として果物と野菜のジュースを飲んで地下にもぐった。ちなみに地下で食べる食料は道具屋がザックに詰めておいてくれている。専用の用紙に記入しておけば種類も指定できる。カロリーメイトとかバランスアップとかが主食で、副食としてもチョコレートや干し柿、甘納豆、干した小魚とかいろいろあって楽しい。 第一層は地下五〇メートルの位置にあるらしく、そこまではきちんとけずられコンクリートで舗装された階段が続いている。話には聞いていたが本当に電気が通っていて、明かりを持たなくても問題なく歩ける。地方都市の恐竜博物館の地下通路くらいの明るさだ。下りきったその距離の感覚をたとえると大江戸線のいやになるほど長いエスカレータを倍したくらいだろうか。下りきると溶岩を思わせる壁に囲まれた洞窟が始まった。下りた場所から右と左に分かれている。その道は幅が二〇メートル程度、洞窟の両側の壁には定間隔でライトがあるけれどヘッドランプの明かりは必須だった。高速道路には証明があるけれど、それでもライトがないと危険なように。知識では知っているが実際に降り立ってみると広い。地下だから当然気温は低く、季節にかかわりなく三〜五度だそうだ。地上では暑苦しい手袋のインナーがとてもありがたかった。 実のところ、最上層である第一層の地図は完成して無料で配布されているし新参の探索者が当面どこでどのように慣れるべきかということもセオリーとして確立していた。最初は右側の道を進み、百メートルほど歩いた場所に左手に入る扉(もちろん自衛隊が設置したもので、入念な基礎工事と頑丈な材質、そして葵の母親の魔法で通常は施錠されている。開閉には合言葉が必要で、「お邪魔します」「失礼します」というものだ。どうして「ひらけゴマ」じゃないのかと思ったが、ある程度長い単語じゃないと化け物に真似されてしまう心配があるそうだ)に入るといいらしい。内部には化け物が高い確率で巣食っているからそこで戦闘と罠解除の経験を積むべきだと掲示板に書いてあった。従うことにした。 誰が合言葉を唱えたのか覚えていない。リーダー格の青柳さんかもしれないし、先頭の翠だったかも。覚えているのは言葉に反応してゆっくりと外開きに開いていく扉を青柳さんと俺とで思い切り引き開け、飛び込んだ翠が敵を発見と叫んだところまでだった。そう、最初の戦闘は頭が真っ白になってしまい何も覚えていないのだ。気が付いたら長剣を床に放り出し、ナイフを使って足首からあるものをはがそうとしていた。それは怪物の顎だった。誰かに(翠は俺だというけれど覚えがない)袈裟懸けに切り下ろされたその怪物——正式名称をオーク、通称を赤鬼——は最後の力で俺のブーツに噛み付き、そのままこと切れたのだそうだ。すでに絶命している獣の顎を引き剥がすのは、それが子犬でも大変なことだ。それが一四〇センチくらいの身の丈で顎の筋肉と犬歯が異常に発達した生き物で手だけではどうにもならず、ナイフで解体しなければならなかった。 かつて生き物の頭だったものをズタズタに破壊してようやく解放されたとき、吐く、と思った。立ち直れたのはそのお陰だった。明らかに吐いている場合ではないという自分に対する戒めが立ち直らせてくれた。そばで覗き込んでいた翠の顔も険しく、明らかに俺の精神を心配していた。俺が正直に大丈夫かもしれないけど自信はないと言ったら安心したようだったけど。安心したように笑った翠が児島さんと青柳さんの治療の場に援護に行ったのを見届けて、俺はようやく回復した。二人は翠がサポートする。前衛である俺は残りの二人についていなければならない。その思いが立ち直らせてくれた。 青柳さんが負傷したためにその日の探索はそれで終了とし、各人持てる限りのシェーカー(死体を持ち帰るための容器)に死体を切り取っては入れた。保存液の刺激臭でまた吐き気が復活したけれどこれがお金になるのだから仕方がない。今日の稼ぎは一人三八〇〇円だった(十の位より下は、迷宮出口詰め所にずらっと並んでいる募金箱に入れている)。 こんなようなことを聞きおえた織田さんはとにかくよかった、と笑ってから、みんな無事だったかと尋ねてきた。俺は小寺を思い出して一人死んだと答えた。 織田さんは、真剣な顔で小林さんのことは本気なのかと訊いてきた。俺は面くらい、本気も何も酔っているから何も覚えていないし、第一東京にはまだはっきりと別れていない彼女がいること、俺の先行きが不安定だし遠距離だからこのまま続けるのは難しいけど、だからって次の人をすぐに探す気持ちにはなれないことを説明した。気楽なのは、お世辞にも女性に好かれるようなご面相じゃないので小林さんも実は俺のことを・・・というようなうぬぼれた想像から無縁でいられることだ。 織田さんは安心したようにうなずき、少し黙った後、私たちはあなたたちと親しくならないように気をつけているの、とささやいた。 「私は市内の大学生で、ここではバイトも安く部屋を借りられるから第一期の最初から暮らしてる。小林さんもそう。第一期は延べ一万五千人いたらしいけど、最初の頃は私たちも仲良くしてたわ。私はもてなかったけど、探索者と付き合う人もいたみたい。でも、そうやって親しくするのは辛いことだって気づくのにはそう長いことかからなった」 文字で再現するとわざとらしいからやめておくけど、流れるような京都弁はきれいだった。俺はしんみりと聞いていた。織田さんはある日ね、と続けた。 「ある日ね、お店に来なくなるのよ。明らかに私のシフトにあわせて缶コーヒーを買いに来ていた人が。木賃宿の前の自動販売機でも売ってる缶コーヒーを、これがなきゃ始まらんて言いながら買いに来てた人が来なくなるの。当然私たちは十分お金を稼いだので故郷に帰ったんだと思おうとするわ。あんなに通いつめておいて、故郷に錦を飾るのに私に一言の挨拶もないなんてひどいよねー、ってバイト仲間と笑ったりするのよ。——みんな涙目なんだけどね。でも、あるときお店のお客さんの会話にその人の名前が出たのよ。ああ、あいつの部隊がやられた化け物かって」 慰めたかったけど、俺にその資格がないことはよくわかっていた。来月死ぬかもしれない男には。 「そういやあいつらの死体は見つかってないらしいな、って」 モルグに戻って横になってからも、俺は長いあいだ眠れず天井を見ていた。話し始めたとき、その声につらたのかバックヤードから顔をのぞかせた店長の表情を思い出していた ブーツが少し小さかったので(地下は分厚い靴下を履くことを忘れていて)新しいものを道具屋で注文してから、午後は訓練場で津差さん青柳さんと打ち合った。翠は訓練場の端っこのほうで迷宮街でもっとも強いと評判の越谷さんという方に稽古をつけてもらっていた。技量では同レベル、リーチと筋力でははるかに上の相手に何度も挑んではやられていた。翠にも昨日のことは何かをもたらしたのだろう。 夜、モルグでテレビを見ていたとき、津差さんが声をかけてきた。一緒にいたのは恩田信吾さんという、俺と同い年の中立の戦士だった。確か小寺と同じ部隊を組んでいたはずだ。彼らの部隊は壊滅し、罠解除師である小寺と治療術氏を失った。明後日に小寺の両親がやってくるらしい。リーダーである恩田としては詫びようもないが、せめて遺体なりと返したいということだった。そこで遺体の捜索隊を組むのだという。恩田さんの話を聞いた限りでは小寺の死体は入り口から三〇メートルほどのあたりにあるはずだ、という。そのあたりはほとんど怪物も出歩かないし、小寺を殺したのが骸骨と呼ばれる人肉を食わない化け物らしいので、まだ遺体が無事にある可能性は十分にあるのだという。しかし恩田さんの部隊は最初の敗戦で士気を喪失し、ほとんどが全員が迷宮街を去ってしまったために津差さんに頼んだのだそうだ。 もちろん俺は二つ返事で引き受けた。 迷宮街・笠置街姉妹のアパート 二三時五五分 キーボードの下ボタンを押して表示された文章に眉をひそめた。そして、脇のベッドで横になりながらスナック菓子を食べている妹、笠置町葵(かさぎまち あおい)を振り返る。 「ねえ葵。明日ヒマ?」 「んー、駅前に出ようかと思ってたけど、なんで?」 「小寺さんの」 ぴくりと妹の肩が震える。やっぱり、と翠は心中でため息をついた。小寺雄一は同じく初日にこの迷宮街にやってきた男で、罠解除師として昨日初陣に挑みそして死んだ。小寺は当初自分たちと部隊を組む予定であり、それを断ったのが妹だった。妹としては自分がわがままを言わなければ死なせずにすんだと思ってもおかしくない。実際に昨夜は手がつけられないくらい酔っていたらしいし(一緒にいた津差という男は何も教えてくれなかった)、こうやって大量の菓子を食べるのは落ち込んだときの特徴だ。 「——遺体を回収するために津差さんと真壁さんと、恩田さんが明日潜るみたい」 跳ね起きてテーブルまで飛んできた妹に翠はノートパソコンを向けてやった。 ここは迷宮街の一角にあるアパートの一室だった。もともとは迷宮街で労働に従事する人たちのための施設だが、探索者も希望すれば格安でアパートを借りることができる。部屋構成にワンルームはなく探索者からの人気は不評だったが双子の姉妹にはうってつけなので来場二日目にここを借りた。 「なに? このホームページ」 「真壁さんの日記。このあいだパソコンのところで酔いつぶれていた時にメモしといたの。ちなみにこれが私の書いた文章」 「マメだね、真壁さん・・・ほんとだ。でも三人で潜るつもりかな」 画面を覗き込む目は真剣そのものだった。 「三人で全滅されても困るし、葵もついていってあげなよ」 「——うん、そうする」 十一月九日(日) 真壁啓一の日記 十一月九日 小寺の遺体回収が無事に終わってほっとしている。階段を下りて三〇メートル、しかも大事をとって他部隊の直後に降りたのがよかったのか、遺体を回収し、戻るまで化け物に出会うことはなかった。遺体は通路の脇に寄せられて、荷物や死体を隠すためのビニールシートで覆われていた。だから致命傷となった後頭部陥没以外の外傷はない、家族にまだ見せられるものだった。ここは地底のため気温が低いから冷蔵庫に保管するような効果があるのだ。道具屋で売られている遺体袋と折りたたみの担架で地上まで運んび安置所に届けた。安置所では低温保管から死化粧、火葬まですべて行っている。そのころになると、どこから聞きつけてきたか、顔見知りの奴らがちらほらとやってきては固い顔で小寺に手を合わせていた。 葵と——誰から聞いたのやら、彼女は今朝俺たちの前に来て同行を申し出てくれた——津差さんの会話が印象的だった。 「小寺さんは満足してくれるかな」とぽつりと葵が呟いたのは、死化粧をほどこされ陥没した頭蓋を戻され、綺麗になった顔を四人で見下ろしていた時だ。恩田さんと俺は黙っていた。なんて答えていいのかわからなかったから。 「小寺がどう考えるかわからないけど、俺だったら幸せに感じると思う」 そしてぐるりと俺たちを見回した。 「俺の骨を拾ってくれる奴がここに三人はいるんだから」 俺はうなずいた。俺にはそれだけしかない。あれから織田さんは視線をあわせようとしない。 明日また潜る。 十一月十日(月) 真壁啓一の日記 十一月十日 二度目の迷宮探索も無事終了した。敵は青鬼(コボルド)五匹の集団と、赤鬼(オーク)三匹の集団、そして骸骨(アンデッドコボルド)五匹の集団だった。 まずはセオリー通りに入り口右手の部屋に入った。いちど合言葉で開けてみたくて言わせてくれと頼んだら児島さんに怪訝な顔をされた。「前回も真壁さんが言ってませんでした?」とのこと。そうなのか。ぜんぜん覚えていなかった。そうかもしれないけど、あのときのことは覚えていなかったから、と強弁して言わせてもらう。葵にはおのぼりさんみたいだと笑われた。 今回は戦闘を思い出すことができる。翠を中央に、俺が左側で青柳さんが右について突っ込んでいった。葵のカウントを聞きながら微妙に速度をゆるめるものの、二人よりは随分先行してしまった。あんまり突っ込むと味方の魔法に自分まで巻き込まれるけど、このあたりの感覚には自信がある。産毛が立つようなそんな雰囲気の流れを感じて、その中心点から半径五メートルをおけばいいのだ。今回も成功した。「おやすみー!」という葵の声とともに、青鬼たちの動きがみな緩慢になった。酔ったように足取りがおぼつかなく、棒立ちになっている。魔法使いが最初から使える呪文のひとつである。頭ははっきりしているが身体が動かない、といういわゆる金縛りのような状態をつくりだす。いちどかけられたことがあるが、意識はしっかりしているのに身体が動かないというのは本当に怖いものだ。青鬼には恐怖はあるのだろうか? 食牛などは自分の運命を知って涙を流すという話を聞いたことがある。鋳型を作って銅剣をもつだけの文化レベルがある青鬼たちには当然牛よりも強い喜怒哀楽があるだろう。そんな相手に剣を振るえるのか? とこれを安全な場所から読む人たちは思うかもしれない。その人道的な意見に反論するつもりは俺にはない。ここに来て、自分に対する強烈な殺意を受けたことのない人間、殺らなければ殺られるという立場にいない人間のどんな高説も俺には必要ない。どんな理由であれこの戦闘の場にいたら相手を殺すしかないのだ。 棒立ちの一匹目には急所ねらいが可能、ということで胸の位置を横なぎに払われた長剣は、青鬼の頭蓋骨の上半分を消し飛ばした。右がわで「うわあ!」という翠の悲鳴が聞こえたが、向くまもなく魔法にかからなかった二匹目が切りかかってきた。両腕でないだ刀身は身体の右に泳いでいたから、剣を使っては防げなかった。仕方なく上体をそらしてかわす。銅剣の切っ先が左肩に叩きつけられた。剣で切られた、というイメージが先行して俺は悲鳴をあげた。 左手が動くことを確認して刀身を身体の前に持ち直すと、青鬼は身を翻して逃げ出そうとした。俺の反応が遅れたのは、それが意外だったからだ。これが人間相手の喧嘩だったら相手がやる気なのか、恐れているのかわかるけれど、青い産毛に包まれて鼻面が長く、目は馬と人間のあいのこのように両側に開いているような顔では表情が読めない。逃げるほどおびえているとは思わなかったのだ。 その一瞬にひらいた五メートルの距離に俺は戸惑った。訓練場では戦闘している他の仲間と二〇メートル離れてはいけないと厳しく注意されている。予想外に敏捷なその動きに追いついたとしても、そのくらいは離れてしまいそうだった。 と、その背中にナイフが突き立って倒れた。翠が投げたものだった。 実際に直面していた俺が反応できなかった行動に、瞬時にナイフを投げて一撃で絶命させるのはさすがだ。と翠を眺めると、返り血で真っ黒になった顔でこちらをにらんでいた。逃がしたのは不注意だった、とわびたら「そうじゃなくて」と憮然とした顔「真壁さんの吹き飛ばした青鬼の頭が私のメットを直撃しました」。返り血はそれらしい。 ハンカチを差し出そうと動かした左肩に激痛が走った。それを悟った翠が児島さんを呼ぶ。その間に切られた個所を検分した。 驚いたことに迷宮街特製のツナギにはほつれすら見られなかった。床に転がっている銅剣を拾い上げると、素人の包丁程度には砥がれている。思ったよりもはるかにこの布地は信頼できるようだった。児島さんの言葉に従って左肩をぐるぐるとまわしたものの、鋭い痛み以外に問題はない。戦闘に入ればそれも忘れることはさっきわかったので、今回は治療は行わないことにした。 その後、その部屋の中でもう一度赤鬼の集団と出会い、一人一匹ずつかたをつけた。この際に俺が右手を切られ、今度は太刀筋が良かったようで皮膚を少し切られてしまった。赤鬼は青鬼よりも筋力が低いらしく、短く軽い銅剣を使っている。そのために太刀ゆきの速さ自体は赤鬼の方が上なのだ。 いちばん恐ろしい殺され方は撲殺だという。その真偽はわからないけれど、それはあくまで「殺されるまで続くなら」という前提ような気がする。刃物が自分の皮膚を切り裂く感覚は、やっぱり別物だ。殴られるのとは違う刺すような恐怖感がある。児島さんがあっという間に傷をふさいでくれたけれど、そのあいだ全身がガタガタと震えていた。今夜夢に見そうだ。 地上へと戻るあいだに骸骨の一群を発見した。距離的には避けられたけれど俺たちはタカ派なのでそのスピードのまま距離をつめていった。しかし戦闘にはならなかった。魔法が届く距離になった瞬間、葵がそいつらを焼き尽くした。 今日の収入は一人あたり一万三千円。これから北酒場で刺身の盛り合わせ(四人前六千円)を食べる。 十一月十一日(木) 京都市・地下鉄国際会館駅 十三時二五分 「陸ー! こっちこっち!」 内藤海(ないとう うみ)は改札口に現れた人物に手を振った。その人物の、茶色のコートの袖につけられたボアがふわふわと揺れる。駆け寄ってくる妹を暖かい気持ちで見つめた。 「お疲れ様でした陸さん。京都駅まで迎えに出てもよかったのに」 「迎えにって、地下鉄一本じゃない。私もう大学生よ?」 そっか、と海は笑う。彼が神戸でアルバイト生活をはじめたのが去年の九月ごろだから、一年以上ぶりの再会になるのだった。野暮ったいブレザーの印象しかない妹は、今ではふさふさのえりまきがついたコートを着ている。 「お? ピアスあけたね」 耳から垂れる輝きに手を伸ばした。一才下のこの妹とは不思議に仲がよかった。一番上の兄を含め空、海、陸となるその名前のお陰もあるのだろうかと思っている。お母さんが反対したろう? と質問すると全然! と笑顔が返ってきた。お母さんと一緒にあけに行ったんだから、という言葉に目を丸くした。 「みんな元気そうでよかった——とにかく街に行こう」 妹のバッグを肩に担いで歩き出した。女というものはたった三泊にどうしてこんな荷物を用意するのだろうと思いながら。 真壁啓一の日記 十一月十一日 迷宮街に来てまだ十日でしかないことに驚いた。 目がさめたら大変な筋肉痛だった。昨日は二度戦闘があったし、何より手傷を負った。怪我をすることに慣れていないから当然身体はこわばってしまい、そのために使う必要のない筋肉に力が入ってしまっているのだ。今日はツナギの補修と休息日だったので午前中はずっと訓練場でストレッチをすることにした。大学では体操部だった俺は普通の人よりずっと柔軟性とバランス感覚を気にしており、その結果二〇〇度開脚してへそを地面につけることができる。今日は初冬とは思えない暖かい日差しだったので、厚手のトレーナーを着込んで外でストレッチを行うことにした。迷宮内部は寒いから、寒い場所で筋を伸ばすことを覚えさせたほうがいいような気もして。初日のテストを行った運動場の端、芝生の上で折れたり曲がったりしながら本を読んでいたら、わらわらと今日のお客さんが出てきた。 徳永さんに連れられた人数は四〇名くらい。初日の俺たちが七五人だったのは満を持した俺みたいな人間がいるから多いのだとしても、十日経ってまだ四〇人いるのは驚きだった。でもまあ、第一次募集期間は昨年夏から今年の春までの三〇〇日間だったわけだけど、訪問客がのべ一万五千人いたのだからこれでも少ないのかもしれない。第一次は日に五〇人ということだから。ちなみに資料によると、その一万五千人のうち、試験にパスした総数が九千人あまり(俺がやった試験方法は、第二次からのものなのだ)、現在でも迷宮街に残っているものが二〇〇名ほど、志半ばで亡くなった方が二七〇〇名ほど、残りは迷宮街を去ったという。死亡率一八%! 死亡率一八%! である。大航海時代のアメリカ航路の難破率ですらこれより低かったんじゃないだろうか。数字にしたらあらためて寒気が出てきた。 それにしてもひどい、と彼らを眺めて暗鬱な気分になった。たった二度しか潜ったことはないけど、一つだけ思い知らされたことがある。誰だかの言葉で「戦闘は激動的なものだから、すべての判断は激動的になされないとならない」というものがあったが全面的に賛成だ。やばい、と思ったらとにかくその方向に剣をあげる、飛びのける、しゃがむといった動作が感覚と直結していなければならない。認識〜思考〜行動というプロセスを踏んでいたらもう間に合わないのだ。そして、認識〜行動にするためには二つのものが必要になる。一つは考えずとも正確に行動できるように身体が覚えること。そしてもう一つは全身の筋肉に命令がすぐ行き渡るようにしておくこと。 人間の筋肉は、力を出す筋繊維だけでできているのではない。俺の力瘤の半分は実は神経線維でできている。それによって脊髄から出される命令が身体中に届くのだ。だから筋肉は情報を伝えやすいようになるべくリラックスしていなければならない。それがいわゆる整体である、という状態だ。整体は痛みをとるのが目的じゃない。神経線維を阻害する筋肉のこわばりをほぐすことで、敏捷に身体を動かせるようにすることが目的なのだ。 整体の度合いイコール運動能力と直結してもいいと思っている俺の眼から見て、お客さんたちのほとんどはひどかった。まず直立することができていない。腰周りの筋肉が弱いからぴったりと足を合わせることができず、身体の各所から送られる情報が少ないからバランスをとることが難しい。だから左右どちらかの足に体重をかける立ち方をして、当然負担がかかるからしきりに重心を左右の足で移している。肋骨と骨盤のあいだの筋肉が弱いからそのあいだが狭く、内臓下垂してしまっている。裸になったら下腹部がポッコリ出ている人間ばかりに違いない。 これは、と思うのが一人だけいた。年齢はかなり年下。年齢下限ぎりぎりの一八歳かもしれない女の子だった。ほっそりしているが背筋を伸ばして杉の木のように立っている。見るからにスピードと反射神経にすぐれた四肢は明らかに何らかのスポーツをしているとわかったけれど、優雅な印象がある。少し考えて乗馬かフェンシングと結論づけた。 前後開脚してしばらく文庫本を読みふけっている(ちなみに木賃宿には読み終わった本や雑誌を置いておく一室があって無料で持ち出せる。でも人気のマンガは大概広い木賃宿の端っこに積み上げられている。みんなそこで回し読みして誰も戻さないのだ)と、体力テストが始まった。ほとんどが一時間ももたずに脱落している中、俺のお気に入りの女の子は頭の上に土嚢を乗せてのんびりと歩いていた。そう、それが正解。俺は持ってみて両肩交互でもいけると判断したけど、筋力的に二〇キロがきつい女の子は最初からサバンナで水のかめを運ぶ女性にならったほうがいいのだ。 休憩時間、徳永さんにあいさつしてから彼女のところに寄っていった。目立つ場所で折れ曲がっていた男は視界に入っていたらしく、怪訝そうになんですか? と訊いてきた。とりあえず名刺を渡し、君は合格するだろうからわからないことがあったら訊きにくるといいとだけ言っておいた。 午後は地下鉄に乗って京都駅前の近鉄百貨店へ。旭屋書店で本を買い込んで、無印良品で自転車を買った。リュックに本をつめ、迷宮街まで自転車をこいでみた。知ってました? 京都駅南側の東寺の五重塔、その高さだけの高低差が迷宮街近辺と京都駅前とではあるのですよ。あー疲れた。携帯で翠を呼び出し、姉妹が住んでいるアパートにお邪魔する。彼女たちは迷宮街の北東部にあるアパートを借りているのだ。家賃は二LDKで四万二千円。ワンルームがあれば俺も借りるんだけど。家には翠だけで、お茶をご馳走になって本を置かせてもらった。 夕ご飯までいろいろ話をして、五時のアルコールスタートに合わせるように北酒場へ。二人でしんみり飲んだ。あれだ。怪物じみた女剣士も、やっぱり二一歳の女の子なんだと少しほっとした。 ふと思ったけど、初日テストの休憩中に「君は合格するだろうから〜」って、まるっきり行動が三原さんとかぶっているじゃないか。前車の轍を踏まないように明日は心して調整しないと。 十一月十二日(水) 大迷宮・第四層 一四時一〇分 「星野二尉!」 階級つきで呼びかけられてほんの少し戸惑った。地上の詰所ならともかく、このなめらかな岩壁に囲まれたひんやりした空間でそう呼ばれることは最近少なかったからだ。 ここは迷宮第四層。現在のところ、探索者たちが到達している最深部にあたる。星野の部隊がここに下りるようになって二週間が経っていた。他には現在同行している高田まり子(たかだ まりこ)率いる部隊しかいない。彼らと同等より上の能力を持つ部隊として、常に最有力だった三原俊夫の部隊があったが先日壊滅した。 本日の用件は探索ではない。二部隊がここに到達したことによって四人の陸上自衛隊工兵隊の護衛が可能になったため、この階層における送電と電話の設備を完璧にするのが目的だった。 迷宮内部の第一〜三層には各所に電気照明と地上への直通電話がセットされているが、それは当然もとからあったものではない。こうして探索者たちの部隊の護衛を得て自衛隊が設置しているのだ。軍人が民間人に護衛されるあべこべの構図はこの迷宮にふさわしい。 そうはいっても星野幸樹(ほしの こうき)はその階級が示すように陸上自衛隊に属する軍人である。安定した探索活動を推進するために自衛隊から派遣されているいわば雇われ探索者である。そういった軍人が、現在迷宮街には三人存在している。最初に派遣された五人の自衛隊員は星野を残してすべて殉職してしまったが。 星野の名を呼んだ女性隊員は壁の前に立っていた。壁は一部が崩れ、その向こうには真っ暗な、しかし広がっている気配は感じられる空間が見える。 「鳥羽一曹か。何か?」 「先ほどこの周辺は終了とおっしゃいましたが、この先はよろしいのですか?」 怪訝そうな声も仕方のないことだ。壁の崩れは十分に人が通れる隙間があるし、ライトで覗き込む限りは地面は——すこし低いようだが——しっかりとある。探索すべき場所だった。その崩れ目を、強烈なエーテルの流れがゆきかっていなければだが。迷宮内に充満しているエーテルとはそれを使って魔法使いや治療術師は奇跡を起こすし怪物は自分の宝物をそれを使ってくるみ保護する未だ正体不明の物質だったが、それだけではなくこのように一見通れるような空間を遮断したり、一方通行しかできない空間を作り出すこともあった。 この崩れ目を遮断するエーテル流に関しても星野の部隊の罠解除師である伊藤順平(いとう じゅんぺい)は何度も調査していた。ここ数ヶ月、罠の解除に失敗したことのない彼は迷宮街でも明らかに五指に入る罠解除師だったがその伊藤にしてもさじを投げたのだ。つまり、今の情況では通れないということになる。 しかし、と疑問に思った。エーテル操作に対して素人もいいところの自分ですら気づけるこれだけの障壁を彼女は気づいていないのだろうか? 「鳥羽、この崩れた部分に異常を感じないのか?」 「いえ、特に、何も」 第三層にもこのようなエーテルの変調個所は随所にあった。それはすべて、彼ら自衛隊員にもなんとなく認識されていたはずだ。それが、気づいていないとは——。 思考は産毛の立つ感触でさえぎられた。何かが自分を包んでいる。それが目の前の障壁と同種のエーテルであること、しかし明確な敵意がこもっていることに気づき周囲を見渡す。同じように緊張している探索者が二部隊十二人。そして棒立ちになって何も気づいていない四人の自衛隊員。 ——感じられないのか? 彼らには? エーテルが鳥羽一等陸曹の背後に集中した。見る間にそれは人の上半身をかたちづくり、たくましい両腕が鳥羽を抱きしめた。鳥羽が痙攣した。は、は、は、は、と粗く息をつくその唇が、肌が、休息に干からびていく。水分が抜かれていくより、どんどんと老婆になっていくように見えた。年齢は彼より若くまだ二七歳だったと思う。 彼女の名前を叫ぶ声と踏みこんだ斬撃とは同時だった。歴戦の戦士の切っ先は鳥羽を抱きしめるその腕を切断し、返す刀を頭蓋に振り下ろす。エーテルが実体化しただけの存在は、物質化したまま床に叩きつけられた。鳥羽の身体を抱えたまま。 「星野さん! 敵です! 警戒を!」 自衛隊を護衛していたもう一部隊のリーダーである高田の声が響いた。同時にその背中の向こうに火の海が発生した。 のっぺらぼう、ということは死体食いがいるはずだ。そして向こうは尼さんか——。 のっぺらぼう、とは鳥羽を殺した化け物で、正式名称はシェイドという。高い確率で、腐肉を常食にするロッティングコープスという化け物を従えている。魔法使いである高田まり子が焼き払ったのはプリーステス、という小柄な治療術者だった。とはいえ人間とは明らかに生物学的に違う、単なる二足歩行で高い文化をもつ生物なのだが。 彼らは二つの集団に襲撃を受けたのだった。 熱風が星野の背中を叩いた。そして「死体食いはすべて倒しました」という静かな声が続く。彼らの魔法使いがロッティングコープスの群れを焼き払ったらしい。これで戦闘は終結かと思った瞬間、意識をかく乱された。脳と手足の距離が遠くなったようなそれは、何か非常の力で延髄周辺の信号の流れが阻害されたときに起こる。 ——金縛り! まだ魔法使いがいたらしい。 「星野さん! 緑龍です! 二匹!」 ガスドラゴンと呼ばれる、ワゴンカーほどの大きさがあるトカゲだった。全身はくすんだ緑色のキチン質に包まれており、口からは高温の硫化水素ガスを吐き出す。いま彼らに金縛りの術をかけてきたように初歩の魔法を使うことすらできる。先手を取られたらまず生還は難しい難敵だった。それが二匹も。頭をふって意識を取り戻し、高田の方を向いた。 二つの巨大で緑色の影がわだかまっていた。そしてその前には高田の部隊。しかし前衛たちが剣を抜いていない。揃って金縛りになってしまったようだった。 ここから剣を抜いて駆け込んでもそれまでに一度は硫化水素の洗礼が下される。これまでに数度の戦闘を経ていた彼らでは死者がでることが予想された。星野は右の腰に作った隠しポケットから拳銃を引き抜いた。 銃声は四度。 一匹に対して二つずつ、鉛の弾丸がその脳を破壊していた。地響きを立て、緑竜は前のめりに倒れた。 星野と高田が号令をかけ、自衛隊の三人を半月形の陣で囲みこんだ。しばらくして高田が息をついた。 「助かりました、星野さん」 星野はうなずきを返しただけだった。終わってみれば鳥羽が死んだだけの損害だ。もちろん同僚を失ったのは悲しいことだが心動かされないくらいには死を眺めてきている。 それよりも気になることがあった。彼らなら気づけたのっぺらぼうの来襲に自衛隊員たちが気づけなかった理由はなんだったのか。星野は鳥羽の死体を前に震えている若い隊員の肩を叩いた。そして、崩れ目を指差してあそこになにが見えるかと訊いてみた。 「いえ、暗くなってますから」 「風景がゆがんだりはしていないか」 「特に、何も」 「そうか、ありがとう」 星野はうなずいた。この階層ではもはや、素人では危険を感じることすらできないらしい。 真壁啓一の日記 十一月十二日 昨日じっくりほぐした甲斐もあって筋肉痛はほぼ解消していた。 午前中は訓練場で青柳さんと打ち合う。津差さんは仲間の妹さんが迷宮街にきているらしく、京都観光に運転手として同行しているとのこと。せっかく京都に来ているのだから、俺も観光したほうがいいだろうか。みどころはありますか? と青柳さんに訊いたら案内してくれるとのこと。何しろ彼はもともと京都のお坊さんだから、いいお寺をたくさん知っているのだ。明後日は青柳さんと、青柳さんの恋人といっしょにドライブをする約束をかわす。楽しみだ。 ここに来てからずっと張り詰めていたから少しはゆるめることを考えないと。山陰の方に釣りにでも行こうか。 十一月十三日(木) 迷宮街・東西大通り 十五時五二分 迷宮街の中心はなんといっても中央を東西南北に走る大通りだ。二車線通りのそれは東西南北にそれぞれ三キロほどで中央で交差している。迷宮街の外からそこに入るのは西口しかなく、入るには身分証明書のチェックが、出るには荷物の検査が必要なのでそこでは常に渋滞がおきていた。普段なら気にならないそれにも津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はうんざりする思いだった。原因は助手席と後部座席に乗っていた。 助手席に座る男が津差の部隊の魔法使い、内藤海(ないとう うみ)で、後部座席にいるのがその妹の内藤陸(ないとう りく)である。この二人、先刻金閣寺で派手な口論をして以来口をきいていなかった。津差は面倒見のいいほうだったからなんとか気分をほぐそうと二人に話をふるのだが、まだ二十歳前の兄妹はそんな津差の気持ちを無視してむっつりと黙り込んでいた。 朝の八時に出発し、とりあえず鞍馬温泉で雄大な鞍馬山を眺めつつ湯につかって一息入れた。昨日は京都南部だったから、今日は北部だった。平安神宮、青蓮院、昼食は嵯峨野で湯葉料理、金閣寺でしめだ。陸は楽しそうにいちいちおみくじを引いていたし、それを眺める兄もうれしそうだった。津差も運転手の甲斐有りと満足していたのだが——ひとたび話題が発火点に触れたらもう止まらなかった。発火点とは、いつ頃まで大迷宮で探索を続けるのかという問いだ。兄を慕っている妹としては本心では危険なことをしてもらいたくはないし、裕福な(単なる大学生に過ぎない陸の持ち物や、兄妹のしぐさなどから津差はそう推測していた)家庭に生まれておいてどうして・・・という釈然としない思いもあるのだろう。言葉には心からの思いやり、そして親しい人間を失うかもしれないという恐怖感がこもり、それが本来なら年長者としてなだめなければならなかった津差を金縛りにした。 切々と語られる妹の言葉にかたくなになった気持ちは津差にもよくわかる。自分たちの目の前に高確率の死がある以上、それを避けずにこの街に残る理由は二つしかない。自分だけは死なない、か死を覚悟しているかだ。たった二度迷宮に潜っただけでも死なないとは考えられなくなっていた。しかし後者は親しい人の「生きていてほしい」という思いを拒絶することになってしまう。 ゆうべ、津差がその二択を選んだ相手はどんなに親しくても血縁ではなかった。だから断腸の思いではあっても「自分のことは忘れてくれ」という言葉を告げることができた。しかし家族は違う。血のつながりは否定できず、縁を切ることで思いを切り捨てることはできない。 「俺がここに来たのは新しい世界を見たかったからだよ」 内藤がぽつりと呟いた。 「死にたいからでも強くなりたいからでも金を稼ぎたいからでもないんだ。穏やかな生活では得られないものがあると思ったからここにやってきて、今のところ目に映るものすべてに満足している」 声の調子でわかるのだろうか。妹はじっと耳を傾けていた。 「二日もぐってわかったが、第一層にいたら仲間に恵まれて慎重な行動をすれば、命に危険はないんだ。そして、本当に危険な場所まで下りるようになる前に——津差さんには悪いけれど——俺は抜けようと思う」 「・・・本当に?」 「ああ、約束する」 力強い答えにほっとした空気が車内に流れた。ふと視線を左側の歩道に移すと見慣れた後姿があった。原色に近いツナギの集団が立ち話をしている。迷宮街広しといえども他に類を見ない色とりどりの一群である。おお、とあげた声に助手席の内藤も気づいた。 「笠置町軍団ですね」 「ああ。無事に帰ってきたらしい」 「陸。あそこにいるのが俺たちと同じ時期に来た探索者だ。今日一仕事終えて帰ってきたところみたいだ。見てごらん、ぴんぴんしてるから」 後部座席の妹が左側に場所を移す。迷宮街中央に位置するロータリーに少しだけ進入し、彼らに一番近くなるように車を止めた。窓を開けて身を乗り出した内藤が声をかける。 その声に振り向いたのは明るい青のツナギを身につけた笠置町葵(かさぎまち あおい)だった。普段は元気のいいなその顔は固くこわばっている。その顔がぱっと輝いたかと思うとよかった! と他の仲間を振り返った。 「津差さんと海くんだよ! 病院まで運んでもらおう!」 病院? 何事? と混乱しながらも、勢いに押されるように陸が後部ドアを開けて場所を作った。そこに入り込んでくるのは、どす黒い地下の化け物の返り血ではなく、赤い自分の血で顔を汚した真壁啓一(まかべ けいいち)だった。彼を真中まで押し込んで、葵の姉の笠置町翠(かさぎまち みどり)も乗り込んでくる。 「すいません津差さん! 病院まで!」 「あ、ああ」 反論を許さないその言葉に気おされて、車を再発進させてロータリーの流れに乗る。何事ですか? という内藤の問いに、真壁が頭を打って嘔吐、昏倒したので念のため検査を受けさせるのだと答えが返ってきた。バックミラーに映る真壁の顔はぐったりとして生気が感じられない。それまで歩いていたし意識はあるようだが、充分危険な状態に見えた。 南北通りを北に走るようにロータリーを抜けるとき、確認のために覗き込んだサイドミラーに後部座席の陸の顔が映った。彼らが乗り込んでから一言も発していなかったので存在を忘れていたのだ。彼女は突然やってきた怪我人に呆然としていた。その顔は真壁よりもさらに生気がない。血で汚れた真壁の顔に誰を重ね合わせているのか手にとるように想像できた。 ええい、愚図が! 自分か、啓一か、誰をののしったのかはわからない。アクセルを踏み込んだ。 真壁啓一の日記 十一月十三日 後頭部には大きなたんこぶ。触るとまだ痛かった。明日になれば、児島さんがもう一度治療してくれるらしいのでそれまでは我慢しないと。今日は横を向いて寝るようかな。 迷宮探索も三日目で、最初の頃よりはるかに度胸もついた。さらに、俺たちの魔法使いは他の新参の探索者よりもはるかに多数回魔法を使えるという事情もあり、快調に四度の戦闘を無傷でこなしていた。 慢心があったのかもしれない。五度目の戦闘で、アンデッドコボルド、通称骸骨という死んだ青鬼がまだ動いている化け物と戦っていたときのことだ。この階層の敵の剣筋はすべて見切れていたので軽々とかわして踏みおろした左足が突然滑った。あとで翠に聞いたところでは、俺たちがツナギの補修用に持っている布切れ、それが二枚重ねられて放置されていたらしい。左足を持っていかれて俺は背中から転んだ。そして後頭部の向かうところに拳大の出っ張りがあった。俺たちがかぶっているヘルメットには両脇と後ろにツナギと同じ分厚い生地のガードが垂れている。それがなかったら死んでいたかもしれない。その布地のお陰でどうにか俺は気を失わずにいられた。骸骨に腹を向けるように転倒した俺に対して、骸骨が切りかかった。腹を刺されていたら危なかったと思う。しかし切りかかってくれたので、刃は肩口を軽く切ったところで地面に切っ先がぶつかり止った。俺は必死の思いで左手にナイフを握り、剣を持った腕(骨にわずかに肉がこびりついているだけだったが)をつかんで引き寄せ、頭蓋骨を弾き飛ばした。 そして片膝をついたまま頭痛と肩の痛みに耐えていた。残りの骸骨を翠が両断したのを見届けて、俺は四つん這いになると思い切り吐いた。そして意識を失った。 目がさめたのは迷宮街のはずれにある診療所のベッドの上だった。おそらく俺の血だろうが、それが髪にこびりついたままの翠が視界に入ってきた。その後ろにはなぜか津差さんと彼らの仲間の魔法使いがいた。そしてまた視界が暗転した。 次の記憶はもう日が暮れたあとだった。一応一室与えられているもののそこには入院の準備などまったくないことにほっとして、とにかく診療所の人に事情を聞こうと立ち上がったら青柳さんと翠が入ってきた。先ほどはツナギだった翠はもう着替えており、髪も洗われているようだったから、結構な時間寝ていたようだった。二人ともほっとした表情を見せた。CTスキャンの結果もレントゲンの結果も問題なしとわかっていたが、そして規則正しい気持ちよさげな呼吸だったが、ゆすっても起きないのでは不安だったろう。翠も、部屋の外にいた葵も目を赤くしていてくれたことに少し胸がつまる。 支払いを終えて木賃宿に戻った(もちろん迷宮街の医療は保険対象外で、今日の稼ぎはすべて吹き飛んだ)。個室を取ればいいのにと青柳さんが薦めてくれたが、体調はすっかり回復していたから普段どおりモルグに向かった。着替えて(着替えその他の荷物は毎朝荷造りして、木賃宿の受付で保管してもらうことになっている)血で汚れてしまい、肩口も大きく裂けてしまったツナギを道具屋に預けた。こうすれば、三日後の朝には綺麗に修繕して洗濯して渡してくれるのだ。小林さんが受付だったが特に何も話さなかった。数日前の織田さんの言葉がまだ耳に残っている。 木賃宿に戻ると津差さんが俺を待っていた。朦朧としていたからゆっくりとしか歩けなかった俺を診療所まで車で運んでくれたと聞いていたのでお礼を言うと、じっと顔を見てからちょっと付き合え、と北酒場に連れて行かれた。 北酒場には津差さんの仲間たちと、内藤くんという魔法使いの妹さんがいた。どうして俺を誘ったのかわからないが、しきりに怪我の状況を質問されて、俺が転んで頭を打ったことを話し、二度目に目覚めたときは昼寝をしたあとだから却ってすっきりしたくらいだったと言ったらほっとしたように笑っていた。そして「今回のことはドジで、周りが大騒ぎしただけだな」と結論付けられた。なんとなく釈然としない。あれはドジというより不可抗力だったし、頭を打った以上慎重に行動してくれてありがたかったと思っているから。でもいつもの慎重さと思いやりを見せず笑い話に終わらせようとしている津差さんが不思議に思えたので黙っていた。 内藤君の妹さん(陸さんという。内藤君が海という名前だから、おそるおそる「空はいるの?」と訊いたらお兄さんがそうだと答えた。なんて親だ)は二日京都を観光したらしい。どこかお気に入りは? と訊いたら青蓮院を薦めてくれた。青柳さんに頼んで明日のコースに入れてもらうとしよう。 十一月十四日(金) 真壁啓一の日記 十一月十四日 六時に起床。訓練場のグラウンドを三〇分歩き、三〇分走ってから二時間ストレッチをした。今日は午前中から観光だからできるときに身体を動かしておかないといけない。シャワーを浴びてご飯を食べて青柳さんとの待ち合わせ場所に向かうと、青柳さんと同じ日に迷宮街にやってきたという神崎圭介(かんざき けいすけ)さんが一緒にいた。一八〇センチくらいある青柳さんと同じくらいの身長だが、四肢は断然細い。年齢は二五歳で、細長い顔に切れ長の目が印象的なモデルみたいな美男子だった。自己紹介したところ俺のことを知っているようだった。俺ももちろん神崎さんを見知っていた。俺の理由は美男子だから、だが彼が俺を覚えている理由はそうじゃないだろう(正反対のものかもしれない)。 迷宮街には日本レンタカーの迷宮街支店がある。三日に二日はヒマな探索者、懐も暖かいとなれば上客なのだろう。だから車を借りるのかと思ったらそうではなくそのまま外に出た。外には青柳さんの恋人が待っており、赤のヴィッツの中からクラクションを鳴らした。 久保田早苗(くぼた さなえ)さんは青柳さんとは高校のクラスメートだったとのことだ。その頃は親しくはなかったが青柳さんが僧侶だった頃にお経をあげた家でばったり再会したらしい。「学生時代も五分刈りだったから、剃ってても違和感なかったわよ」という。ちなみに今の青柳さんは一センチくらいの短髪である。久保田さんはよくしゃべるひとだった。滋賀県の大津で生まれ育ったというその言葉遣いは、生粋の関西人には聞き分けができるらしいけど、俺には単なる京都弁に聞こえる。かすかに高い声で滑らかに語られる京都のお話はとても興味深いものだった。彼女の親戚が祇園で料亭を営んでいるらしく「夕ご飯はそこで」なんて言ってくれた。 京都入門編ということで訪問先は銀閣寺、清水寺、伏見稲荷というところに俺がリクエストして青蓮院を入れてもらった。伏見稲荷では久保田さんのお友達の巫女さん(名前は忘れてしまった。巫女さんの衣装だからかもしれないけど、きれいな人だった)にお茶をご馳走になった。お茶をいただいていいるのは三〇分くらいだったけれど、神崎さんがさっそく巫女さんから電話の番号を聞きだしているのが印象に残った。そっかー。美男子は自信をもってアプローチするから、俺のような不細工とはさらに差が開くんだ、とあたりまえのことを実感したり。 内藤さんの妹さんに薦められた青蓮院は非常に落ち着ける庭園だった。ここは通うことにしよう。抹茶もおいしかったし。 神崎さんは非常に愉快な人だ。寡黙であまりしゃべるほうではないのだけど、訥々と毒と機転がこもったことを言う。しばしば文学作品の引用をするのにそれが嫌みったらしくないのは膨大な読書量に裏付けられた知識の中から最適なものを選んでいるのがわかるからだ。おれとは三年の差でこんなになれるかと考えると否応なく背筋が伸ばされてしまう。 三時になる少し前、青柳さんが「現金で五万くらいなかったら、おろしておいたほうがいいよ」と笑いながら言った。またまたー、とこちらも笑いながらやりすごした。三万はあったからだ。 えーと、青柳さんに借金一万五千円だな。明日一番で返そう。 訓練場・教官室 一二時二五分 鹿島詩穂(かしま しほ)はキーボードを叩く手を止めた。画面にはたくさんの名前の羅列がある。来場試験にパスした探索者全員の、魔法使いの素養を判断した記録だった。昨日は合格者ゼロ。残念だが、体力テストにパスする人間が日に一〇人程度なのだから珍しいことではない。そろそろ昼食にしようか、とぼんやり考えたところで脳裏に警報が鳴り響いた。 訓練場に併設された事務所の中、魔法使いの訓練の責任者である鹿島に与えられた個室である。訓練場の一角には魔法使いや罠解除師、治療術師が訓練するために人工的に高い力場を作り出している境内と呼ばれる場所があるのだが、そこよりもはるかに濃密な力の集中が目の前で起こっていた。 迷宮街で日々探索に励む術師たちは、地上ではその力を使うことができない。それは彼らの力の源泉が迷宮内に充満するエーテルと通称される物質だからである。彼らとは比較にならず高い能力を誇る鹿島だったがそのこと自体は変わらず、地上で奇跡の技を振るうためにはエーテルをどこからかもってこなければならなかった。実をいえば小さな火の海を生む魔法程度だったら精神力だけで必要なエーテルを集めることができる。しかしそれは大変な疲労をもたらすことだ。だから緊急時はエーテルを固形化して保存した触媒と呼ばれる物品を利用する。 そういった常識とはかけ離れたことが目の前で起きていた。迷宮内部よりもさらに濃密なエーテルがどこからともなく集められたのだから。それも一瞬で。 それがさらに凝縮され、なんらかの形をとり始めた。鹿島は右手をタイトスカートのポケットにさしこみ、中から黒光りする碁石を取り出した。硬質に光るそれは鹿島のマニキュアもあでやかな指先でこなごなに砕かれた。破片は地面に落ちるより早く気化し、むっとする感覚があたりを満たす。これで一度だけ術を使うことができる。脳裏に像を描いた。 ここが平地だったら強力な火の海を発生させるハデで確実な魔法を使うことができたものの、こんな部屋で使ったらスプリンクラーは当然作動し書類は燃えるか濡れるかし、徳永という男にこっぴどく起こられてしまう。それ以前に充満する炎で自分まで丸焼けになってしまうだろう。そこで選んだのは、一定範囲の生き物を窒息させる魔法だった。空気中のみならず肉体の中に蓄えられている酸素まで破壊してしまうために生き延びても全身に障害が残ってしまう禁術のひとつである。しかし侵入者を撃退してなおかつ周囲に被害を及ぼさないものはほかにない。四の五の言っていられる場合ではなかった。 「おひさしぶりね、詩穂」 のんびりとした声が人間の形をとりつつあるエーテルから漏れ、鹿島は全身を脱力させた。 「脅かさないでください、茜さん」 そう言って緊張を解く。言葉が終わる前に高密度のエーテルは物質化した。一人の人間の姿をとって。 四〇代後半の小太りの女性だった。地味だが上質なスーツに身を包んでいる。穏やかで愛嬌のある笑顔を浮かべていたが、それが不意にこわばった。 「やだ、わたし殺されるところだった?」 かすかに残るエーテルのありようから、鹿島が何をしようとしたのか悟ったのだった。さすが、と舌を巻いてしみじみと眺める。この中年女性の名前は笠置町茜(かさぎまち あかね)という。迷宮探索事業団の理事であり、おそらくこの国でも五指にはいるであろう魔法使いだった。 「いきなり飛んでこられたらこちらだって警戒いたします」 「え? 今朝メール送ったじゃない」 「そうでしたっけ? ・・・あら、今日チェックしてなかったわ。——まあそれはいいとし」 「よくないわよ」 「それはいいとして、今日はどういったご用件でしょうか? 隆盛さんがご一緒していらっしゃらないということは、私的なものですか?」 彼女の双子の娘が迷宮街に来ていたはずだ。授業参観だろうか。 「旦那は明日来る予定。私は用事がなかったから今日からきたの。——星野くんのレポートに関して」 なるほどと心の中で納得した。自衛隊員で探索者である星野幸樹(ほしの こうき)から先日報告書があげられたのだ。そこには第四層では迷宮に慣れていない自衛隊員では危険を察知できないことが記されていた。少しずつ探索してはインフラを整備して、という漸進的な探索が前提である以上自衛隊の協力は不可欠だったが、彼らが危険を察知できないとなるとその生存確率は著しく低くなる。血税で育て上げた貴重な人材を志願者と同じような消耗品とみなすわけにもいかず、であるなら彼らを危険から守る何らかの対策が必要なのだった。たとえば効率よく迷宮内部の空気を読むコツを教えることでもいいし、もっと厳重な警戒態勢を敷くのでもいい。とはいえ前者の方法は思い浮かばなかった。迷宮街には基本四職業の達人が常駐しているので鹿島を含んだその四名が自衛隊の護衛に加わるようにしようか、という相談が成されていたところだった。しかし理事たちは自分たちが乗り出すことに決めたらしい。 「いかがなさいますか?」 「ちょっとした仕掛けを作ろうと思ってね。自衛隊員だけじゃなく、普通の探索者の能力底上げにも役立つような訓練施設を迷宮内部にも作るつもりよ。地上に作るのは大変だからね。——うーん、毒気を抜いたり小さく吹雪を作ったりといった術を使える人間をリストアップしておいて。何人くらいいそう?」 挙げられた魔法の名前はかなり難易度の高いものだった。そこまで達しているのはリストアップするまでもなく数えられる程度だ。 「八部隊二四人というところだと思います。あとは私と久米さん、洗馬さん」 「そしてうちの葵ね。二五人・・・旦那もくわえればなんとかいけるかな。その連中に、来週水曜日に潜れるように調整しておけと連絡してください。これは命令で、報酬は一人二五万円。できれば前二日は訓練も控えて気力を充実しておくようにって」 「二五万! 私もいただけるんでしょうか?」 小太りの魔女は吹き出した。 「あなたには私の補助をしてもらうから、もう少し多くなるわよ。その代わりしんどくなるわ。覚悟して」 十一月一五日(土) 鈴木秀美の電子メール ユッコにアキ、元気ですか。秀美さん(最終学歴高校中退)です。常々「わたしは選ばれた人間なのよおほほおほほ」と選民意識をふりかざしていたアタクシですが、こんなことなら選ばれた人間じゃなかったほうがよかったよ。ここ寒すぎ(気温かよ)。 火曜日の朝、五時八分和歌山市発の電車に揺られてここ迷宮街にやってきました。初日から体力テストをやるって、それはけっこうきついテストだって知っているのにうちの両親ったら「わざわざ前日泊まるほどでもないだろ」って。これからは「わたしは橋の下で拾われた子なのよ」とネオ選民意識をもつことにします(選民?)。あの人たちにはほんといいかげんに目を覚ましてほしいよ。 試験は楽勝! でした。そりゃネオ選民だから(橋の下で労働をしてきたに違いない)。二人ともついに信じなかったけど、私は本当に忍者の子孫なのですよ。子供のころに伊賀の里で行われた忍者コンテストのマスコットキャラになったこともあるサラブレッドなのです。ご先祖様だって『信長の野望』に出てるんだからね。手裏剣投げられます。煙幕使います(ねずみ花火だけど)。壁とか走れます(それはムリ)。そんな私だから(どんなだ)テストも簡単なのです。 そうそう! ナンパされました! それも初日から! 残念ながらあんまりかっこよくはなかった、っていうか二人とも見てないんだから書き放題だね。すごくかっこいい男の人です。大学生くらいかな? テストの休憩時間に声をかけてきました。まあ顔はともかく(かっこいいいんじゃなかったのか/嘘つくつもりなし)明るい雰囲気の人だったよ。「わからないことがあったら教えてあげられるよ」と名詞をもらいました。なくしたけど(なくしたのかよ)。いい調子だね。この分には来週にはもう彼氏ができていることでしょう。お先〜。 念願の一人暮らし! ということでホテルにずっといないで部屋を借りようと思います。迷宮街にはアパートがたくさんあって、最低限の家具はもう備え付けになってます。よくあるウィークリーマンションのコマーシャルみたいに洋服さえあれば暮らし始められるってやつです。でもワンルームがないので連絡掲示板にシェアメイト募集の張り紙を出しました。同じように住みたいけど二部屋あっても・・・って女の人は多いと思うんだよね。どうでしょう。あ、でもみんな遊びに来てほしいから一人で広いとこ借りたほうがいいのかな? えーと。 そうそう。どうしてこんなに連絡が遅れちゃったかといえば、新品のはずのパソコンに問題が起きたのです。あれだ。マシントラブルってやつ? 無事解決したのでようやくメールを打てました(えへん)。二人とも、パソコンの電源を入れるときはフロッピーディスクは抜いておいたほうがいいよ。うんともすんともいいません。まいったよ。 それから、どうせ二人には探索の詳細なんか興味ないと思うけど、こっちでは一人で地下に下りたりはしないみたいです。六人を上限として仲間を集めなきゃなんないのね。仲間の見つけ方は事務所に登録しておくこと。そうすると携帯に事務所から連絡が来て、一室でお見合いをすることになります。私のほうも決まったよ。恩田信吾さんっていう男の人です。二二歳だって。この人はちょっとかっこいい感じの人です。パソコンにも詳しくて、問題を解決してくれたのもこの人なんだ。いまは恩田さんが他のメンバーを探してくれています。かっこいいんだけど、ちょっと暗い感じ・・・というか思いつめてる感じ? が怖いかな。えーっと、ストーカー気質かも(ひでえな)。ミステリアスともいうか? 私といえば、仲間探しを恩田さんに任せてのんびりしています。 あ、あと恩田さんは東京の人みたいで言葉遣いが冷たいです。お店の人とかは地元の人だけど、全国から集まっているからね。ここはほんとに京都か? と思います。「〜じゃん」とかほんとに言うんだよ聞いてると。びっくりしたよ。関西に来たなら関西弁使え! って思うんだけどね。共通語と口論はしたくないんで我慢してます。だって、あいつらこわい。きっと会話の内容メモしてる。で、あとで「何年何月に君はこういったジャン?」とか言われちゃうんだきっと。 えーと、まあそんなもんだ。みんな元気かな? まあ金曜まではいっしょに遊んでたんだから(勉強しろよ)元気だろうけど。私は元気です。メールちょうだいね。ではでは。 真壁啓一の日記 十一月一五日 収入は増えているのに支出も増えている・・・まあ、貯めこんでも墓場までは持っていけない(冗談抜きで)ので、必要な分は出し惜しみせず使うとしよう。日本経済にも貢献しないとな。実際のところ祇園では売上が上がっているらしい。 今日は目新しい訓練をはじめた。一昨日の怪我を思い出すたびにバランス感覚が大事だと思ったからだ。あと受身。受身は橋本さんに教わって、バランス感覚としては訓練場の端っこに転がっているバランスボールを使ってみた。 学生時代から親しんでいるから立ち上がるのは簡単だった。しかしその場で剣を振ってみるとうまくいかない。何度も転げ落ちているうちになんだ? と人が集まってきた。それはちょっと無様すぎないか? と笑う津差さんに場所を譲ったらすごい音を立てて転げ落ちた。そう。慣れていない人間にとっては上に座ることだって難しいのだ。教官の橋本さん軽々と飛び乗って目にもとまらない速さで木剣を振り回し始めた。これにはみながぽかんと口を開ける。 実際にできるとわかってみれば、さすがに身体を動かして飯を食べている連中だ。七つあるバランスボールは常に順番待ちになってしまった。そうしているところに翠が入ってきた。ボールに乗っては転げ落ちている男たちをぎょっとしたように眺め、なにやってんのと訊いてきた。橋本さんが「バランス感覚の訓練だ」と答える。「真壁さんやったほうがいいよ。平地で転ぶような人には必須でしょ」・・・はい。わかってます。 すでに翠は迷宮街屈指の剣士として名を知られている。ちょっとやってみたいという申し出には第一期からいる先達がすぐ飛び降りた。このあたりは年齢ではなく実力がヒエラルキーを形作っているのだ。 おそるおそるバランスボールの上に正座した。すぐにぴたりと身体が止まると慎重に片膝を立てる。難しいね! と笑いながらすっくと立ち上がった。見物人からどよめきが起きた。促されて木剣を手渡す。ゆっくりと青眼に構え、振りかぶり、振り下ろす。剣を振るっている姿はいつも見ているはずなのに、ゆっくりと素振りをする姿になぜか、きれいだ、と思った。 夜、北酒場で食事をしていたら笠置町姉妹が入ってきた。ご両親らしい方々と一緒だった。声をかけようと思ったけれどできなかった。二人とも俺よりも背が小さいくらいだったのに、そこにいるだけで気おされてしまったのだ。一緒に食事をしていた恩田くんも同様だったらしく、一家が座るまで目を離せないように凝視してからすげえなとだけ呟いていた。まったく同感だった。ところが恩田くんと部隊を組むという罠解除師の鈴木秀美(すずき ひでみ)さんという子は「ああ、あれが」といった風情で何も感じられないようだった。俺たちが、地下に潜って強さを感じられるようになったということかな。 そうそう。鈴木さんは何日か前に訓練場で見かけた女の子だった。やっぱり合格したらしい。俺が声をかけたのをナンパだと思ったと笑っていた。彼女は先日まで女子高生だったとのこと。どうしてこんなところに・・・と訊いたら「卒業を待っていたら第二期募集が終わっちゃうかもしれないから」と答えが返ってきた。高校に通っていたのなら親御さんに食べさせてもらえるだろうに、そういう状況を捨ててまでここに来るというのはすごいことだと思う。 悲しいことだとも、思う。 笠置街姉妹のアパート 二三時一九分 就寝前の日課として念入りに筋を伸ばしていると、ドアが開いて双子の妹が声をかけてきた。 「翠、真壁さんがきれいだって」 「はあ?」 「日記に書いてある」 「・・・あの人、私がアドレスを知っているって想像はできないのかな」 「いや、むりでしょ。っていうか知ってても無邪気に何でも書きそう」 「ああー、そうだろうねー」 開脚したまま上体を前に倒した。細く長く息を吐いた。 十一月一六日(日) 迷宮街・出入り口詰め所 一四時七分 「うーわー」 と間延びした声を聞いて、桐原聡子(きりはら さとこ)は振り返った。仲間の戦士である大竹真二郎(おおたけ しんじろう)がホワイトボードの前で口をあけている。 「タケ、どした?」 「いやあ、これこれ。さっちん、これ見てよ」 指差したホワイトボードに書いてあるのは、今日これまで地下に潜った探索者の名前と目標地点だった。 迷宮内部での生死に迷宮事業団では一切関与しないとはいえ、帰還しなかった場合に地上の家族たちに「たぶん死んだんじゃないかな」くらいのことは伝える必要がある。そのために地底に潜る部隊にはこのホワイトボードに入場時刻と部隊員姓名、そして目的地を書き残すことが奨励されていた。また、事業団で何もしないからこそ探索者相互の絆は強い。こうやって書き残しておいたお陰で自発的な救助活動が行われるケースはしばしば見られたからほとんどの部隊が書いている。 すでに一四時を越えているそこにはずらりと二〇部隊近くの名前が並んでいたのだが、大竹はそれに驚いたのだった。そうか、と桐原は納得する。第二期募集が開始して迷宮街の探索者の総数が増えたのは二週間前。大竹はその間出張だとかでここに来ていなかったはずだ。 「第二期の募集が始まったんですよ。大竹さんは今朝着いたでしょ? 俺もゆうべ、北酒場のあまりの盛況に驚きました」 桐原の代わりにそう答えたのは、同じく前衛の高村悠太(たかむら ゆうた)だった。 「前衛二人とも、ここ二回潜ってなかったの? ナオと国村さんは先週いたよね」 ほっそりとした二五歳くらいの女性と大柄な少し年上の男性がうなずいた。 「俺は先々週に潜ってます」治療術師の武智健司(たけち けんし)が手を上げた。 大竹と高村が顔を見合わせた。 「俺は三週間ぶり」 「俺もです」 「中国だって?」 「ええ、部品の買い付けで。大竹さんは?」 「俺は宮崎」 「はいはい」 まるで週末の居酒屋のような会話を止めて、全員を向かせた。小さくはないメーカー企業の販促チームを日々仕切っているからだろうか、迷宮街でも彼女がまとめ役になっていた。 「タケとユウがなまっているから、今日は第二層だけにしておこうと思うんだけどどうかな?」 同意をこめたうなずきが五人から返ってくるのを確認し、桐原は白板に全員の名前を書き入れた。そして『一四一〇〜 第二層北部』と。 「じゃ、始めましょうか。よろしくお願いします」 唱和される声。大竹を先頭に階段を下り始めた。 彼女たちは迷宮街でも少数派の『週末探索者』と呼ばれる者たちだった。きちんとした収入源をもっており、ここには週末だけ訪れる。目的は千差万別で小遣い稼ぎもいればストレス発散もいるし、スリルを楽しみに来るものもいる。桐原は運動不足解消だ。二九にもなると、週に一度は心身を酷使して疲れてぐっすり眠る夜がないと肌はどんどん衰えてしまうから。 彼らには高尚な理由も切迫する理由もない。週末にテニスをするか映画を観るか化け物を殴り殺すか、それだけの違いだった。   真壁啓一の日記 十一月一六日 四回目の迷宮探索も無事に終了した。今日は第一層の北東部をくまなく歩き回った。実際にこれを読んでいるだけの人たちには「一日三〇部隊以上潜っているんでしょ? どうして化け物が尽きないの?」という疑問があると思う。東京の友人たちはそう感じるらしいから今日はそのあたりのことを書いてみたい。 怪物たちの生態についてはほとんどわかっていない。外見からして性別があって生殖しているんだろうとは思うけれどそれはまだ確認されていない。ただ、コボルドの死体を探ったら乳房が六つあったという記事がバインダーに書いてあったから人間よりは繁殖力は高いのではないかと思える。人間よりも高い繁殖力を持ちおそらく成長も早いと仮定したとして、どこで繁殖しているのかという疑問がある。友人からは「全部地図ができてるってことは、もうしらみつぶしにされているんだろう? 巣とかは見つからなかったのか?」と聞かれた。確かに俺の文章だけじゃそういう想像もできるだろうな。 迷宮、という文字がたとえばギリシャ神話でミノス王が築いたもの(きっちりした煉瓦造りで抜け穴などない)を想起させるのだとしたらその名前は適当じゃない。言葉のもつイメージを優先させるのならば内部の雰囲気は洞窟だ。もっと近づけるなら佐渡鉱山だろうか(限定的すぎますか)。進む道は基本的に広いが壁は溶岩を思わせ、鉱山跡には身をよじらないと入っていけない横穴がたくさんあるように、ここにもたくさんの横穴がある。そして化け物たちはそこからやってくるのだ。たぶんあそこの岩盤を掘削したら化け物たちの巣が多数見つかるんじゃないかと思う。もちろん他に進める道がある限り掘削する計画は立てられない。迷宮探索は経済活動で、俺たちは化け物の死体で金を稼ぐのだ。巣を見つけても奴らはさらに奥地に逃げていくだろうし、そうすると同じ額を稼ぐのにもっと奥まで行かなければならなくなってしまう。 横道、と書いたけれど、この奥に巣があるんだろうなと思う場所は小さな横穴だけじゃない。第一層でもいたるところに「道はあるんだけど進めない」個所がたくさんあるのだ。怪物たちが自分たちのお宝を守るために使うエーテルの流れ、それをいっそう強力にしたものが開いているはずの道をふさいでいる個所がたくさんある。通って振り返ったら同じようなエーテルの壁で帰り道がふさがれていることもあるのが恐ろしい。第一層ではすべて記入されているが、今後もし探索の最前線に立つことがあったらとても心細いことになるのだろう。 そんなわけで浜の真砂なみにあふれてくる化け物たちとの戦闘を今日も繰り広げていた。戦績はもう数えられないほどだ。一〇回以上の戦闘を繰り広げたと思う。うちの部隊は笠置町姉妹という無敵コマンドがあるとはいえあとの四人はまだ新参者でしかない。それがどうしてこんな多数の戦闘に耐えられているのかといえば、命のために金を惜しまないからだろうか。道具屋では武器防具を始めとしてたくさんのものが売られているのだけど、水ばんそうこうと呼ばれる傷薬を買い込んでいるのだ。これは治療術師の初級の術を封じ込めた液体で、水あめのようにどろりとしているのを傷口にふりかける。すると迷宮内部のエーテルを勝手に集めてくれ、切り傷程度なら再生させてくれるものだ。蓋を開けるとすぐに反応を始めてしまうからぼやぼやしていると無駄になること、一つで一度しか使えないこと、その割には一つ五千円と割高に感じられることで利用しない探索者も多いが、前回の探索では一人あたり三万五千円を超える収入があったので笠置町姉妹が大量に購入して分配したのだ。前衛には一人六つで後衛には一人三つ。俺の前回の収入は保険対象外のCTスキャンとレントゲンになっていたので正直きつかった。でも今回の収入も五万円を超えたし、それでいて水ばんそうこうは四つしか使っていないのだから十分モトはとれているということになる。何より自分の怪我を治す手段を持っているというのは安心だ。上にも書いたようにいつ横穴から敵が出てくるかわからないし、熟練探索者でも集団を分断されて全滅というケースがあるようにいつだって一人で生還する覚悟と準備が必要なのだから。 このように懐が暖かくなったが、思わぬ休暇が入った。水曜日に事業団から直接の依頼で葵が駆り出されたのだ。木曜日は葵の休息にあてるから次の出動は金曜日になる。木曜は戻ってきて体調を整えるとしても、月火水と休みがとれるわけだ。一度東京に戻ろうかな。みんな卒論で忙しいだろうけど、一晩くらいは時間を作るように!   落合・神野由加里のアパート 二三時二二分 コーヒーカップを口に運んでそのぬるさに驚いた。このコーヒーを淹れたのは・・・一時間半も前になる。いつも見ているホームページを読んで、とにかく落ち着こうと身体が自然と淹れたのだ。フィルタに注ぐお湯加減も最適、きちんと後片付けもした。落ち着けている、と思ったものだ。ただできあがりのそれを飲み忘れていただけだ。 ため息をつきカップを置いて、神野由加里(じんの ゆかり)はもう一度画面を見返した。それは現在京都にいる恋人が書いた文章だった。いや、もと恋人と言うべきかもしれない。ここ半月は連絡をしないでいたし、向こうからも来なかった。しかし彼の日記を知らされてから毎日読んでしまっている。 ドアベルが鳴った。どきりと身をすくませる。一人暮らしの彼女の部屋を深夜に訪れるものなどいないはずだった。たった一人、過去にしばしば訪ねた男はいま京都にいる。しかし、東京に行こうかと書いてあったし・・・。 恐る恐る覗き窓に目を当てるとそこには大学のゼミの同級生が立っていた。由加里は苦笑した。二時間前に京都で日記を更新しているのにいるはずがないじゃないか・・・。 「克己? なに? こんな時間に」 親しい友人であっても男相手に深夜にドアを開けることはしない。 「あ、いるな? 神野電話に出ないし、いないのかと思った」 「ん、寝てた。なに?」 「あ、ごめん。えーと、明日真壁が帰ってくるんだよ」 由加里は唾を飲み込んだ。 「お前知らないかもしれないけど、あいつの日記に書いてあった。祭やるから絶対来いよな」 「・・・いかない」 「じゃあ明日夕方五時ごろに迎えに来るから」 「行かないってば」 返答はなく、メモの紙がドアの隙間から差し込まれた。足音が去っていく。完全に聞こえなくなってからそっとその紙を取って開いた。そこにあるURLは現在彼女のパソコンにうつしだされているものと同じだった。彼女が毎晩祈るような気持ちで開いているものと。 「行かないよ」 呟くと目元に手を当てた。驚くほどの水分が指先を濡らした。 十一月十七日(月) 京都駅・東海道新幹線ホーム 十三時一七分 少し遅めの昼食として駅弁を買った。やっぱり旅は駅弁だと思う。コンビニでおにぎりやパンを用意したほうが割安だとはわかっているが、そこでしか買えないものは従うべきだ。今回は鮎寿司。先日、祇園の料亭で食べたのは飛び上がるほどうまかった。 同じく鮎寿司を頼む声がすぐ隣りから声が聞こえた。聞き覚えのある声。似た声のひともいるものだとそちらを向く。にこにこ笑っている笠置町翠(かさぎまち みどり)の顔を呆然と見つめながら、聞き覚えのあるのも当然だ、と納得した。手には旅行かばんを下げている。 「・・・そっか、実家への帰り?」 「うちの両親はいま迷宮街にいるんだよ。タダ飯が出てこない時に帰るわけないよ」 わかってないな、といいたげに苦笑する顔。 「ああ、そっか。ではいずこに参られる?」 「東京に。案内役もいるし」 「——ごめん。何を言っているのか理解できません」 「何をしようとしているのかも理解できない?」 「それはなんとなく」 「それで充分! ほらほら、自由席はあっちだよ」 真壁啓一(まかべ けいいち)は盛大なため息をついた。   迷宮街・事務棟 十三時二十分 「おう浩介、俺は決まったよ。明日潜る」 児島貴(こじま たかし)は、前方から歩いてくる常盤浩介(ときわ こうすけ)に声をかけた。常盤は、俺はだめみたいです、と肩をすくめた。そのまま連れ立って北酒場に向かう。 ドリンクバーのキーカードを買った。二一〇円。これを提示すればカップを受け取ることができ、ノンアルコールの飲み物は飲み放題になる。 「まあ児島さんが決まったんならよかったですけど。どの部隊ですか?」 「恩田さんのところ」 「恩田? ・・・ああ、あの人まだいたんだ」 恩田信吾(おんだ しんご)は彼らと同じ日に初陣に挑んだ探索者だった。彼らにとっても友人だった小寺雄一(こでら ゆういち)と治療術師を失って部隊は解散したはずだ。小寺の遺体に別れを告げた時に見かけたが、それで迷宮街を去ったのだと思っていた。 「新しい部隊を組んでいる最中だけど、とりあえず治療術師が見つからないと。それでも経験は積んでおいたほうがいいから、治療術師は代打でいちど潜るらしい」 常盤は立ち上がり、隣りのテーブルから灰皿を取ってきた。タバコに火をつけて煙を深く吸い込む。 「それにしても、葵さん一人お休みしただけなんだから同じように代打を探すくらいすりゃいいのに」 常盤の不満げな呟きに児島は苦笑した。 「ここに来て三週間、ハードだったから骨休めもしたかったんだろう。俺たちみたいにすぐ金が必要というのでもないだろうしな」 「真壁さんは東京ですって?」 「翠ちゃんもついていったらしいよ」 「マジすか? あの二人いつからそういう関係に?」 「おまえの思っているそういう関係がどういう関係かわからないけど」 「うーん、主従関係。真壁さんせっかくの帰省なのに・・・」 児島は声をあげて笑った。 「主従か。近いな」 一緒になって笑っていた常盤だったが、ふと眉をひそめた。 「いよいよ金曜は第二層ですね。ちょっと気になったんですけど」 「なにが?」 「第一層が問題なくクリアできたら第二層——迷いがないですね」 「そうだな」 「第二層が問題なくクリアできたら——」 「第三層」 「俺たちにはまずくないですか? 実際、月に一〇日フル活動すれば二人で治療費は払えているわけだし、賠償金も少しずつ払えてる。俺たちにとっては死ぬ危険が増える第二層に降りるよりは、第一層で一日おきくらいで潜ったほうが効率的だと思うんですよ」 「——まあ、そうだな」 「急場にそして定期的に金が必要でやってくる人間は他にもいると思うんです。そういうのを集めて、安全第一、定期収入第一で潜ったほうがいいんじゃないかと」 児島は大学の後輩の顔を見つめた。初めて会ったときに照れながら、大学生らしくないけど勉強が好きなんですよと笑った顔。そういったものをすべてあきらめてこの街にやってきた男。まだ二十歳にもなっていなかったはずだ。この先ずっとこの街で金を払いつづける人生でいていいとは思えなかった。 「とにかく、第二層に潜ってみよう。もしかしたら第二層でも週三で安全と思えるかもしれないしな。確かに確実にわずかずつ払いつづけるのも方法の一つだ。でも考え方がおっさんくさいおまえさんとは違って俺には夢も希望もあるからな。年季は早いところ明けたほうがいいし、そのために収入と危険の最高のバランスを探すべきだと思う」 「俺はおっさんじゃない!」 「いずれにせよ皆に相談して考えよう。確かに彼らは金に困っちゃいないし、旅行にも行ける。俺たちとは違う。だからってこっちから壁を作る必要はないからな」 しばらく顔を見つめた後、常盤はしっかりとうなずいた。   新宿・紀伊国屋書店前 十六時二二分 「いま言われていきなり人数が集まるわけねえだろ阿呆! 俺らは卒論書いてんだよ!」 二木克巳(にき かつみ)は携帯電話の向こうを罵倒した。流れてくる声は大学のゼミの親友でなにを好き好んだか卒業直前にして退学した男のものだ。久しぶりに東京に戻ってきているのでみんなで会えないか? という電話だった。 やっぱりみんな忙しいか〜。でも日記を教えてるんだから昨夜のうちにチェックしておけよ〜とのんきな声が流れてくる。 みんな読んでるよ、と心中で呟いた。全員飲む気も充分らしく、昨夜は彼の日記を読む前に『幹事よろしく!』という三通のメールで上京を知ったくらいだから。しかし一番呼びたい人間、いなければならない人間には逃げられてしまっていた。昨夜「五時に迎えに行くから」と言い残して去り、裏をかいて三時半に迎えに行った。すでに留守だった。 さすがに四年間親友をやっていると違う。 「ああ、わかった。明日な、明日なら大丈夫。新宿の、おまえが好きだったあの中国料理屋で。ああ、六人で予約取るって。大丈夫だよ。じゃあ切るぞ」 受話器をしまい、ターゲットである女性の居場所を考えた。泊まりに行きそうな友達のところには連絡が届いており、見つけ次第確保してくれるように快諾してもらっている。いちど彼女のアパートに戻ろうと思い直し西武新宿駅方面へと向かった。アパートのドアにはセロテープで髪の毛を張ってあるから、ドアが開閉すれば髪の毛が切れてわかるようになっていた。居留守を使おうが無力だ。 絶対に二人を会わせなければならない。その思いが二木を縛っている。 十一月十八日(火) 大迷宮・第一層 十時十一分 鋭い呼気とともに繰り出された切っ先が青鬼の胸を刺し貫き、四肢から力と生命が抜けていった。支えを失ってくずおれる重みにあわせるように鉄剣を引き抜く。その動作は場慣れしており、見ていた児島貴(こじま たかし)は少し感心した。恩田信吾(おんだ しんご)の部隊が壊滅してから一〇日あまり、新しく仲間を募る傍ら、代打で腕は磨いていたらしい。 対照的に、他の二人の前衛の動きは未熟そのものだった。三匹の青鬼に対して不意打ちできたにも関わらずうち二匹は恩田が倒し、一匹には逃亡されている。そのうえ一人は手傷まで負っていた。初陣ということを差し引いても青柳誠真(あおやぎ せいしん)と真壁啓一(まかべ けいいち)からははるかに劣る。 「単純な打撲ですね。特に治療の必要はないと思いますが、どうします?」 「頼みます・・・痛くて、手があがらない」 青柳さんなら黙っているだろうし、真壁くんなら一応怪我を報告はするだろうが治療は拒否する程度だ。どうしても普段の仲間と比べてしまう。脳裏にいくつかのシンプルな映像を描くと掌が温かくなり、それを打撲傷の上に重ねると熱が身体に染み込んでいった。ふっと眉をひそめる。彼の全身が震えているのは何も恐怖と緊張だけの話ではない。おそらくウォームアップが不十分で地底に来ているものだから、身体が熱を生み出そうと小刻みに痙攣しているのだ。こんな状態で自在に剣が振るえるわけもない。彼からすれば考えられない油断だった。 俺は仲間に恵まれていたのだな、としみじみと思う。とくに前衛は、恩田も含めて自分たちの三人とはまったく動きが違っていた。さすがは希代の女剣士に選ばれただけのことはあるというところか。 それにしては、と不思議に思う。いまこの状態でも感じられるこの安心感はなんなのだろう? と。普段の仲間と潜るときのような、絶対的な強者とともにいる安心感。てっきり笠置町姉妹のお陰かと思っていたが、あの二人は方や地上に、方や五百キロ東にいる。 自分にとってこの階層は安全になった、ということか? 視線を移すと罠解除師の鈴木秀美(すずき ひでみ)がゆがみの前に片膝をついていた。 「鈴木さん、サポートします。ちょっと待って」 治療術のひとつには一時的に他者の感覚を著しく鋭敏にするものがある。怪物がお宝を守るエーテルの構造を解除師が探るためには視覚のみならず五感をフルに活用する必要があり、それを補助する用途でおもに使われた。普段の仲間である常盤浩介(ときわ こうすけ)はもう場数を踏んでいるからこの階層では必要としないが、初陣の彼女には助けがいるだろう。 しゃがみこんだ少女(先日まで高校生だったという!)は首だけ曲げて児島を見た。そしてそのまま左手の指さきを軽く動かした。ゆがみが消失し、児島は息を飲んだ。集中を乱してしまったかと思ったのだ。 「大丈夫です。終わりましたから」 屈託ない笑顔にこくりと唾を飲んだ。   世田谷区・馬事公苑 一四時五〇分 「やっと着いた・・・」 思わず出てしまった安堵の声は少し大きすぎただろうか。すれ違った家族連れのお母さんがくすりと笑う気配が届いてきた。赤面する。 笠置町翠(かさぎまち みどり)がいるのは東京都世田谷区の一角にある馬事公苑である。JRA(日本中央競馬会)が人と馬との交流のために開放している施設で、体験乗馬などを行っている。そういうイベントがなくても緑と花にあふれた開放的な空間は先ほどの家族連れのように散歩の客を集めていた。 大変な道のりだった、とこれまでを振り返る。 部隊の仲間である真壁啓一(まかべ けいいち)を京都駅で捕まえ、新幹線の車中で東京の交通機関についてみっちりと教わってきたつもりだった。馬事公苑には渋谷駅からバスに乗ればいいとてホテルのある日比谷から渋谷までの道筋を、本屋で買ったポケット地図にあった地下鉄路線図で何度もトレースした。 ふかふかのベッドで目覚めたのが今朝の八時。めったにしないお化粧と、妹に見繕ってもらった一張羅のスカートをはいてホテルを出たのが一〇時半だった。一二時には馬事公苑に着くだろうと思っていた。 その後、有楽町駅に向かおうとして「反対側に」歩き出し、日比谷公園を通過した時にどうしておかしいと思えなかったのか。「何かヘンだ」と直感したのは国会議事堂を目の前に見た瞬間だった。うわあ教科書とおんなじだーと感動しながら時計を見たら一一時。 「永田町から地下鉄に乗ったら一本で渋谷に出られますよ」 道ゆくサラリーマンに丁重に頭を下げたが、そのときに「半蔵門線に」乗るのだときちんと確認しておくべきだったろう。永田町という地下鉄入り口を発見して喜んで改札を通り、電車に腰掛けて一息ついたら、迷宮内部でもついぞ味わったことのない緊張と不安にことんと眠りに落ちた。長年の訓練で、眠りながら外部に気を配る特殊能力を彼女は持っている。おさおさ、寝過ごすことはない・・・。 「池袋」という音で目が覚めたのは、トヨタの展示場が池袋にあるので在京中に一度訪問したいと思っていたからだ。なんで池袋に? ともはや恐怖まで感じながらも電車を飛び降りた。真壁あたりが聞けば「それって有楽町線の永田町では?」と瞬時に気づくだろうが、木曾の山奥で暮らし、長野の短大まで自動車で通学していた身としてはまさか同じ駅名が二つ以上の線にまたがっているとは、知ってはいても、自分の身にそんな不幸が襲い掛かるとは思わなかったのだ。 山手線の名前はいくらなんでもわかる。そうしてようやく渋谷にたどり着き、駅員からバス停の場所を聞いてここにいたる、という経緯だった。 足早に苑内を進んでいった。目の前に「立ち入り禁止」の看板があっても構わず進んでいく。さっきの狼狽とは別の理由で、どんどんと動悸が激しくなっていった。そして彼を見つけた。 引き締まった身体を泥と藁で汚れたツナギで包んでいる。両手には馬のための道具だろうか、木製の、おおきなふるいのようなものをいくつも抱えていた。 呼びかけようとする一瞬はやく、目の前の男の名前が呼ばれた。女性の声だった。 孝樹、と親しく名を呼び捨てにする女性に、男性——水上孝樹(みなかみ たかき)が笑顔を返す。翠はその場で立ち尽くしていた。呼びかけた女性(翠より二〜三才年長だろうか、小柄でふっくらとしたやさしげな笑顔)が挨拶代わりに水上に体当たりをした。そして自分の持っている木桶を彼の荷物の上に乗せた。 笑いながら苦情を言おうとした水上の視線が翠を捉えた。一瞬驚き、満面の笑顔が生まれる。 荷物を抱えながら駆け寄ってくる姿をぼんやりと眺めながら、自分に向けられたものと彼女に向けられたものと、二つの笑顔を比べていた。自分に向けられた笑顔には幼馴染に出会えた懐かしみと喜びが満ちていた。とても温かい笑顔、しかし、たった一つ何よりもほしいものはそこには見られなかった。彼女には向けていたのに。 翠ちゃんか! 久しぶりだなあ! いつ来たんだよ! 声が遠くに響く。 十一月十九日(水) 大迷宮・第一層 一四時三五分 目がくらむ。 高田まり子は迷宮街に初めてやってきた頃を思い返していた。京都市街に発生した大迷宮に関する探索/防衛の一切を委任する組織として迷宮探索事業団が設立されたとき、彼女は特筆すべき点もないOLとして日々を暮らしていた。実直で落ち着ける恋人と、不満も感じない職場に支えられた暮らしは幸せといっていいものだったろう。 新聞に出た第一期探索者募集の記事、一度は意識もせずに読み飛ばした地方新聞のそれを、数日後になってどうして掘り返したのかは考えてもわからない。ただ、一見幸せで安寧な日常を過ごしながらそれをよしとしない自分が確かにいたのだ。 恋人は反対し、去っていった。必ず死ぬわけじゃない、自分を試してみたいんだ、信じて待っていてほしい——必死の言葉は彼の目を見て尻すぼみに消えていった。幸せと安寧を投げ打つ決断をした恋人に対して、穏やかで誠実を絵に描いたような彼が浮かべた表情、それは異世界のものを見るときの違和感そして嫌悪感だった。彼女は唐突に悟った。この人が愛しているのは私ではなく、けして道を踏み外さず、黙って笑ってそばにいる女だったのだ、と。そして何より、自分はそうなってしまうことを恐れて迷宮街に惹かれているのだ、と。ようやく敵の顔を見つけた。そんな気分だった。 もう迷いはなかった。会社を辞め、ジョギング、体操、ヨガ、ありとあらゆる身体能力を高めるための努力を始めた。そうして第一期募集があと一週間で終わるというある日、彼女は探索者としてのパスを手に入れた。 (なんでこんなことを思い出すんだろう) サウナの中にいるように汗を流しながら、集中のし過ぎで朦朧としている頭で考える。 (そうだ。魔法使いの適性検査でこんな感覚になったんだった) 素質がなかったのではない。まったくその逆だった。試験官である女性の示すようにイメージを頭に描いたその瞬間、周辺の空間すべてを巻き込んだ魔法の発動が始まったのだ。第一の試験は空間にわずかに熱を持たせるもの。しかし彼女がひとたび心を整えた瞬間、彼女を中心とした空気が爆発した。突然の高熱に膨張した空気が四方に吹き付けられたのだった。それは、至近距離にいた三人が火傷を負ったほどの熱量だった。熱風を生み出しながら、彼女は自分がもっと大きなものの一部になったことを実感していた。問題なのは、一体化した大きなものを御するには彼女の心はまだ弱く、一度自分が入れたスイッチを止める手段も知らないまま温度を上昇させていることだ。 発熱は唐突に途絶えた。試験官が緊急措置としてすべての魔法技術を封じたのだった。おかげで彼女のあとにいた五人はその日のテストを続けることはできなかったのだが、その五人からも苦情は生まれなかった。そうしなければ大事に至っていたと、感覚で知っていたのだ。 「合格にはできないわね」 顔をかばうために差し上げた手のひら、そこにびっしりとできた水ぶくれにため息をつきながら試験官が高田を見た。大きなものとの一体感の喪失を悲しく思いながら、こんなことをしてしまっては仕方がないだろう、と半ば納得していた高田に彼女は驚くべきことを言った。あなたには事業団の費用で特別な訓練を受けてもらいます、と。いわば特待生に選ばれたのだった。 (そうだ、あの時の感覚と同じだ) より大きな何かの一部となって全身を力に満たしている感覚だった。ただ違うのは、彼女を捕らえているものは暴走しているエーテルではなく、目の前で涼しい顔をして両手のひらをはためかせている女性だということだ。かつて彼女が暴走させたエーテルの波はなんの抑止もなく純粋に発散を続けていくだけだったが、今回は目の前の女性がすべて支配していた。高田はただ、その威圧感の求めるままに空間のエーテルを集め、練り、彼女——事業団の理事、笠置町茜(かさぎまち あかね)の元に届けている。 そんな作業が始まって三時間。二〇人いた魔法使いと治療術師——いずれも第一期からいる熟練の探索者ぞろいだった——の半ば以上が力尽き、地面に座り込んでいる。そろそろ自分も限界か、とあらかじめ教えられていたギブアップのサインを送ろうとしたとき、彼女を強いて縛り付けていた力が消失した。できた! と嬉しそうな声がする。 なお立ち上がっていた七人、そのうちの二人がまた座り込んだ。同じく座り込みたかったところだったが好奇心からよろよろと歩を進める。茜の隣りに並んでその向く方向を見ると、そこには一人の男が立っていた。明るい茶色のスーツを身につけた黒人だった。どこかで見覚えのある彼は、自分たちが意識に入らないようにじっとうつむいている。 「これは?」 訓練場で魔法使いの指導をしている鹿島詩穂(かしま しほ)が理事に尋ねた。さすがに彼女は疲労を浮かべてはいてもしっかりしているようだ。 「論より証拠——星野くん、ちょっと彼の前に立って。みんなは彼らから二〇メートルは離れるように」 場が整った。全員の視線が二人に注がれる。 「構え——始め!」 「え! 何が!? ひええ!」 星野幸樹(ほしの こうき)の悲鳴には苦痛が混じっていた。茜の声と同時に黒人が動き出したのだった。星野を攻撃するように。緊張感のみなぎった星野の頬から一筋の血が流れていた。 「ご覧のように、初心者用の戦闘相手よ。自衛隊の面々が迷宮の空気に慣れるように作りました。彼はこのエーテルを高密度で凝縮したものだから、彼の存在に慣れればエーテルの変調を察知する能力も鍛えられるわ。彼の武器はハンディとして待ち針なのでまず殺されることはないけど、動きは速いからしとめるのも難しいわよ」 視線の向こうでは星野が困惑しているようだった。黒人の動きは非人間的に速く、星野を取り巻くように高速度で走り回るかと思いきや、隙をみつけては襲い掛かっている。きちんと防御しているから待ち針ごときで傷つくこともないが、決定打も与えられないようだった。 「なるほど」 高田の部隊の前衛である黒田聡(くろだ さとし)が感心したようにつぶやいた。 「あの速度で動かれたら一瞬で動きを読まないと当てられない。これは俺たちにも十分いい訓練になるでしょうね」 しばらくは誰もしゃべらずに打ち合う星野と黒人を眺めていた。星野もさすがは迷宮街屈指の剣士でありその動きにも反応し始めている。黒人が振り向きざまに伸ばしてきた右腕をつかみ、地面にたたきつける。動きにふさわしく軽い身体は床に叩きつけられ跳ね上がった。せやっ! という声とともに星野の鉄剣がその胴をつらぬき、床に縫い付けた。黒人はしばらくじたばたとしていたかと思うとその動きを止めた。 「あ、あれ!」 死体はそこにある。しかしその場にはもう一体の黒人が立っていた。先ほどと同じようにうつむいている。 「一度に動けるのは一体だけ、でも何度でも復活するわ。安心して訓練に使って——」 満足そうな理事の声を、まだ若い女の子が無遠慮にかき消した。 「それはいいんだけど、似てるよね」 「でしょう? エディって呼んであげて」 「お母さん昔から好きだったよねー、エディ=マーフィー。偶然似ちゃったのかな?」 「まさか!」 小太りの女性は心外そうに娘——笠置町葵(かさぎまち あおい)を見つめた。 「ここまで似せるのに一時間かかったんだからね!」 高田はくらくらした。その一時間、最後の一時間でもっとも自分は疲労し、現在床にへたり込んでいる面々がダウンしたのもその時間帯のことだ。それをただ映画俳優に(しかも、一見して自分が思い出さなかったようにもはや過去の人になりつつある)似せるためのものだったとは。 親子はにこやかな笑顔のまま見つめあった。血が通っているだけあり、母はいまは太っていたが、よく似た面差しだった。決定的に違うのは、母はこころから微笑んでいるのに娘の笑顔は形だけのものだということだ。 「お母さん、その迷惑っぷりはもはやラスボスだよ。倒したら最終回になりそうだ」 そしてへたり込んでいる面々を振り返った。 「ここで力を合わせてこの魔王を倒しましょう。みんなの力を一つにすれば! あいて!」 「おまえは親に向かってなんて口をきく」 濃いあごひげを蓄え、日本刀を携えた男性が葵の頭をこづいた。そのやり取りに疲労困憊している面々からも笑いがこぼれた。全員わかっていた。星野があれほど苦労する訓練相手が第一層にいることがどれだけ自分たちの戦力を底上げし、死の危険を軽減してくれるのか。高田にも十分わかっていた。彼女が思ったのは、どうせならモーガン=フリーマンにしてもらえたらよかったのに、ということだけだ。 エディ=マーフィーに笑われながら翻弄されたらさぞかし腹に据えかねることだろう!   東京駅・東海道新幹線車内 一九時一七分 「座れたー!」 早速にかばんの中から紙袋を取り出した。中にはお土産に持たされたクッキーが入っている。 「みんないい人だった! 重ね重ねお礼を言っておいてね!」 笠置町翠(かさぎまち みどり)は、隣りに座った真壁啓一(まかべ けいいち)に笑いかけた。彼女は先ほどまで、彼の友人たちに東京を案内してもらっていたのだった。 ことの起こりは昨夜にさかのぼる。新宿三丁目にある中華料理屋、真壁の行きつけの店で再会を祝しているところに翠から電話が入ったのだ。短いが深い付き合いをしている真壁には、その明るさが常とは違う虚勢であることがよくわかった。そこで恐る恐る同席の友人たちに伺いを立てたところ快いイエスが返ってきて、急遽彼女を祝いの席に呼び寄せたということだった。 もともと人付き合いのいいほうではないと思っていた翠だったがなぜかその晩は陽気だった。迷宮街では一度も見かけたことのないスカート姿、気合の入った化粧は真壁の友人たちも魅了したらしく、真壁が男友達と馬鹿笑いをしているうちに気が付いたら女たちと意気投合していた。その流れのまま今日は女友達に連れられて東京ディズニーシーに行ってきたそうだ。 「あー、楽しかった! 木村さんと奥野さんは今度京都に来るって! 案内する場所探しておかないと」 「楽しかったようで何よりです、姫」 一方真壁は男友達の一人、二木克巳(にき かつみ)の家に男だけでなだれ込み、先ほど翠からの電話で目をさましたという体たらくだった。 「二木さんもいい人だね」 ああ、と頬をなでながらうなずく。心から同意する。 「その頬の跡は二木さん?」 翠の顔を見る。さすがにこの娘は気づいたらしい。 「うん」 「由加里さんに会おうとしなかったから?」 うなずいた。 幹事役の二木は集合時間を過ぎても現れなかった。話を聞けば、ぎりぎりまで真壁の恋人である神野由加里(じんの ゆかり)の居所を探していたのだそうだ。しかし結局見つからず、おそらく男だけで飲んだ時にその悔しさをぶつけたのだろう。 「由加里さん、木村さんの家にいたんだって」 「——そうか」 「二木さんは善意で動いているんだろうけど、やっぱり二人の問題だから、って言ってたよ」 真壁はうなずいた。木村ことは(きむら ことは)は同じゼミだったが二浪して彼より二歳の年長になる。男女のことに関しては百戦錬磨、という印象があった。彼女の目には彼ら三人の姿は幼く見えるのだろう。 「克己は由加里のことが好きなんだよ」 由加里には一目ぼれだった。ゼミの初顔合わせの飲み会の場、偶然席が前後した彼女に真壁は何も話せなかった。置物の類のように彼女の言葉に受け答えしながら、何度もビールを空にした。前後不覚になった真壁が目を覚ましたのは二木の家で、そこで由加里のことを根堀り葉堀り尋ねたのだった。二木は彼女と同じ高校だった。 二木の仲介もあり二人の間は急速に親密になっていった。もともと穏やかで受動的な彼女を虚仮の一念で押し通したような面もあった。幸せな大学生活だったと思う。彼女と一時でも一緒にいられたそれだけで自分の人生の収支はプラスになる、と思えるほどに。 迷宮街に旅立とうと思ったとき、「待っていてくれ」と言えなかったのはなぜだろうか。それは惚れて熱意で口説き落とした相手に対してついに愛されているという自信がもてなかったということもあるだろうが、それに加えて二木の存在があった。 親友が恋人に対して抱いていた思いを察することができたのは交際が始まって半年後のことだ。色恋沙汰は木村さんに訊いてみようと尋ねたら、あきれた顔で気づかなかったのかと言われた。自分よりも容姿も人受けも、何より将来の安定性もある男——それでも由加里のすぐそばにいられる時は不安も感じなかったが、こうして離れてみると感じずに入られないのだ。自分よりもこの男といる方が、恋人にとっては幸せではないのか? と。 今回、二木が由加里を必死になって探した理由がわかる気がする。二木は二木で自然な気持ちと守るべき友情の間で揺れているのだろう。その結果、酔っ払いの安い挑発をやり過ごせずに、彼は生まれて初めて人を殴った。 「俺と一緒にいるより、二木と一緒のほうがどれだけ幸せかわからない。そう思わないか?」 「うん。そう見えるね」 翠の返事はそっけなかった。 「でもそれは真壁さんが考えてるだけでしょ。由加里さんがどう感じるか、真壁さんにわかる?」 「いや、けど、普通に——」 「普通!? 普通て!」 翠はおかしくて、悲しくてたまらない、という顔で覗き込んだ。 「明日死ぬかもしれない場所にわざわざやってくるような人が、普通を他人に押し付ける? だいたい真壁さん、由加里さんを馬鹿にしてるよ。一人の女の幸せ勝手に決め付けて、相手の言い分も聞かずに身を引くってさ。そりゃ顔も見たくないわけだわ」 違う、と真壁は思った。俺は幸せを考えて思いやって動いたのではなく—— 「自分がごちゃごちゃ考えてるみたいに、相手もいろいろ考えて精一杯判断してるんだよ。戦地に出稼ぎに行く男を待てないんだったらバイバイするくらいは誰でも決断できるよ。されない限り真壁さんは恋人面してりゃいいんだよ。まだ好きならね」 思いやって動いたのではなく——恐れたのだ。彼女に捨てられるのを。捨てられるくらいなら身を引こう。自分が納得していると思い込もう。そんな逃げの心の動きが確かにあった。 「——どうしろと?」 「知らないよ。したいようにするしかないでしょ。無理なら——」 翠の顔に鋭い痛み。そう言えば、彼女は誰か親戚を訪ねていったのではなかったか。その親戚についての会話がまったくないことに唐突に思い至った。 「相手が突き放してくれるから」 「お茶買ってくる」 真壁は立ち上がった。   東京駅・東海道新幹線車内 一九時二十分 車両前方の自動ドアが閉まり、笠置町翠(かさぎまち みどり)は息を吐き出した。 かなりきついことを言ってしまったのだろうか。少なくとも「大きなお世話」に属することを言ったという自覚があった。実際は自分の中に昨日からある後悔をぶつけてしまっただけなのに。彼は怒っただろうか。 七歳年上の親戚に「将来お兄ちゃんと結婚するー」と言うのは、同じことを父親に言うのと等しく幼な子の愛情表現として受け取られるものだったろう。しかし幼な子は真剣だった。「翠ちゃんが一人前になったらな」と頭に置かれた手を、当時小学生だった彼女は誓いの指輪の代わりとして受け取ったのだ。 どうしてもっと早くに伝えなかったのか、と悔やむ。真剣な思いを伝えるだけなら中学でも高校でもよかったはずだ。それを先延ばしにしてきた結果、物心ついてからずっと慕い続けた男は遠い世界の住人になっていた。 震える思いで笑顔を保ち、並ぶ二人に手を振って馬事公苑を去った。幸せを邪魔してはいけない、そう思いながらも、最後まで自分は逃げたのだと屈辱的な思いにさいなまれながら。 真壁に向けたのは八つ当たりでしかない。相手の気持ちなど頓着せず自分の思いを伝える——それをすることなく今回も決着を避けた彼に自分と同じ弱さを見つけたのだ。 私は最悪だな。 お土産に持たせてもらったクッキーを口に入れる。これをくれた女性の顔を思い浮かべながら。啓一をよろしくね、と頭を下げんばかりにして翠の手を握った女性。神野由加里(じんの ゆかり)の顔を。 窓がノックされた。外から真壁が覗きこんでいる。 不審に思っていると、真壁が顔の前で左手を立てた。謝るように。そして、口の動きだけで「ごめん」と。 走り走っていく背中を呆然として見つめた。その背中が階段に消えると放心したように背もたれに体重を預けた。口元に笑みが浮かんでくる。 「・・・頑張んな」 自分の部隊は才能にあふれた前衛を一人失ったのかもしれない。 でも、みんなは喜んでくれるだろう。 十一月二十日(木) 江戸川区・木村ことはの実家 一九時一八分 夕食前の来客はセールスなどではなかったようで母の嬉しそうな声が聞こえてきた。軽い足音に続いてドアをノックする音がする。さすがに一昨日までここにいただけのことはある、勝手知ったるなんとやらだわと思いながらどうぞと声をかけた。 ドアを開けて入ってきた神野由加里(じんの ゆかり)の顔を見て、木村ことは(きむら ことは)はよく似た別人かと思った。 華が咲いた、という表現がふさわしいだろうか。小柄で少しぽっちゃりした身体つきも穏やかにウエーブさせた髪も化粧けのない指先も変わらない。それでも見違えるように生気に満ちていた。つい先日家に泊めていた時には今にも手首を切りそうなほど沈うつだった娘がえらい変わりようである。 「さては、真壁くんと会った?」 嬉しそうにうなずく。そして「昨日から今日のお昼までずっと喧嘩してました」と。 言葉の内容とは裏腹にすっきりした笑顔だった。なんとなくわかる。真壁と由加里の関係を端から見ているとほほえましいのだが、危ういと思う瞬間もたびたびあった。惚れた弱みだったのだろうか、真壁は常に腫れ物に触るように恋人を扱い、女はもちろん居心地よくその愛情を受けながらもどこかしらに不安が残る、といったように。なまじ豪華な砂の城を作ってしまったために、壊す波を避けようと必死に堤防を作りつづける子どもたちを見ているような苛立ちを感じたものだ。おそらく喧嘩などしたくてもできなかっただろう。 いい傾向だと思う。二人とは対照的に彼女には繊細な恋の思い出などない。泣き、笑い、殴り合い、関係が終わるときは大概「相手を殺すか、別れるか」の二択に達するまでじたばたと暴れてきた。自分がしてきた挫折と怒りの道と毎日が蜜月の二人を見比べてみれば、「まだ若いんだから泥はねあげて恋愛しなさいよ」と常々思う二才年長の女だった。 お昼に東京駅で真壁を見送り、(「卒論終了後にまた再戦することを誓いました」と満面の笑顔で由加里は付け加えた)何かやらないといられない、と強烈な活力に押されて大学図書館へ行ったらしい。「もう卒論は書きあげたんですけど、もう一段深めて別件を書いてみようかと思って」という言葉に思わず「書き上げたやつちょうだいよ」と言いそうになった。 窓の外がすっかり暗くなった頃、世話になった人間に報告は欠かせないと気づいて図書館を出、ここにやってきたのだそうだ。最後まで元気のない顔を見せて心配させていた彼女の母親を安心させたいという思いもあったのだろう。 「え? 卒論終了後? 真壁くんまだ続けるの?」 もう足を洗い、京都には荷物を回収するために行ったのではないのか、と訊いた。由加里はうなずいた。まだまだいろいろなものを見たいのだという。 「で、このことについては?」 画面を示す。そこには先日までのびっしりした日記とは違った簡潔な文章が書かれていた。  関係者のプライバシーを守るために当分の間非公開にします。俺が引退することで終了した後、関係者に読んでもらって承諾がされたら公開するつもりです。  本日は十一月二十日。俺はまだ元気です。 「ああ、それですか? みんなが笠置町さんのことをまるでよく知っている友達みたいに接しているのを見て、自分のやってることの意味を悟ったみたいです。実名を全世界に公開しちゃまずいですよね。かといっていまさら仮名もないし、ということで非公開にしたらしいです。私は読めるんですけど」 なるほどね、と窓を小さく開けた。そしてタバコに火をつける。それにしても、由加里と正面から向き合うことができるようになった今にしてなお迷宮街に戻るという判断が意外だった。彼が迷宮街に行った理由、どうしても超えたかったものは目の前の娘への劣等感だと思っていたから。それを果たした今になっても、明日死ぬかもしれない環境になにを求めるのか。 仲間への義理や責任感ではない。昨日、東京ディズニーシーで彼の京都での仲間が発した言葉を思い出した。笠置町翠(かさぎまち みどり)という名の端正な顔をした娘は真壁のことを「あれほどの才能はめずらしい」と評したのだ。彼女は「才能とは技術でも腕力でも体力でもなくて」、と慌てて付け加えた。 「私は父親に言われて行ったんですけど、強くなって来いって言われたんじゃないんですよね。人間にはどうしても行けない境界、超えられない壁が存在するから、それを見定めて来いっていわれたんです。 限界に出会ったときに気づく嗅覚を身につけて来いって。そういう危険を察知する能力に関していえば真壁さんは誰よりもすぐれていると思いますし、あの人は平気で名よりも実を取るから逃げ出すことも抵抗ないと思いますから」 ゼミの仲間として三年間を過ごした女性たちは一様に頷いたものだ。確かに、かなわない相手に特攻する真壁啓一はどうしても想像できなかった。 その彼が、迷宮街に戻る。危険と秤にかけて見合うだけの何かがまだ京都にあるということだった。母親が差し入れてくれたティーポットから二人分の紅茶を注いでいる娘をちらりと盗み見た。中国料理屋でまだかたくなだった真壁啓一を、男どもが変えられるとは想像しがたかった。役者不足というのではなく、二木克巳(にき かつみ)がすっかり自制を失っていたあの状況で落ち着いて考えられるとは思えなかったのだ。誰が彼のかたくなな心をほぐし、由加里と和解するように仕向けたのか。その巨大な影響力。 もちろん、人間はほんの些細なことで変わり成長するものだ。しかしもしも自力で変わったのでなければ——状況から、ことはは自発的な変化ではないと確信していた——他に考えられない。 あの娘だった。陽気で善良で強く素直で美しく声もよい、およそ非のうちどころのない娘。 ふっと真壁の表情を思い出した。料理屋で翠からの電話が入ったとき、電波の向こうの彼女の様子がおかしいことに気づいた表情を。席の関係でことはにしか見えなかったそれは、どうあっても目の前の娘には見せてはならない種類のものではなかったか。 はい、と両手を添えて差し出された紅茶の皿を受け取り考えを振り払った。外野が騒いでもいいことはないし、どんな関係にも必ず結果は訪れるものだ。よしあしに関係なく、それをどうやって受け止めるかが大切なのだ。二人は今回最高に近い受け止め方をした。今はそれだけで満足すべきだろう。手を伸ばして由加里の頭に置く。怪訝な顔にかまわずゆっくりと髪の毛をなでた。 小柄な娘はされるままになっている。 真壁啓一の日記 十一月二十日 東京には月〜水といるつもりだった。金曜日に潜る予定を立てていたから木曜日、つまり今日一日をかけて体調を整えるつもりだったのだ。しかし少々予定が崩れ、迷宮街に戻ってきたのは今日の午後三時になってしまった。一日延期してもらおうかとも考えたが、身体は決してなまっていなかったし、何よりやる気に満ちていたから午後だけで仕上げることにした。 いつも訓練は午前中から始めて遅くとも午後三時にはあがっているのでこの時間に訓練場にいることは珍しい。面子もがらりと変わっていた。見知ったあたりでは神崎圭介(かんざき けいすけ)さんがいた。驚いたのだが、この背は高いけれど細身の男性は後衛ではなく戦士だったのだ。それも、非常に優れた。第二期募集の戦士にここまでやられたのは、笠置町翠(かさぎまち みどり)を別格とするなら初めてのことだった。 なんというか、太刀筋が微妙にいやらしいのだ。比較的ゆったりとすらいえる斬撃が送られてくる。剣線を想像して弾き返そうとして木剣を動かす。ところがほんの少しだけ足りないのだ。実際に弾き返せるし受け止められるのだが、その結果予想以上に体勢を崩されてしまう。続いて同じような斬撃が来て、これまた受け止められると思ってしまう。実際に受け止められる。しかし体勢は大きく崩れている。そこで、翠にも引けを取らないような鋭い一撃が肩を打つのだった。袈裟懸け。真剣だったら一刀で絶命しているだろう。 三度やってあきらめて、フットワークを使ってかわすようにしてからはいい勝負になったが、足を止めて剣を使う限りついに勝てなかった。たっぷり三〇分ほど打ち合って、休憩をはさんだ時に何がどうなっているのかわからないと素直に訊いてみた。彼の返答を俺なりに整理すると、以下のようになる。 人間は関節を中心に骨と筋肉で動いており、おのずと動く範囲が限られるし身体の柔軟性によってそれはさらに制限される。彼の目には、相手の各関節が動く範囲が見えるのだそうだ。そしてその範囲のほんの外側に、弾き返したくなるような(相手の剣を弾き飛ばせば体勢を崩せるので、俺たちはできる限りそれを狙う傾向がある)一撃を送る。しかし頭では弾き返せると思うその剣筋が実は相手の関節の許容範囲外のものなので、大概は思った通りには対応できない。頭ではできると思うのに身体がうまく動かない経験は誰でもあるだろう。俺は、あれを訓練中ずっと味わわせられつづけたのだった。 すごい技術だと感心したら、タネ明かしをした以上次はうまくいかないだろうと言っていた。その言葉どおりに次の三〇分はこちらが優勢だった。今度は距離をおいてフットワーク主体のいわゆるボクサータイプの戦い方をしたからだ。念のために付け加えるなら、次の三〇分は当然俺のボロ負けだった。それだけの時間足を使って動き回って木剣を振り回して平気でいられるような体力はまだない。要するにバテたのだ。 北酒場では笠置町姉妹が待っていた。「あのまま戻ってこないと思ったけど」という翠の表情は心配げ。きちんと仲直りしたのか? という問いに思い切り喧嘩して喧嘩して、言いたいことを全部吐き出してきた、第二ラウンドは京都観光をしながらだ、と言ったら嬉しそうに笑ってくれた。本当にいい奴だと思う。彼女に東京で何があったのか、ここではもう何も窺えなかったけれど、何かはあったのだろう。いつか相談に乗ってやれるといいけれど。 現在は午後十時になる。これからモルグに戻り、充分に身体をほぐすつもりだ。明日は初めて第二層に挑戦するのだが、不安がないくらいには整えることができた。 そうそう。今日から日記を非公開にした。東京で友人たちと翠を顔合わせしたとき、みんなが年来の旧友のように翠を受け入れたことにいまさら驚いたからだ。今回は双方にいい結果だったけど、自分はそれだけの情報を発信しているんだということは考えないといけない。ただでさえ迷宮街に来るような人たちだから、各人いろいろあるだろう。実名をだしちゃいけないし、仮名は管理が面倒くさい。ここを抜けるときに公開することにしよう。 十一月二一日(金) 迷宮街・北酒場カフェテリア 一五時二〇分 ここ三日の晴天で蓄えられた地熱が陽炎となってたちのぼるかのようだった。北酒場に併設されているオープンカフェは、そのお陰で一一月の下旬とは思えない快適さを与えてくれていた。目の前にはホットココアと苺のミルフィーユ。織田彩(おりた あや)は幸せだった。 もろもろのことを含めて千人くらいが住まう迷宮街だったが、意外とも思えることに食事ができる設備は二つしかない。ひとつはここ北酒場であり、ひとつは彼女がアルバイトをしているコンビニの軽食コーナーである。必然的に迷宮街で労働し生活する彼女らも北酒場に足を運ばざるを得なかった。個人的な経験から探索者と近い場所はなるべく避けようと思っていたがこんな陽気でガラガラのオープンカフェを見たら普段の遠慮も控えめになるのだった。 「ねえ、行きましょうよ! 明日は昼シフトでしょ?」 向かいに座っている小林桂(こばやし かつら)を誘う。小林は織田と同じく探索者ではない。道具屋でアルバイトをしながら迷宮街に居を構えていた。現在大学生の織田とは違ってほぼフルタイム働いている。誘いの内容は織田のクラスメートから持ちかけられた飲み会だった。相手は日本有数の国立大学の学生たち。いわゆる合コンである。 小林とは、迷宮街がアルバイトを募集した去年の夏からの付き合いになる。彼女のいろいろなことを見てきた。できれば忘れさせてあげたいいくつかのことも。 んー、とにこやかに首をかしげる顔はあまり乗り気ではないようで、織田はあきらめて背もたれに体重を預けた。木製の椅子がギリ、といやな音を立てた。空を見る。 ふと目の前に座る女性の顔を見たのは、おかしな気配が伝わってきたからだ。周囲をほっとさせる暖かい笑顔はその顔にはなかった。目を見開いて織田の斜め後方を見つめるその顔には血の気が見られない。ぎょっとしてその視線を追った。 北酒場は迷宮街を南北に貫く二車線道路の北側、道路の西沿いに面している。二車線道路には広い歩道が併設されており、少なくない数の人間が往来していた。迷宮街の人口は一〇〇〇人程度だとはいえ、日中の人口は(観光客などもあり)三〇〇〇人を越えるのだからあたりまえだった。その中に織田の気にかかる人物は見られないようだった。 「・・・今泉くん」 かすかなつぶやきが後頭部を打った。記憶を探ってみたが思い当たるものはない。   真壁啓一の日記 十一月二一日 本日の探索、無事に終了。数日まったく訓練していなかったブランクどころか思ったよりずっといい動きができた。運動をせずに休んだのが良かったのかもしれない。あと、昨日神崎さんの話を聞いておいてよかった。地下で出会うものは俺たちのどんな図鑑にも載っていないものだけど、状況を認識するための感覚器官、動くための筋肉や関節などはあるのだから。青鬼との戦闘では落ち着いて攻撃をかわすことができた。 今日は新しいことが三つある。一つは笠置町姉妹の母親である理事が設置した訓練施設を利用したことだ。これは第一層の奥まった一室にあるもので、部屋には一人の黒人がいた。魔法で作られた人形だというそれは「始め!」という掛け声で攻撃を開始してくるのだ。動きは驚くほど速く、少しは自慢だったフットワークもただ翻弄されるだけだった。ふざけたことにそいつの武器は小さな待ち針の先端を平たくつぶしたもので、通りすがりに切りかかるが小さなナイフほどの傷しかつけられない。でもこれが、たとえば果物ナイフを持っていたら俺なんかは十分に殺されていただろう。 翠の大活躍を経て部屋を出たら、設置されたホワイトボードには二件の予約が書き込まれていた。何度も繰り返して訓練したらスカンをくらいそうだったのであきらめて第二層へ向かった。 その途中には濃霧地帯が広がっていた。あたり一面が真っ白でヘッドライトもなんの役にも立たない。常盤くんによると「大別すると罠の一種」だという。水蒸気ではなく、エーテルそれ自体に色がついているのだそうだ。エーテルの濃度はそれ以外の箇所と同じとのこと。これまでも濃霧地帯は見かけていたが、何しろ地図は完璧に出来上がっている地下一階のこと、その先に何も見るべきものがないとわかっていたので踏み込まなかったのだ。しかしこれからは、エディ(あの黒人の名前だ。なぜか? エディ=マーフィーに似ているから! ふざけてる)で訓練した帰りにはかならず通らなければならない。あまり気が進まないが、背に腹はかえられない。 そして第二層に挑戦した。 第二層へ続く道は緩やかな斜面になっている。自衛隊が設置した鉄鎖を伝いながら、ブーツには猫爪とよばれるつま先につける鉄製の爪をつけて降りていく。俺たち前衛は利き腕の反対側には篭手をつけており、それは指が分かれていないので二層に降りるこの斜面だけは利き手と同じ手袋をつけなければならない。 第二層も、壁の様子は第一層と同じく溶岩を思わせるごつごつしたものだった。基点に設置してある地上への直通電話で自分たちが第二層の探索を開始することを連絡して、北側にある小部屋に向かった。 念のため、敵との戦闘は一度だけにしておいた。出てきたのは正式名称をクリーピングクラウド、通称を梅ジャムと呼ばれる念液状の化け物だった。第一層のいちごジャムと同じく中心細胞を破壊しないと動きが止まらず、天井から落ちてくる奇襲さえ回避できれば特に恐れることもない相手——のはずだった。 これまたいちごジャムと同じように、触手状に伸ばした粘液を鉄剣を平らにして弾き返す。切ってしまったら触手がどこにいくかわからないから、ジャムと戦うときはそうしているのだが、それが仇になった。触手の先から毒気を吹き付けてきたのだ。 罠解除師として訓練を受けていれば訓練場で毒気を経験させてもらえるという。しかし俺にとっては単なる疲れにしか思えなかった。東京での鯨飲馬食は体力を削っているらしい、と自分を戒める思いだった。危なげなく勝利し、死体を切り取り、第一層に戻ろうと鎖を伝って登りきったあたりでそれが疲れよりももっと深刻な何かだと悟った。なにかやばいかもしれない、とだけ言い残して膝をついた俺の顔色を見て常盤くんが「真壁さんたぶん毒気食らってる!」と叫んだ。慌てて彼の持つ活性剤を注射された。 それから俺が持っている水ばんそうこうを露出している皮膚に塗りたくり(こうすれば、外傷だけでなく消耗も回復してくれる)、泡を食ってほうほうのていで帰還した、というわけだ。 東京に戻り、俺は前向きになれた。「自分はいずれ死ぬ」ではなく「死ぬ直前まで見てやる、でも死なない」と思うことができた。これはとても大きい(小林さんや織田さんにちょっかいを出せる気分になったからというわけではないぞ)変化だと自分で思っていたしそのとおりだった。でも、ちょっと甘かったかもしれない。 俺は変わっても、周囲は何一つ変わらないのだ。特に不注意や不運がすぐ死に直結する特徴は。臆病に大胆に。生き残るために。 十一月二二日(土) 迷宮街・南北大通り 二二時三七分 コンビニを出たところで見知った顔が歩いて来るのを見かけた。同じ部隊の魔法使いである笠置町葵(かさぎまち あおい)だった。朱が差した頬を見るところ、アルコールが入っているようだった。 「ああ、常盤くん」 こんばんわ、とあいさつをしてから訊ねたら、北酒場で飲み会をしていたのだという。どうして誘ってくれなかったのさとの文句には「真城さんたちと飲んでたから」と返答が帰ってきた。 真城雪(ましろ ゆき)。第一期の初期からいる古参の探索者だった。名前の通り女性で、一般社会では珍しいと呼ばれる人間が集うこの街でもさらに少数派の女戦士だった。映画俳優と見まごうほどに整った美貌と短くまとめられた髪、筋肉質な四肢、躍動的な動き、きらめく瞳は漆黒のツナギとあいまって二足歩行する黒豹を思わせる。男女比率が極端な探索者の間で、ファンクラブができている数人のひとりだった。構成員のほとんどが女性だったが。 真城の周辺の飲み会であればほとんどが女性なのだろう。それはさすがに呼ばれないし呼ばれても困る。それにしても、目の前の娘がその集団と仲がよいというのは意外だった。その旨を何の気なしに口に出すと、ふっと色白の表情が翳った。飲み会は楽しかったよ、という。 「お茶でも飲みませんか?」 明日はまだ休息日だ。探索を開始した当初は緊張しつつ足場の悪い地下を歩くというだけで筋肉痛になって一日寝たりしていたが、最近は特にすることもなく出歩いていた。自分が呼び起こしてしまった翳りを消し去ろうと努力する時間くらいはある。 若い魔女には夜遅い道端でのその申し出は意外だったらしく、どこで? と訊き返してきた。常盤はそれには答えず二車線道路の脇にしつらえてある植え込みのふちに腰掛け、リュックの中から一リットルの魔法瓶を取り出す。湯気の立つ紅茶に苦笑して葵は隣りに座った。 「真城さんとかはどっちかというと騒がしい方ですから。葵さん周りがうるさいの嫌いじゃないですか?」 部隊員の中でも、知り合いの中でも陽気な部類に属するこの娘が、実は周囲が活気があるとしょんぼりしてしまう内弁慶の向きがあることを常盤は見抜いていた。百戦錬磨、年齢層も高めの女性たちの集団に望んで参加するとは思えない。 「ちょうど通りがかったら真城さんに引きずりこまれて」 そして再び、楽しかったよ、と付け加えた。それは本当だろう。それでもあまり親しくない人たちの中で少し疲れた、というところだろうか。そして疲れてしまう自分を情けなく思っている。 「真城さんも強引な人ですからね。一緒に飲みたい! と思ったら相手の気持ちとか気にしない人ですよね。でもだからこそ断っても後を引くタイプじゃないし、次から誘わないってこともありませんよ。疲れてたら逃げちゃえばいいんです」 そうかな。と呟いた。後を引かないという人物評に対しての疑問か、本当に彼女が自分と一緒に飲みたかったのかという疑問かはわからない。 「端から見ても真城さんは葵さんに甘いじゃないですか。好かれてる方が遠慮してたら損ですよ」 こんなものかな。 両手で魔法瓶のふたを抱える横顔からは大分翳りが抜けたようだった。長いまつげを伏せる端正な面差しに少しだけ見とれた。   鈴木秀美の電子メール ユッコさんアキさん元気でしょうか。君たちのアイドル(バラドル?)秀美さんです。メールありがとう。お二人に先立って私は大人になってしまいました。お酒飲んで一人暮らし始めちゃったらもう大人よね。アパートも決まったし、スーパーの値引きシールのタイミングもつかんだし(大人というより)。 アパートは、去年からここに来ている落合香奈(おちあい かな)さんという人と住むことになりました。それまで一緒に住んでいた人が、結婚して旦那さんと暮らすようになったからその代わりです。落合さんはできるキャリアウーマン、という感じの落ち着いた人です。年齢は、二六才。大人の女ですよ。お化粧がとても上手で、大人のメイクを教えてもらっています。今度君たちと会うときは見知らぬ秀美ですね。ただ落合さんはフランス語の勉強をしていて夜になると勉強の声が聞こえてくるのはちょっと参ります。落合さんと私とは地下に潜る日が違うから、前夜にうるさいとちょっとむかついたりします。でも言えない。言えないでしょ。うるさいと思うのは三分くらいですぐに眠っちゃうんだから(いくつだよ)。 落合さんのお仲間さんは迷宮街でも有名なグループで、アマゾネス軍団と一般に呼ばれています。大体六人で地下に潜るんだけど、さすがに体力勝負のこの街では男性の比率のほうが多いのね。でもその中で唯一女性のほうが多い、四人いるのがそのチームなのです。さっきまでそのグループの飲み会に誘ってもらっていました。おごりだよん。あの人たち、金もってるわー。みんな普通に高い洋服着てます。 飲み会、楽しかったよ。七人だったかな? 落合さん以外は初対面だったのであまり覚えていないけど、真城雪(ましろ ゆき)さんという女の人がとても印象的でした。アメリカの映画で女の兵士が出てくるでしょ? あんな感じです。がっしりしているんだけどスマートで。真城さんは迷宮街でも数少ない女戦士だそうです。でもすっごくおしゃれでお化粧も上手できれいな人です。ああなろう。筋肉はごめんだけど。 いい男情報をたくさん仕入れました。私と同じ第二期にもさっそくチェックが入っていて、神崎圭介(かんざき けいすけ)さんというぱっと見モデルの人を筆頭に「初々しいっていいわよねー(真城さん)」だそうです。うちのリーダーは名前が挙がりませんでした。そりゃそうか(ひどい)。 友達もできたし元気でやってます。またメールちょうだいね。ではでは。 追伸。リーダーは名前が挙がらなかったけど、昨日から加わった男の子は「かわいい!」と大絶賛でした。今泉博(いまいずみ ひろし)くんという子で、なんと私と同い年の一八歳! 恋の予感? 真壁啓一の日記 十一月二二日 用事のない一日だった。こっちに来てからお休みの日も何かしらしていたので、こういうのもいいかな。いい天気だったから木賃宿にいつづける人もおらず、端っこのほうでマンガが所在なげに散らばっていたのがかわいそうに思えた。 つまり一日中マンガを読んでいたわけだ。 『はじめの一歩』の二一〜二四巻がないことだけが残念な、いい日だったと思う。 買おうか。 十一月二三日(日) 池袋・喫茶店 一〇時二四分 自動ドアからこぼれてきた空気は暖かく、巴麻美(ともえ あさみ)はほっと息をついた。ここ数日というもの関東地方には寒冷前線が停滞しており、少しおおげさかと思った冬物のコートも内側がニットのノースリーブのセーターでは少し物足りないくらいだったのだ。着替えに戻ろうかとも思ったが、彼女の恋人は時間にはうるさい。怒ることはない。怒ることはないのだが、世の中には時間の約束を重大事だと思う種類の人間がおり、遅刻は相手に対する敬意の欠如だと真剣に信じて遅刻されたことで傷ついてしまう人間もいるのだった。そのあたりは非常に鷹揚な麻美としては理解しがたいが、「相手がそういうのなら、気をつけないとな」と合わせる分別くらいは二七年の人生で身につけている。 「おまたっせい」 先着して待っていた恋人にはめずらしく、本も広げずに考え込んでいた。その人相を見て思わず苦笑する。麻美に気づいてあげられた表情にしかめ面を作ってやった。 「ほら、笑顔笑顔」 その言葉に恋人——後藤誠司(ごとう せいじ)は苦笑してから意識して目元を引き下げ、口元をほころばせた。うん、と教師の表情でうなずく。 笑顔を強要するのにはわけがあった。後藤は醜かったからだ。いや、醜い、と一言で切って捨てるなら御幣があるかもしれない。決して一つ一つのパーツはおかしくはないし、たるみやくすみに不摂生が現れているわけではない。細い目、小さい鼻、広がった口、がっしりした顎はそれだけならどこにでもあるものだ。しかしそれが集まると——醜いというより怖い。まだ三五歳にもなっていないのにもう不安になってきた頭部をカバーするため短く刈っている頭髪とあいまって、大変に酷薄な印象を作り上げていた。白いスーツや芥子色のネクタイをつけたらヤクザも道をあけるかもしれない。 麻美が惹かれたのはその凶相ともいえる容貌が彼女の好みである『醜くてセクシー』をずばり貫いたからだし、第一印象が最悪に近いだけに内面の誠実さ、律儀さ、聡明さで却って好かれる場合もある。しかしそれはやはり少数事例だったから少しでも被害の少ない笑顔を浮かべているように指導していた。 「どうしたの? 今日は出張帰りでゆっくり休みたいって言ってなかった?」 「うん。実は辞令が出そうだ」 休みたいところをわざわざ呼び出すのだから、後藤一人では決めかねる範囲の問題なのだろう。それでいてまったくよどみもためらいもなくさらっと言うところにこの男の性格が現れていると思う。言葉によどみがない、というのがこの男に対して誰しもが抱く印象だった。それでいて何も考えず脊髄でしゃべっている人間の軽薄さは感じられず、言葉の一つ一つに重みがある。そのあたりに知能の高さを感じるのだった。もっともその重みには彼の面相も大部分影響しているのだろうが。 「辞令? どこに?」 二人は同じ職場に勤めている。日本有数の商社だった。一般職の事務である麻美とは違い総合職である後藤には当然のこととして転勤の運命が課せられている。意外な話ではなかった。そして、企業の転勤命令に対する拒否権を社員は——建前はともかく——持っていない以上、わざわざ休日に呼び出して相談することとも思えない。明日も休みなのだし、別に明後日以降の仕事があけてから話せばいいだけのことなのに。 「迷宮街」 「めいきゅうがい? そんな支店——迷宮街? あの?」 あの、と言ったものの麻美の脳裏にはどんなイメージも浮かばなかった。なんだかそういうものがあるらしい、人が沢山(わざわざ自分から)訪れては死んでいるらしい。表現するなら『社会的意義のない戦場カメラマン』が集まる場所かと思っていた。 「え? 冒険するの?」 いや、と首を振った。話によると、彼らの勤める商社がその迷宮探索の成果を独占して買い上げているそうなのだが、独占している割には利益率が低い、と株主たちから指摘を受けたのだそうだ。そこで前任の買い付け担当の替わりに気鋭の営業として頭角をあらわし始めていた後藤に白羽の矢が立ったのだった。 「なにしろヤクザみたいな連中と取引をしなければならない、ということでよほどの覚悟が要求されるし、独占権をよそにとっていかれたりしたら大問題になる。自信がなければ断ってもいい、と田垣専務から事前に相談された。俺は俺のできることをやるだけだが、拒否権があるのだから麻美にも相談したい——結婚してくれないか」 「え?」 結婚? そんな単語が自分の目の前に出てくるとは思わなかった。反射的にそんなのいやだよ、と言おうと口を開くより前に恋人が言葉を継いだ。 「一緒に来てほしい。急なので指輪も用意してないんだが。ごめん。頼む」 ぺこりと頭を下げる。表情は見えないが耳たぶは真っ赤になっていた。呆然としながらその耳たぶを見つめて、おそらく笑顔も作る余裕のない顔はどんな怖いことになっているのだろうとぼんやりと思った。無性におかしくなって、ちょっと吹き出した。 そして、なぜか、涙があふれてきた。 それに気づき慌ててハンカチをさぐる影、いつもと調子が違うのだろうか、ハンカチがなかなか見つからない影はぼやけて見えた。 好ましく思えた。   真壁啓一の日記 十一月二三日 午前からみっちりと運動。それにしても身体を動かすことしかしていない。翠の部屋に置いてもらっている本はまったく手についていない。今日のようにブックオフを訪れればまずハードカバーのコーナーを覗いていた自分はどこに行ってしまったのか。ちなみに翠は俺の買った本を読んでいるらしい。短大での専攻は家政学と言っていたにしては、高坂先生の本なんてよく理解できるものだと思う。現実主義的な思考法をしている彼女にはなじみやすいのかもしれない。 その笠置町翠(かさぎまち みどり)との関係に急展開が訪れた。なんと、今日、午前の訓練が終わる直前、俺の剣が彼女の肩に当たったのだ。まだ当たらなかったのか? と逆に驚かれそうだが、情けないことにすべてかわされていたのです。第一層とはいえ実戦の経験を積み、たとえば最近この街にやってきた戦士たちと打ち合うことで自分の上達具合は十分に実感できていたが、この俺より一〇センチも身長が低い一才年若の娘との差だけは逃げ水のように縮まらないのではないかと思っていたから。今日の達成感は限りなく大きい。 それも、彼女のミスじゃない。神崎さんとの稽古でわかったのだが俺には足を使ってかく乱するスタイルの方が性に合うしうまくできる。となれば必要なのはそれを迷宮探索のあいだ中ずっとできる体力を身につけることで、訓練でもバテるのを覚悟でその戦い方を採るようにしていた。それともう一つ、神崎さんからヒントをもらったことだが、相手の可動範囲を常に考えることだ。とはいえ翠のようなレベルの違う相手の関節ごとの動きなどとても読みきれるものじゃないが、重心がどこにあるかくらいはわかる。これがわからないと後輩の床運動を指導できないから学生時代からこの感覚は磨いてあったのだから。そういう目で翠を見れば彼女も同じ人間、足が三本あるわけでも空に浮けるわけでもない。そして俺のフェイントの足払いを飛びのけて重心が下がったところを渾身の突きを当てた、ということだった。 翠の反応ははじめ呆然とし、そのあとは満面の笑みで俺の上達を喜んでくれた。 そして痛みに悲鳴をあげた。訓練場では人間相手のこととて力をなるべく抑えるようにしているし、訓練場で貸し出されているツナギは迷宮内部で使うものとは違い打撃吸収に優れた生地を使用しているので骨折などはありえないが、はだけた肩には青あざが残っていた。相当痛かったことだろう。それでも怒ることなく喜んでくれていた。 しかしプライドは別だったようだ。彼女は笑顔ですごい上達だ、そのスタイルをどんどん深めていくといいとアドバイスしてくれたあとで、これで私も本気を出せると言ったのだった。 捕まえたと思った逃げ水は消えるものなのだろう。あっけなく切なく。 徹底的に駆使したはずのフットワークにすべてついてこられるという拷問のような訓練が終わったのが午後二時。その後、自転車で南に漕ぎ出した。目的は上述のようにブックオフ。近くの横綱ラーメンというところでラーメンも食べた。京都はここのようにとんこつしょう油のラードたっぷりというラーメンが主流のようだ。チェーン店のようだけど大変おいしかった。安いし。 さてこれから『はじめの一歩』を読もう。 十一月二四日(月) 真壁啓一の日記 十一月二四日 迷宮探索も第二層にさしかかり、今回で二度目になる。この階層の何よりの特徴といえば毒気を吹き付けてくる化け物が現れたことだろう。活性剤は、使い捨ての注射器とセットで一本八〇〇〇円もするけれど前衛は一人につき二本、後衛は運動しないからより持ち運びやすいということで三本ずつ持って降りている。保険証を持っていったスキーでは決して事故に遭わないのと同じことなのか、今回も梅ジャム(前回俺が毒気にあてられた粘液状の化け物)との戦闘があったけど毒気にあてられる人は出なかった。 もう一つの違いはなんといっても敵方に魔法を使ってくるものが出てくることだ。単体相手に火の玉を飛ばす初歩の魔法や、治療術を裏返しで体力をそぐ術などを使ってくる相手が出てきた。爪や牙、銅剣の類であれば避けることもできるけれど、こういう術は予備動作らしいものがなくいきなり攻撃を負わされる。重症かどうかよりも、一瞬以上パニックになってしまう自分が怖い。 それでも、このフロアになってからはこれまで俺たち前衛の修行のために制限をかけていた葵が限定解除になったらしく、一階にいた時よりも倍以上の戦闘を行った。普段より多めに持っていったシェーカーはぎっしりである。計算するとなんと! 一日で八万円強だった。金銭感覚もおかしくなるな。半分以上を結婚資金口座に入れておいた。 夕方から、児島さん常盤くん、それと恩田さんの部隊の新しい戦士である西野さんと一緒に祇園にくりだした。お金が必要と公言しているバンドマン二人だったけど、さすがに今日の大漁には機嫌も良くなったらしい。いいことだ。四人で六万円ほど豪遊してしまった。二件目はラストの二時まで飲んでお店の女の子と一緒に祇園の端にある一銭洋食屋でネギ焼き? のようなものを食べる。その女の子が言うには、これがいまの祇園の遊び方なんだそうだ。 その後、ラーメンを食べる! とさらに南下していった二人と別れて西野さんと三条にあるバー『キャラメル・ママ』を訪れた。名前だけでぴんときた人は正解。ユーミンこと松任谷由美がまだ荒井由美だったころ、彼女のバックバンドを勤めたグループの名前を採ったこのお店は、ずーっとユーミンの曲が流れているバーなのだ。俺にとってはまさに聖地。そしてまさか迷宮街でユーミンファンと出会うとは思わなかったが、西野さんにとってもそうだったらしい。 西野さんは中庸の戦士で、身長は俺より低い一七三センチほどだろうか。しかし身体が大きく見えるのはとても発達した後背筋のおかげだった。どんなスポーツを? と訊いてみたらロッククライミングという意外な答えが返ってきた。プロになれるほどではなく、しかしずっと登りつづけていたい彼が目をつけたのが迷宮街だという。週三日の労働で十分暮らしていけるここに腰を据えて、休日は岩を登りに出かけるのだそうだ。 話を聞いていてとても面白そうだったので、今度連れて行ってもらうことにする。 四時の閉店まで店で粘り、タクシーで北へ北へと向かった。今日だけでいくら使ったろう? でもたまにはこういう日がないとね。   迷宮街・コンビニ 二〇時一三分 探索者と仲良くするといいことがないと、織田彩(おりた あや)は過去の体験で知っている。人間はいつか死ぬもので、死んだらそれまでの付き合いの分だけ悲しくなってしまうもので、そして探索者は恐ろしく死亡率の高い職業だったからそれも当然のことだったろう。それでも、どうしても死ぬとは思えない相手もたまには存在した。アマゾネス軍団と呼ばれる女だらけの集団のリーダーである真城雪(ましろ ゆき)であったり、第一期の初日に合格してこれまで探索を続けてきた神足燎三(こうたり りょうぞう)であったり、共通するのは底知れない明るさだった。虚勢ではなく、生命力そのものが後光となって表情を、声を、動作すべてを輝かせているような気がする。 そして、目の前の大男もそうだった。津差龍一郎(つさ りゅういちろう)というその男について織田が得た情報のうち、名前よりも何よりもまず耳に入ってきたその身長は二〇三センチあるという。いまだかつてこんな大きな人間を見たことがなかった。 一人で食べるのだろうか。いつもいつも弁当を二人分におにぎりを二つ、ポテトサラダ一つを買う男。まるで漫画でも見ているかのような現実離れしたたくましさは、常々織田が引いている線を忘れさせたのかもしれない。気が付いたら彼女は問い掛けていた。津差は視線を右下に向けて考え込んだ。 「・・・今泉、か。第二期募集の探索者で?」 そうです、とうなずく。彼女が「知り合いにいないか?」と訊いた名前は先日彼女の友人が呆然としてつぶやいたものだった。あれから考えて、ここで労働している人間ではないだろうという結論に達した。だとすれば探索者、それもいまだここに来て間もない第二期の探索者だと思ったのだが、彼女にはそれを探るつてがなかったまま気にしてすごしていたのだった。 「第二期といっても、試験を通っただけでももう三〇〇人は来ているからね。知っている方がめずらしいだろうね」 そうですか、とつぶやく。探索者だと思うんですけどね。ここで働いている人、結構お互いを知っていますから。そのつぶやきに津差はにっと笑った。大作りの顔に天然パーマが波打つと妙なアンバランスがあって可笑しい。 「そうは言っても昨日から北酒場のバーテンが増えたのを知っている?」 「いや、知りませんでした」 「そういうこと。なかなか新しい人に気づくものじゃないよ」 そうですね、とうなずく。津差はいたずらが成功した子供の顔になった。 「まあ、今泉なら心当たりがあるわけだが」 「・・・なんなんだこの人」 「友人の部隊に今泉博(いまいずみ ひろし)くんというのがこの間加入した。ものすごい美少年だって女たちが騒いでるよ」 「あ、それかも。・・・え? 美少年? 年齢は二五〜六ではなく?」 「一八歳って言っていたな」 「そうですか・・・あ、ええと、ありがとうございました。またお越しください」 失礼とすらいえる扱いに苦笑し、巨漢は去っていった。 二七歳の女が呆然と名前をつぶやくのが一八歳の男? パズルのピースがうまくはまらない。 十一月二五日(火) 新宿・商社本社ビル 一八時三七分 連休のうちに電話で快諾を伝えてはいたが、それでも出勤して立ち上げたグループウェアソフトに自分の辞令を知らされたときにはさすがに言葉に詰まった。 後藤誠司。 一二月一五日付けをもって右を関西営業部京都支店迷宮街出張所長に命ず。 懇意にしている田垣専務の行動力には常々敬服していたがそれにしてもこの処置には意気込みが見えるようだった。今日から準備をはじめなければならない、とアシスタントの大沢美紀(おおさわ みき)には迷宮街からの仕入れに関する社内情報を集めて整理するように依頼する。そして外回りに出た。残された期間は一ヶ月ない。引継ぎは今日からでも開始しなければならず、一〇〇社近い担当顧客にはすぐにも転属を説明しなければならなかった。 夕刻になって社に戻った後藤は、自分と大沢の共有フォルダの中に巨大な文書ファイルを発見した。彼女は取引先の娘で、高校卒業ですぐ入社したいわゆるコネ入社(婿取り入社ともいう)だったが能力と仕事の確実さは信頼している。一見したところよくまとめられているようだった。加えてディスプレイには付箋が貼ってあった。 「私の従姉がもと探索者です」 できれば経験者に空気を聞きたいと思っていたが世の中は案外狭いものだ。引き合わせてもらえるように翌朝頼むことにしよう。そしてデータを読み込んでいった。 まずうめいたのはその利益率の低さだった。独占しているなら五〇%はほしいというのに、今はたったの二〇%でしかない。これでは株主に突き上げられなくても早晩何とかしようと思ったはずだ。うちだけが独占し、死体から化学物質を抽出する設備もそれを操作する技師もうちの社員である。迷宮街側としては「じゃあ明日から他のところに売るから」と強気に出ることも難しい状況だった。なんといっても毎日五〇〇万円近くの売上があるのだから。最悪のケースとして想定していたものは、うちを切り捨てたあとで後釜の企業が見つかるまで迷宮探索事業団が自腹で死体を買い上げることだったが、日計五〇〇万円の取引高でそれをやったら事業団がつぶれる。これならもっと買い手が強気に出てもいい。迷宮街の担当者はそれほどの無能者なのか? と現在の迷宮街出張所所長のデータを見た。榊原美樹(さかきばら よしき)という名前と、実直そうな初老の男性の顔が写った。経歴を見れば迷宮街が開放されてからずっと勤めている。少なくとも(その利益率の低さが直撃している)関西営業部長が納得するだけの人物であることは確かだった。 「何かあるな・・・」 自分が想像したことのない何かがそこにはきっとある。血が熱くなってくるのを感じ、後藤はにいっと笑った。両目じり、唇が釣りあがったその笑いに気づいてあわてて打ち消す。子供なら泣き出しそうな悪相になっていたはずだ。 気をつけないと婚約者に逃げられてしまう。   真壁啓一の日記 十一月二五日 訓練は西野さんと午後からにした。当然午前中は起きられなかったのだ。 西野さんとは初対戦になる。その背筋のなせる技なのだろうか、たいへん太刀行きが速い人だった。ただ、まだ実戦は三度目ということで頭で作戦を組み立てられていないのがわかる。それでも身体能力はすばらしい人で、物覚えもよさそうだった。何より判断がすばやいのがいい。平気で片腕を捨てて切りにくる決断は訓練だからだろうか? そうは思えない。それはやはり、地上数百メートルで自分が打ちつけた金具とザイルだけで生き抜く人の潔さなのかもしれない。学ぶところは沢山あるものだ。 と、西野さんを持ち上げているのは実際にチャンバラとして考えれば俺が圧倒したから。神崎さんがやるみたいに小さな動きで体勢を崩すのにも成功した。ということは神崎さんには俺はこのように見えているのだろうな。同じ第二期の探索者とはいえ実力の優劣は出てしまっている。客観的に見て俺は上位にいると思うがトップではない。 最上にはもちろん笠置町翠(かさぎまち みどり)が来るとして、次に強力なのはなんといっても津差さんだ。遠近感が狂わされるほどでかいこの人は、それでいて残像が見えそうなほど速く動く。第一期の先輩探索者たちが前衛を失ったとき、まず白羽の矢が立つのは津差さんなのだ。その伸びは大変なものがあるし、基礎体力や筋力では翠とは比べ物にならないから。そして次にはタカ派の部隊を組んでいる高坂新太郎(こうさか しんたろう)さんと神崎さんが続く。津差さんが剛なら神崎さんは柔、高坂さんは静という気がする。この人は普段はゆったりした動きなのだけど、こちらの緊張が途切れた瞬間に打ち込んでくることが多い。そのあとは俺とか青柳さんとか横一線になる。まあ、生き残ることが大事なのであって強さは求めていないからいいのだけど。 いや、少し悔しいです。 別格の強さを持つ翠はなんだか今日、ずっと走り回っていた。訊いてみると星野さんという先輩探索者の家のネコが逃げ出して行方不明なのだそうだ。治療術師の訓練責任者である久米錬心(くめ れんしん)さん、先輩探索者の治療術師たちがあつまって、迷宮内部で行方不明になった人を探す術を使っては翠や常盤くんや津差さん、佐藤さん、太田さんなどが走り回ったらしい。結局見つかったのだろうか? 十一月二六日(水) 迷宮街・南北大通り 九時二三分 目から火花が、喉からは苦痛のうめきが漏れた。どれだけ実戦を積もうが人間が鉄になるわけがない。苦痛を耐え生命をつなぎとめる力(と覚悟)があっても、平時で人とぶつけた頭の痛みを無視することはできなかった。 「いってえ! 真城さん頭固いよ!」 「・・・うう。ごめん。髪短いからクッションないかも」 同じく探索者である御前崎甲(おまえざき こう)に謝ると、こらえきれないというふうに吹き出す笑い声が聞こえた。見れば探索者の一人真壁啓一(まかべ けいいち)が立っている。 「猫に飛び掛ってあたまゴチンて、マンガの類ですかあなたたちは」 その言葉にはっとして、御前崎の手元を見た。そして周囲を見回す。標的のネコである星野チョボ(ほしの ちょぼ)が植え込みの中から二人を眺めていた。大きくため息をついて、まだくすくす笑っている男を見上げた。 「真壁、いまヒマだよね?」 「いや、これから訓練——」 断りが凍りつく。 真壁の目は思い切り寄り、そこには分厚い刀身があった。床に座り込んだ体勢から一瞬で立ち上がり、腰に下げていた鉈を突きつけたのだった。痛みにうめいても笑われても女でも、迷宮街屈指の剣士であることには変わりないのだ。 「あたしの鉈は痛いよ。——いまヒマだよね?」 「も、もちろんですとも!」   迷宮街・南側未整備区域 一二時〇七分 迷宮街は探索者と労働者、自衛隊など合わせて一五〇〇〇人が生活できるようにと設計されている。治安上の(街から外界を守るという)必要から大きく円を描いて高い防壁で囲まれていた。今の時点では住民の総数は限界にははるかに届かず、中心部から離れると手付かずの雑木林などが見られるのだった。神田絵美(かんだ えみ)が目をつけたのはそんな一角だ。日曜大工が趣味だった父の薫陶よろしきを得た彼女が作った自分専用のベンチと机、迷宮に潜らない晴れた日はここで文庫本を読むのを日課としていた。 一一月も終わりに近づいた最近には珍しい晴れた日、おそらく今年最後のチャンスとてお気に入りの場所にやってきた神田は思わぬ先客の姿を発見した。立ち枯れているクヌギを切り倒し、自分専用に高さをあわせた椅子の上で丸まっているのは、もう大人の三毛猫。日の光をさんさんと浴びて気持ちよさそうに寝ていた。自然に、したいようにしか振舞わない動物に座ってもらえるなんて、少し嬉しい。椅子はあきらめて、彼女(三毛猫はほとんどメスだから、おそらく彼女だろう)を刺激しない位置にマットをしいて寝転がった。 しばらく文庫を読んでから弁当を広げる。これは北酒場で頼めば前日のあまりの食材を詰めてくれるものだ。値段は三〇〇円。充分に量があるし、おいしかった。 にい、と鳴き声がした。視線をやると二メートルほど離れた位置でじっと弁当を見ている。警戒はしているが、おびえはしていないように見える。首輪はしていないが飼い猫だろうか。弁当の中からシャケの切り身を取り出して放ってやった。三毛猫は喜んで食べた。その姿を眺めながら平和だなあ、とほのぼの思う。 食事を終えたら眠くなる。空を見ながら一眠りして、肌寒くなって目を覚ました。右脇だけが妙に温かい。切り株の上にいたはずの三毛猫がわきの下にもぐりこんでいた。恐る恐る首の後ろ、白と茶の境をなでてみる。ぐるぐると声を立てたが嫌がる様子はなかった。ゆっくりと起き上がり、荷物から毛布を取り出す。さすがに三毛猫は警戒して離れた。 「大丈夫だよー」 一声かけて、毛布をかぶり横になった。目を閉じると睡魔が襲ってくる。胸のあたりにもぞもぞと熱源がもぐりこんでくるのを感じた。絵に描いたように幸せな午後だった。   迷宮街・南側未整備区域 一三時二五分 この二日間で屈辱とともに思い知ったのは、人間はついに追いかけっこでネコに勝てないという事実だった。だから、久米錬心(くめ れんしん)からの電話で迷宮街の南外周部にたどりつき、ベンチに座り本を読む神田絵美(かんだ えみ)とその隣りでおとなしく丸くなる星野チョボ(ほしの ちょぼ)を見たとき、笠置町翠(かさぎまち みどり)は捕まえようと逸る越谷健二(こしがや けんじ)を厳しく押しとどめた。 (一つ試したいことがあるんです) 越谷は津差より一つ上の二七才。探索者の年齢分布では二六〜七才がもっとも多い。顔の右半分に大きく浮かぶ青あざが見るものをはっとさせた。探索者中でも際立つ戦士としての実力とあわせて『青面獣』というあだ名を奉られていた。 (どんな?) 足音を忍ばせて二人の背後に近寄る。三〇メートルほどに距離を縮めると、ポケットから小さな桜貝を取り出した。つまむ指先に力をこめると桜貝はぼろぼろと崩れ落ちる。周囲に迷宮内部に特有のむっとしたエーテルが充満した。 実戦で使ったことはない。だがやり方はわかっている。脳裏にいくつかのイメージを結ぶと、周囲のエーテルが前方の二人のもとに押し寄せていった。越谷が息を呑む気配が伝わってきた。 そして、神田の身体から力が抜けた。文庫本がぽとりと地面に落ちる。 三毛猫は走って逃げていった。 すべてが終わってから、越谷は感嘆の声をあげた。 「すごいな! 君は魔法も使えたのか!」 額の汗をぬぐいながらうなずく。彼女は登録自体は戦士としてしているが、実際は違う。魔法戦士という、重いツナギを着けて鉄の剣を振り回しながらも魔法を使える、高度な精神修養を必要とする上級職だった。もともとそんな素養のある人間など——彼女のように家庭の事情がない限り——ありえないから迷宮街では訓練場を設けてはいなかったために、探索者でその存在を知っている人間はまれである。翠にしたところで自分の故郷を考えても父親と従兄しか知らなかった。ちなみに従兄——水上孝樹(みなかみ たかき)は剣を振るいながら治療術を使うことができる。 「それに、神田さんを縛るなんて——実戦で打ち合ったら俺がやられそうだな」 一度さんざんにやられた剣士に誉められて、少しいい気分になる。 「でも当面の問題として、それでもチョボには逃げられたわけだが。なんで熟練探索者にかかって小さな脳みその生き物逃す?」 「まったくです」 しょんぼりとうなだれた。   迷宮街・東西大通り 一五時三三分 ・・・もちろん彼の脳には記憶を整理するほどの能力はなかったが、それでも今の状況がおかしいということだけは感じていた。このくらいの日差しでこのくらいの暖かさの時にここまで全身が疲れているということはかつてなかったからだ。もともと明るい間はずっと寝ていてもいいと思う彼だったのに、落ち着くとそのたびに邪魔が現れ追い立てられるのだった。 ほら、あいつらだ。視界の端に入った生き物を見てうんざりする。この場所にはあいつらと同じような大きさと歩き方をする生き物がたくさんいたが、ぴりっとした緊張感を漂わせているやつらは彼を見つけるとなぜか駆け寄ってくるのだった。やれやれ、と思いながら身を起こして走り出した。ぴんと耳を立てた。 「チョボだ! チョーボー! おいでー!」 これは聞き覚えのある音だった。彼が通常ねぐらにしている場所を彼と共有している同居人であり、通れない場所を開閉する役目と排便の場所を掃除する役目、そしてしばしば食事の準備という大切な役目をその同居人には与えていた。もしかしたら、このうんざりする状況をなんとかしてくれるかもしれない。その音に向かって走ることにした。 同居人が前肢を彼に差し出している。普段よくするように、その顔の下に飛び掛った。爪を立てて皮膚(彼の毛皮とは違い、その皮膚は頑丈ではないらしくめまぐるしく生え変わっている)にしがみつくと、同居人は前肢で彼を支えた。収まりのよいように身体をずらしてから、奴らを視界の隅に置いた。同居人が奴らを抑えてくれるならよし、でなければまた逃げ出さないといけない。 奴らのいやな雰囲気が消えていった。ほう、と同居人を見直す気分だった。今後は邪魔者を排除する役目も任せられるかもしれない。よろしく頼むよ、という思いを込めてその頬をなめてやった。   真壁啓一の日記 十一月二六日 迷宮街の西半分のことなら今日一日でだいぶ詳しくなった。どうしてかというと、昨日の日記に書いたネコを探すために半日以上街を走り回ったからだ。結局誰も捕まえることはできず、しかし問題は無事解決した。星野さんの娘さん、星野由真(ゆま)ちゃんが通りがかって一声かけたらチョボ(猫の名前です)は何の問題もなく飛びついたのだから。俺は今日の朝から、翠などは昨日から、探索者が述べ一五人も駆り出される大騒ぎが結局飼い主の出馬だけで収まるなんて。初めから由真ちゃんが出てくりゃよかったって話ではないのか。あほらしい。迷惑だ。 と脱力しながら訓練場に。とはいえ収穫もあり、今日はチョボ捜索に加わった六人の戦士で紅白に分かれ、三対三の集団戦をやってみたのだ。迷宮街最強の剣士である越谷健二(こしがや けんじ)さんと最強の女剣士である真城雪(ましろ ゆき)さんは迷宮街に来た当初は部隊を組んでいたらしく、すばらしいコンビネーションだった。越谷さんは身長一八〇センチ弱で、一七〇センチ以上ある真城さんをすっぽり覆い隠すことなどできるはずはない。でも、その身体の陰思いもよらないところから真城さんが現れては攻撃を仕掛けてくるのには本当に切りきり舞いさせられた。それは翠もまったく手が出なかったようで、これが実戦経験の差かとしきりにうなずいていた。 真城さんに関する、嘘のような本当の話。あの人は地面に座り込んでいる状態から、二メートル離れた俺にまったく反応させずに鉈を突きつけることができる人だ。速すぎて反応できない、というのではない。その間のコマを抜いたかのように、気が付いたらそこにいたのだ。そして一言「真壁、まばたきのタイミングが単調すぎる。お前なら簡単に殺せるよ」 ・・・冗談だよな? ちなみにもちろん、チョボ探しが楽しくなかったといえば嘘になる 十一月二七日(火) 木曾谷・笠置町邸 一四時二五分 今年から開始したハウス栽培の苺はどうにか売り物になってくれそうだった。これで来期にはもっと作付けを増やせるだろう。 竹で編んだ籠に農具をつめ、満足しつつ家に戻った笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)を見知った顔が出迎えた。おお、と笑顔を浮かべる。 「おや! うちのは出かけてますか、榊原さん。待たせてしまいましたね」 入っていて下さればよかったのに、と恐縮する隆盛に笑顔で応えた男は五〇代前半で、隆盛より少し年長になる。名を榊原美樹(さかきばら よしき)といい、迷宮街からの収穫品を買い上げている商社の担当者だった。迷宮探索事業団の設立段階から、組織運営の実務という面で大変世話になっている。何しろ理事とはいっても代表格の隆盛の本職は農業だし、他には習字教室の教師や小説家、大工や民宿の親父などがいる。誰をとっても一万人のビジネスマンを皆殺しにできる戦闘能力を持っている面々だったが、一万人集まったところで企業の経営などできっこない種類の面々でもあるのだ。さらに悪いことに、日本各地に分散された『人類の剣』たちからめぼしい者を集めて編成されたこの理事団の大半は「面倒事はごめんだが、自分をまじえないで大きな決定がなされるのはプライドが許さない」という厄介な動機で理事に加わったものであって、実際に活動をしてきたのは彼と彼の妻である笠置町茜(かさぎまち あかね)、宮島で民宿を経営している奥島幸一(おくしま こういち)しかいないのが現状だった。残りのいわば『名誉理事』たちが名誉だけではなく金銭も要求してきたら不愉快に感じるところである。 そんな中での迷宮探索事業団の立案、現実化、第一期探索者募集期間という激動の時期を事務的に支えてくれたのが榊原だった。理事と出入りの業者という表面上の関係よりはるかに強いものを隆盛は彼に抱いている。 「今日は担当換えのご挨拶でして」 出されたお茶をおいしそうにすすったあと、茶飲み話の雰囲気のまま榊原は伝えた。二杯目を注ごうと急須を持ち上げた動きがぴたりと止まった。 「失礼ながらまだ定年のお年ではありませんよね」 転勤です、とにこにこと頷く。温和で笑顔は絶やさない男だったが、それが変わらないところを見ると彼の希望に添うものなのだろうか。彼が告げた新部署は彼の勤める商社のグループ企業である旅行会社、広島支店の部長代理という。窓際ですよと笑った。奥島さんの所に入り浸るのでしょうなあ、と。 「それでよろしいのですか?」 釈然としない思いであごひげをしごく。榊原の笑顔はあくまで左遷を意に介していないようだった。私がやることはやりました、あとは後任の人間の仕事です、なんといっても利益を出せなかった前任者が栄転じゃこれからの彼がやりにくい、と。そして後任の人間について話し出した。 彼も会ったことのない、しかし評判は聞いたことのある若手の営業マンだという。最初に名前を聞いたのは、彼が教育にあたった新入社員が噂話をした時だ。彼の同期にとんでもなく怖い顔の男がいる、と。 「不細工でも怒っているわけでもなく、話してみるととてもいい奴なんだけど、どことなく怖いんですよって言ってましたよ。いい話じゃありませんか。そんな感想を抱かせるには心か身体か血統か、どれかに常識はずれのものがなきゃいけません。顔が極端に優れてたり劣ってたりする人間は、それだけのことをできるものです」 だから五年後に彼の懇意にしている取締役の口からその名前が出たときにはそれほどに驚かなかった。 「万年筆を買わせたらしいんですよ」記憶を探る表情はあくまで楽しそうだ。 「その取締役が自分の使っている万年筆をなくしてしまったんです。一口に万年筆と言っても形は様々ですから何でもいい、高ければいいというわけにもいきません。私が使っているのはパーカーの普及品ですが、散々選んで結局これに落ち着きました。私にとっては五万円の高級品よりもこちらの方がいいわけで」胸ポケットに刺さっている万年筆を抜いてみせる。 「だからエレベーターに乗り合わせた営業マンにちょっと買ってきてくれ、とメーカーと種類を依頼したそうです。ところが部屋に戻ったとき、そのメーカーが既に潰れていることを思い出した」 「おや」 「少し調べればメーカーが潰れていることはわかるでしょう。当然彼はそのことを知らせるはずだ、その時にまた指示をすればいい、とその場は忘れた翌日、その営業マンは山ほどの万年筆を持って現れたそうです。取締役の使っていたものと、使い心地が似ているものだけが選別されて、それでも国内外のメーカーですから五〇種類以上になります。そして、ご指示の物は既に販売されていませんので使い心地のよいものをこの中から選んでください、と。これは試供品として借りたものですので時間をかけて選んでいただいて結構です、と」 二杯目の湯飲みに口をつけてすすった。 「取締役は二つ質問しました。各メーカーの数多い種類の万年筆から、使い心地の似た万年筆をどうやってリストアップできたのか。そしてこの大量の試供品をどういう口実で用意させたのか」 「確かにおかしいですね」 「一つ目の質問の答えは、知人にリストアップしてくれと頼んだというものでした。部長が彼に頼んだのがお昼休みの終わり、エレベーターで乗り合わせた時らしいです。もう残っていないものと似た使い心地の万年筆を現在流通しているものからリストアップできるとは、どんな種類の才能でしょうね? おそらく万年筆の使い心地にかけては日本でトップクラスの知識を持っているのではないでしょうか。そんな人間とコネをもち、さらに一日かけずにそれだけの作業をしてくれるだけ深い人脈を持っているということですな。 二つ目の質問の答えは顧客を集めたセミナーをするときのノベルティとして使うから、選ばれれば五二本買い上げると話した、というものでした。当然取締役は詰問します。彼が一番安いものを選んだとしても五〇〇〇円はするでしょうから二五万円以上かかることになります。平均的な価格のものを選んだら七〇万円を超えます」 「それだけを儲ける自信があると」 「営業でありながら儲けに恬淡としている、いい話じゃありませんか」 「でもどうして五二本という半端な数なのですか?」 顧客がそれだけということだろうか? しかし、素人の隆盛ですらどうせなら大量に用意して新規開拓に使うべきではないかと想像したのだ。 「その年に子供が高校あるいは大学に入学する社員がそれだけだったそうです。取締役にこう言ったわけです。別に自分がノベルティとして使っても、投資分の儲けを出す自信がある。しかし、もし取締役が自分のポケットマネーで社員の子供たちにプレゼントする気があったらそのリストと一緒に売るにやぶさかではありませんんよ、と。取締役はその場で買ったそうです。当然話の流れでそれを届ける役目は彼がすることになりました」 「・・・しかしそれでは公私混同の気がしますな」 「公私混同どころか! あざとい人気取りですよ。でも効果的です。効果的であっても外聞が気になる種類のことをしれっとしてできる面の皮の厚さは、しばしば実際の脳みその働きよりも重要です」 そして真剣な表情になった。皺の深い顔の中、瞳がきらめいている。 「これから迷宮街はもっと大事な局面になる。あの穴倉はうちの会社の利益だけの問題ではありません。いま京都で行われているのは、世界史的に見て大きな意味のあることです。そういう中で、目先の利益にとらわれず馬力を持って進むにはよく見える目と尽きぬ気力と、何より怪物じみたエネルギーが必要になるんです。私は老いすぎた。老いた人間は余生を考えて性急になってしまうし、苦痛に弱くなってしまうものですから不適格です。困っていたところで私は最適の後継者を見つけたかもしれんのです」 隆盛はため息をついた。目の前の男は後任の男を買っているらしいが、後任が榊原と同じだけの誠意を持つとは当然限らないし、なにより自分はこれからその怪物じみたエネルギーをもつ男と対面することになるのだ。それは地味に暮らしてきた農夫には望ましい未来とは思えなかった。   真壁啓一の日記 十一月二七日 本日の収穫は九万円と少し。そろそろ金銭感覚がマヒしてきた。 今日気がついたのだけど、各銀行や郵便局のATMはこの狭い迷宮街に二ヶ所あるのだった。ひとつはもちろん東西大通りの西側にある各銀行の支店内。そしてひとつはATMだけが迷宮の出入り口詰所内部に。どうしてこんなところにあるのだろう? と最初は思ったが今ではなんとなくわかる気がする。地上に戻り、こぎれいになる前にお金を預けさせようという作戦なのだ。確かに今では街に出る前に財布に一五〇〇〇円を残して稼ぎを預けるようになっていた。そうさせる工夫をしないと探索者が現金を持ち歩くスパンが長くなり、しかし毎日の探索者への支払いは現金で行われるため、絶え間なく外界から現金を運び込まなければならなくなってしまうのだ。迷宮街内部である程度以上現金を循環させるためには水際で通帳の上の数字に変えてしまうことが望ましいのだろう。詰め所のATMは週七日二四時間出し入れ無料だった。そういうことなら支払いを振り込み方式にすればいいと考えるかもしれないけど、そうはしていなかった。思いつかないはずがないから、探索者の反対があって実現しなかったのだろう。確かにわかる。命を張って稼いだ成果は数字ではなく現金で受け取りたいのだ。ほぼすべての探索者がそのすぐあとに数字に変えてしまうとしても、その気持ちは変わらない。 最近は俺たちも余裕が出てきて、三時ごろにさっぱりしたあとは京都や大阪に出て行くようになっている。今日は笠置町姉妹がコンサートに出かけていった。俺はといえば同じく今日潜っていた恩田信吾(おんだ しんご)くん、その仲間の鈴木秀美(すずき ひでみ)さん、そして女帝真城雪(ましろ ゆき)さんと一緒に食事をとった。鈴木さんは頭の回転が速いけど素直でかわいらしく、真城さんのお気に入りみたいだった。彼女はこれで四回目の探索だという。調子はいかが? と訊いたら特に問題なしと頼もしい答えが返ってきた。 真城さんの売り文句は「アタシは酒も涙も升で数えるからね!」というもの。ほとんど飲めない恩田くん、未成年だけにまだまだ余裕がない鈴木さんと同席しては必然的に相手は俺になる。二人がダウンしたあと、戻ってきた笠置町姉妹、顔を出した津差龍一郎(つさ りゅういちろう)さんを加えて五人で飲んでいたら隣のテーブルで喧嘩が起きた。古株の探索者の集団とにらみ合っているのはこの街に住んで俺たちの剣やツナギを作ってくれている鍛治師たちだった。皆、探索者の戦士に劣らない屈強な身体つきをしている。 彼ら鍛治師たちの待遇は迷宮街にいるほかの一般人とは明らかに違っている。衣食住のうち衣料品店はそもそもなく(コンビニでTシャツやパンツくらいは売っているが)、食も住も外部の企業が運営しているこの迷宮街において、彼ら鍛治師たちは迷宮探索事業団が直接雇い入れて給料を支払っている。剣や金属を織り込んだツナギなどという特異なものはさすがに頼む先がないのだろう。だからほとんどが第一期の探索者よりも古株であり、自分たちがこの街の主であるかのように振舞うことがあった。 日々の重労働で鍛え上げられた鍛治師たちと熟練の探索者たちの喧嘩は、予想に反していい勝負だった。「素手の喧嘩で農民に勝てる奴はいない」とはよく言われるけど、俺たちも剣を持たなければそんなものかもしれないな。何より俺たちには人間を殴る心の準備はできていないから。 酔っていたのだろうか、剣呑な気配がわからなかったのだろうか、鈴木さんが喧嘩が始まる直前、にらみ合う彼らの間をするすると通り抜けて刺身の皿を取ってきていた。たいした度胸だ(そして刺身はうまかった)。 十一月二八日(金) 巴麻美と母親の通話 一九時〇一分 「巴でございます」 『あ、お母さん? 麻美です』 「麻美! おまえまったく連絡よこさんと、元気にしてたの?」 『うん、元気。あのさ、今度の日曜日にちょっと帰ろうかと思ってるんだけど、二人ともいる? お兄ちゃんもいたほうがいいかも』 「なに、服買いすぎてお金でもなくなったの?」 『お母さん、それひどいよ』 「ひどいもんかね。たまに家に帰ってくるとお父さん連れ出して洋服買ってもらって、おまえもそろそろ真面目に将来のこと考えないといけないよ」 『そういうの苦手なんだけどなー』 「いいかい、女ってのはクリスマスケーキと一緒なんだよ。二五過ぎれば半額、半額って値段が下がってくもんさ。そろそろ孫でも抱かしてもらえないかねえ」 『孫って・・・お兄ちゃんのところに三人もいるじゃない』 「だーめよー、あの子たちは。律子さんに遠慮しちゃってやっぱり面倒見ちゃうから。おばあちゃんなんてのは面倒は見ないでかわいがるだけしていたいの。それには実の娘じゃないと」 『お母さん、そういう発言が娘を結婚から遠ざけてるって気づいてる?』 「周りが何を言おうがダメな子はダメよ。今更親のせいにしないで」 『・・・あたしはダメな子だったのか。とにかく、ご希望どおりにひとり男の人を連れて行くから』 「・・・え? それって」 『そう。そういうことだから、一応おもてなしの用意しておいてよね。あと、顔を見てびっくりしちゃダメだよ』 「・・・不細工なのかい?」 『うーん。不細工よりもタチが悪いかな。まあ、あたしもお母さんの娘だったってことさ。じゃあ頼むね』 「ちょっと、麻美」 『なに?』 「おまえ、脅されてるとかじゃないよね」 『大丈夫。自分で選んだことだと思う。あたしもまだ信じられていないんだけど』   真壁啓一の日記 十一月二八日 天気は曇りだったけど、なんとなく暖かくなる感じがしたので洗濯物を干した。ちなみに洗濯物は木賃宿に併設されているコインランドリーで洗濯するか、木賃宿のクリーニングに出すかを選べる。金銭感覚が麻痺してきたと昨日の日記に書いたけど、日々の支出に関する感覚は変わっておらず、相変わらずコインランドリーで洗濯して木賃宿の屋上に干すことにしている(穴のあいた靴下も自分で縫ってます)。探索者でそういうことを続ける人間は珍しいらしく、木賃宿で働いている高崎さんというおばさんにはしっかり名前を覚えられた。高崎さんは迷宮街の近所に住む主婦で、掃除や洗濯などをしてくださっている。みんなにおかみさんと呼ばれておりとりあえず誰も頭があがらない。ほっとする感じがする小太りのおばさんである。たまに息子さんも遊びにくる。息子さんは小学校五年生で、隆一くん。津差さんがお気に入りでぶつかったり乗っかったり蹴っ飛ばしたり、休みの日に津差さんを見かけると、セミみたいに隆一くんがくっついていることが多い。 午前中はストレッチと、翠と軽く打ち合うことですごした。午後はそのまま自転車でお散歩。目的地は青蓮院だ。翠はなんだか高そうな自転車を持っていて、俺の無印のマウンテンバイクをぐいぐい引き離していった。俺もいい自転車が欲しくなってきたな。翠の自転車は越谷さんに薦められて買った、二〇万円ほどの入門者用だということ。うーん、今使っている自転車にカゴをつけて、散歩用にいい自転車を買うかな。 青蓮院は京都市碁盤の東部、平安神宮の参道を南に下って少し歩いたところにある庭園で、門前の駐車場に立派な楠の老木が生えている。がらんと広い畳の間から眺める庭園は穏やかで、ここは観光のメッカというわけではないらしく、土日であっても二〜三時間も座っていたら必ず誰もいない時間がある。そこでぼんやりするとふっと身も心も軽くなるのが感じられるのだ。自分では慣れたつもりであっても、やっぱり迷宮街の毎日は緊張を呼ぶらしい。こうやって誰もいない場所にいたくなる。そう。ここには一人になりに来るのだ。 ということを翠には話し「ここで解散、お互い気が済んだら勝手に帰ろう」と取り決めて、抹茶をもらってそのままぼんやりしていた。二時間くらいだろうか。ぱらぱらと雨が降ったりして非常にいい時間だった。 帰ろうと思って出口に向かったら、庭を眺めながら放心しているように座っている翠に気づいた。そっとしておくことにする。そしてふっと、笠置町姉妹とはいったい何者なのかと考えた。 迷宮街に来てもうすぐ一ヶ月になる。俺の日記だけではほとんどの人間が問題なく探索を続けているように感じられるかもしれないけれど、実際はそうじゃない。幸い俺が親しくしている部隊では初日の恩田くんたちを除いて死者は出ていないけど、迷宮街を去っていく人間はこれまでもたくさん見ていた。彼らのことを書いていないのは、なんとなく危ういな、と感じられるから。俺にもそう感じられる人はまず間違いなく二度目の探索までに街の外に出て行く。たとえば津差さんの部隊や神崎さんの部隊でももう帰った方がいるのだ。それだけ過酷な状況で、俺たちの部隊でまだ脱落者が出ていないというのは奇跡とまではいかなくても、珍しいことだといえた。もっとも児島さんと常盤くんは第三層に降りる時点でグループを抜けることが決まっており、後釜の育成を笠置町姉妹と青柳さんが考えているのだが、彼らにしたところで許容できるリスクの水準が俺たちと違うと言うだけで探索自体に拒否を示しているわけではない。つまり、俺たちはまだだれもへこたれていない。 もちろん笠置町姉妹は第二層においてまだ無敵コマンドだし、その二人に選ばれた俺たちはみな第二期探索者の各職業では平均よりも上だと思う(少なくとも俺と青柳さんはそうだ)。そういう意味で感じている危険、緊張はほかの部隊とは比べ物にならないのだろうけれど、それでも俺がこうやって庭を眺めながらふっと意識を飛ばすと二時間経っているように完全に開放されてはいない。能力だけではなく精神的な強さまであの短時日に見抜いた二人の年下の娘、簡単に『家庭の事情』と表現するその成果のどれだけ大きなことか、と思うとくらくらする思いだ。自分だったら耐えられる自信がなく、幼いころからだから耐えられるのだとしても、あるときそのことで親を恨むだろう。しかし双子は屈託なくそれを受け入れている。だから漠然と別種の生物なのだと思っていた。 でも、少なくとも、庭を眺めてじっとしている背中は別種の生き物ではなく超人ですらなく、単なる二一才の娘でしかなかった。ふっと身じろぎした動きは、手の甲で目元をぬぐったようだった。泣いているのかもしれない。 取り決めを忘れたふりをして声をかけ、食事にでも連れて行こうかと一瞬思ったけれど、それはしなかった。俺は津差さんや青柳さんのような大人ではなくましてや神崎さんでもない。翠が一人でいることを望むのにそれ以上のことをしてやれる自信はなかった。一人で迷宮街に戻った。 戻ったモルグではなんとなく俺の場所になっているベッドの上に洗濯物がたたまれていた。そういえば雨が降っていたっけ。月曜日には忘れずに高崎さんにお礼を言おう。 十一月二九日(土) 小川肇のメモ (前略)・・・とはいえ当時の日本人たちが現代の日本人とまったく別種の存在であり、だからこそあのような軍部の独裁を許したと考えるのはおそらく妥当ではないであろう。あるいは悪しきは旧軍指導者のみであり当時の民衆はあくまで無知でありかつ軍部の持つ暴力を恐れたのであり被害者なのだと弁ずるのも妥当ではないと思われる。もちろん当時の教育と偏向した報道は大きな影響をそこに見出せるであろうし、人間という存在そのものに帰せられる弱さ(それはしばしば社会性という名前を冠せられる種類のものであるが)も当然無視することはできない。しかしそれらすべてのことを考えた上でもやはり日本人という一民族の特徴があの時代には現れていたと考えることは相当程度に妥当であろう。であるならば現代の私たちにできることは、日本人というものの本質を考察し、過去の失敗(それは戦争をしたことでも負けたことでもない。それどころか失敗があったのかどうかも考察の課題となろう)のうち避けるべきであったもの、不可避であったものを峻別することではないだろうか。そのためには日本人という民族の特質を浮き彫りにする必要がある・・・(中略)・・・京都市街に口を開いた大迷宮は、現代の世界においても異質な存在である。そこには紛争地域並みの死亡率があり親しい人間を失う可能性がありながらも、また同時に世界でも類を見ないほどの生産と消費のサイクルがある。そこに集まる探索者と呼ばれる人間たちが一日に消費する金額の平均はG7各国の知的エリート層(不動産収入などの基盤を持ついわゆる『貴族』を除く)のものを凌駕するか、あるいは匹敵している(迷宮探索事業団 二〇〇三)。この箱庭は管理する迷宮探索事業団の巧妙な差配により外部の社会と共存共栄を成し遂げており、閉鎖的になるという陥穽から自由であるために第二期探索者募集中の現在で、日に三〇名近くの新規登録希望者が訪れている。死亡率一七・七%(第一期探索者)という明らかな危険地帯を訪れる彼らはやむにやまれぬ事情(紛争地域にいる人間のほとんどにはそれがある)を持たず、自分の意志でここにやってきている。・・・(中略)・・・極端な状況では人間性のありとあらゆる面が浮き彫りにされる以上、この街で繰り広げられていることは現代日本人を考察する上で大きなヒントになってくれると推測される。・・・(後略)   迷宮街・南北大通り 一六時三〇分 「片岡さん、どうしたんですかその顔」 お先に失礼します、と声を残して裏口を抜けた小林桂(こばやし かつら)は、商品を納入にきた鍛冶師の顔を見て驚きの声を上げた。先週見たときは健康的に日に焼けていた三〇代なかばの男の顔は紫色に変色して、右半分が大きく腫れている。 「いや、おととい大木のところのやつらと喧嘩になっちゃって」 うわあ、と眉をひそめる小林に、片岡宗一(かたおか そういち)は笑って見せた。迷宮探索事業団に雇われ、鍛冶師としての訓練を積む前はヤクザだったという噂が流れるほど、男くさく凶暴とすらいえる顔の造りだったが、少なくとも小林たちの前では笑顔しか見せないのであまり恐怖を感じていない。 「痛そう・・・でもどうして喧嘩なんて」 「俺の仲間が大木の所の女の子に声かけちゃって、酔ってたから相当失礼にからんだらしいんだな。俺もあとから事情を聞いてそりゃおまえが悪いと叱ったんだけど。まあその時は楽しく乱闘したよ。たまにはいいな」 そういって、ワゴンの荷台からぼろ布に包まれた棒状のものを一本取り出した。重そうに振りかぶる。 「大木もこんなもの毎日振って化け物と戦ってるんだよな。いやあ、よくこの程度の怪我で済んだもんだ」 まあ、あいつの顔も俺の半分くらいはひどいことになってるけど、とにやりと笑う。小林は内心辟易して、しかし顔だけはにこやかにお大事に、とだけ言ってその脇をすり抜けた。今度ひまな時間が——と追いかけてくる声を聞こえないふりで足を運ぶ。 自分に好意を持ってくれていることは知っている。悪い人間ではないことも知っている。それでも騒がしさ、陽気さ、そして時々見られる幼稚な粗暴さは彼を特別な人間として考えさせてくれなかった。もっとこう、昼の楽しみ、たとえば運動や旅行や太陽の下でしかできないような種類の楽しみではなく夜の楽しみ、本を読んだり音楽を聴いたり映画を見たり絵を——はっとして記憶を断ち切る。 そういう種類の思い出から逃げ出して、自分はこの街に来たのではなかったのか。 朝からずっとじめっとした天気だ。南から低気圧がのぼってきているらしく、夕方から夜にかけて雨になると天気予報では言っていた。あいにく傘を忘れてしまっていた。アパートに一度戻り傘を取ってからスーパーに買い物に行くか、それとも買い物の間くらいはもつだろうか? と南の空をにらむと小さな人だかりに気づいた。自分の進む方向、歩道の脇でイーゼルの前に座る誰かとそれを囲む数人がいる。 まさか。 激しく脈打つ鼓動を感じながらゆっくりと足を進めた。このままだとあと数十歩でイーゼルの前に座る誰かの顔が視界に入る。 ぽつ、と雨粒が頬を打った。た、た、という雨の音はすぐに連続になり途切れがなくなり、通行人たちが小走りになった。よくある夕立の降り方。でも、これは長く続くかもしれない。小林は雨も気にならないようにイーゼルの人物を見つめていた。見物人たちは蜘蛛の子を散らすように消え去っていた。 彼(小柄なので女性かとも思えたが、近くに寄ったらまだ高校生くらいの男の子だとわかった)は突然の雨にも慌てた風もなく、それでもすばやい動きで書きかけの絵をスケッチブックにはさみ、肩下げかばんに収めた。そしてイーゼルをたたみ画材も同じくかばんにしまう。それが済んでから、ゆっくりと自分の身支度をはじめた。変わっていない、と小林は思った。最後に見たときには中学生だった顔つきは、最後の思い出から三年だろうか? ずいぶん大人びていたけれどはっきりと面影が残っていた。ずっと昔、仲間意識を、いや、母親の気持ちさえ感じながら見つめていたその顔。あの頃も、彼にとっては何よりも絵が大切だった。視線をその顔から離せないまま、ゆっくりと近づいていく。 視線を感じたのか、ふっと彼が顔を上げた。視線がまっこうからぶつかり合う。小林は息を呑んだ。 しかし向こうは一瞬後に視線をそらし、彼女とは逆方向へと歩いていった。苦笑がもれ、そして小さくため息をついた。覚えていないのか、忘れることにしたのか。どちらにしても哀しかった。哀しむ資格はないとわかっていても。   真壁啓一の日記 十一月二九日 午前中から訓練。青柳さんとチャンバラをしていた。この青柳さんという人は同じ戦士としてとても不思議な感じがする。こうやって訓練場で向かい合っている時はとりたててすごいとは思えない、津差さんや神崎さんと比べると明らかにレベルは下とわかるのに、いざ迷宮内部で戦っている姿を横目で見るとすごい迫力なのだ。同じ鉄剣を振っているとは思えないくらい怪物が潰れるし、俺のツナギなら破ける爪や牙が滑ってしまっているようにも見える。もちろん隣の芝は青いからそう思うに決まっているけれど、なんとなく、青柳さんは俺とは覚悟の量が違うのかなと今日思った。 午後は青柳さん、その恋人の久保田早苗(くぼた さなえ)さんと一緒に平等院に観光に。その時に入った喫茶店で抹茶パフェを食べながら(ちなみに、抹茶パフェは高台寺近くの都路里がうまい)聞いたのだけど、早苗さんは結婚したことがあり、大迷宮が今のところにできた京都大地震で旦那さんと息子さんを喪ったのだという。地震のためか青柳さんがかつて言った「夜な夜な現れては周辺住民に危害を加える化け物たち」に殺されたのかまでは当然聞けない。けれどずっと不思議に思っていたことと関係しているかもしれない。 由加里が毎晩電話の声を聞きたがるように、津差さんが恋人と別れたように、神崎さんや黒田さんが決して一人の女性を特定したりしないように、俺たちを取り巻く女たちは明日にも起きるかもしれない別れに対して非常な恐怖を感じなければならない。青柳さんに恋人がいると知ったとき、どうやって納得してもらったのか訊いた。自分と由加里の関係にヒントになるかと思ったからだ。その答えは印象的で「俺も早苗も迷宮街に縛り付けられている」とのことだった。無責任な想像だし、公開するときには削除するつもりだけど、おそらく久保田さんは家族を化け物に殺されている。本当なら彼女も迷宮街に来たいのかもしれない。だから青柳さんが生命を危険にさらすことを受け入れられるのかも。青柳さんには二人分の想いがあるのかもしれない。 しかし、俺が何よりもショックを受けたのは、彼女のお子さんが化け物に殺されたのかもしれないという想像を俺がする上でまったく心に動揺するものが生まれないという事実だ。俺のみならず探索者には自分と他人の生命を軽く見る傾向があるが、それを適用していいのはあくまでも自分の意志で探索者になったものだけのはずだ。久保田さんの身の回りの不幸を、俺たちと同列に扱っていいはずがない。 迷宮街で死ぬのは生命だけではないのかもしれない。地下で繰り広げられる戦闘、生命を脅かすそれが自分の手に余る程度に激化したときに逃げ出す準備はしっかりできているし、その見極めは毎晩その日の戦いを思い返すことでぬかりがない。しかし、それだけじゃだめだ。自分の感受性、やさしさ、良識——人間性と呼ばれるすべてのものの不調にも俺は同じように意識を向けないといけない。 この異常な世界に慣れてしまったとき、それは外に出してはいけないものになってしまうような気がする。 自戒のために、明日からは、そういった例をいくつか書こうと思う。 十一月三〇日(日) 巴麻美の実家 一八時三〇分 「最近すっかり腰が痛くてねえ」 義理の父になる予定の男性のそんな言葉に不思議な既視感を覚えた。義理の兄になる男性がそれをたしなめる。毎日働きもせずごろごろして、それでいて飯だけはたっぷり食ってりゃ身体も悪くなる、腰なんかはらぺこでぐっすり寝ればすぐ直る。ぐっすり寝たかったら畑でもやりなさい、と乱暴な言葉には親への愛情といたわりが満ちていた。今日はじめて顔を合せたこの勝利(かつとし)という名前の男性を、後藤はすっかり好きになっていた。それにしても、既視感はどうしたことだろう? 両親は彼が大学生のときに他界した。親戚とは疎遠だから老人が身近にいるわけではない。親しくしている役員は六〇代後半だったが精力的なビジネスマンの常に漏れずその言動には老いは感じられなかった。 映画か何かか? それにしては近い。そう考えたとき、ふっとある女性の顔が浮かんだ。それは今日の昼に会った女性だった。 職場でのアシスタントである大沢美紀(おおさわ みき)の親戚である大沢真琴(おおさわ まこと)は迷宮街の第二期募集が始まった二日目に試験にパスしたという。それから同じく新参の探索者と部隊を組み、初陣を経て迷宮街を去った。部隊の仲間の二人が死亡、うち一人は死体も回収できなかったという。それは彼女には哀しい記憶だったろうが、そのことについて話してもいいと承諾を受けていたから今日の昼食の時間を同席したのだった。 客観的に迷宮街の生活や風景を話すその言葉遣い、口調、落ち着きはその高い知性を感じさせ(知性はあるていど家系に左右されるのかもしれない)たものだったが、ひとつ後藤には理解できないことがあった。短い期間とはいえ仲間であった人間の死を見ておきながらどうしてここまで客観的に分析ができるのだろうか? という疑問だった。 それとだ。 老人が腰の痛みを告げる言葉と死地から帰ってきた女性がそこを振り返る言葉。それにはなんの共通性もないように思えたけれど、その背景にあるものが一致していた。それは、自分の苦しみをほかのもののせいにしようという心の動きだった。 目の前の男性が腰の痛みをまるで加齢によって不可避的に味わわせられている拷問だと感じているように、あの二〇代半ばの娘も自分が経験した恐怖や後悔を誰かのせいにしたいと思っていたのではないだろうか? 彼女が望んで訪れ逃げ出したことを認めたくない、そのためには自分は正常で迷宮街にあるものが異常だと思おうとしているのではないか? あんな異常な場所であっては自分が耐えられなかったのも無理はない——言外にそう言っているように思えたのだ。誰かのせいにして自分を罷免する心の動きは弱さによって生まれるものだ。老人の場合は、いまさら自分の不摂生を後悔して身体を鍛えなおそうと思ったところで時間と体力が圧倒的に足りないという現実がある。その冷たい現実を前にした弱さだと思う。ではあの女性は。頭がよく家柄に恵まれたあの若い女性は、探索者になった選択が自分の責任に帰せられるものだと当然わかっているだろうし、認める強さがあってもおかしくない。頭はよくても心はもろい典型的な優等生のタイプだろうか? それよりも、まっとうな強さを備えている女性の心を折ってしまうようなものが自分がこれから行く街にはあるのかもしれない。そして、それに日々耐えている人間が自分を待ち構えているのかもしれない。おそらく商談としてなら彼らが千人集まってきても後藤の相手にはならないだろう。だが、一個の人間として向き合ったら? 若い娘の心を折るものを平然と受け止めるような人間たちとの折衝は大変なことになるような気がする。 ふっと時計を見ると、もう東京に戻ったほうがいい時間だった。婚約者が、その母と向き合って笑いあっているのが見えた。耳たぶが赤い。いやな予感がする。 呼びかけて振り向いた顔はアルコールで染まっていた。この場が始まる前、ジャンケンで負けた彼女は運転手になるためほどほどにすると決めていなかっただろうか。 「麻美さん、運転できそう? 俺は無理みたいだけど」 んー? と婚約者はニコニコ笑っていた。返答は「大丈夫、有給まだあるから!」 泊まってけ泊まってけと彼女の父と兄が薦めてくる。兄嫁が浴衣はお布団の上にありますからと笑った。婚約者の家族には気にいってもらえたようだった。自分の顔は(自分では実感はなかったが)他人をおびえさせるものがあり初対面の人間はたいてい戸惑うものだけど、彼らは無理している様子も見せず受け入れてくれた。それもそうだろう、と赤ら顔で手酌を続ける老人をみつめる。好好爺めいたそぶりだったが特にその顔には凄みがあり、引退したヤクザの組長と思うところだったからだ。婚約者が、自分の顔が好きと常々言ってくれる言葉は実は嘘ではないのではないか、とその父親を見て思ったものだ。これに比べたら俺はまだやさしいと思う。 ともあれ友好的な雰囲気をなるべく壊したくはなかった。明日の仕事を頭の中で計算した。アポを取っている取引先は二社。どちらも朝一番で謝れば大丈夫だ。 まあ、いいか。そう思い切って注がれた日本酒をあけた。職場では婚約したことは知られているから、二人で同時に休んでも苦笑で済ましてもらえるだろう。 真壁啓一の日記 十一月三〇日 いつものように午前七時、道具屋の前に集合した児島さんの様子がおかしかった。本人は不調を感じていないようだったけれど、顔色が明らかに悪い。最初の顔合わせのときに児島さんが提案したこと、本人が大丈夫と思っても明らかに体調が悪そうだったらその日はやめる取り決めに従うことになった。そうはいっても、本人が不調を感じないどころか気分がいい、と言っている(それは本心からそう思っているように思えた)のに顔が真っ青というのは不気味だ。そこでぞろぞろと診療所までみんなで行くことにした。 診療所の先生は一瞥して訓練場に行けで終わってしまった。どうもこの症状に慣れているようだった。 訓練場で治療術師の教官である久米錬心(くめ れんしん)さんにお話を聞く。久米さんがほんのちょっと触れただけで児島さんの顔色が治ったのは驚きだった。いまだ迷宮街でも使用できる探索者がいない治療術で、なくなった身体をつくることはさすがにできないけど、それでも瀕死の人間を全快できるらしい。 児島さんの症状は便秘のようなものだという。迷宮内で呼吸するたび身体に吸い込まれるエネルギー、それをうまく排泄できずに残してしまっているのだそうだ。体内に術に使うためのエネルギーがあるわけだから、当然児島さんとしては調子がよくなるのだろうけど、便秘が健康にいい生き物なんてこの世にはいない。こうなっている人間を見つけたら、一日二日訓練場で身体を動かして発散させるか、あまりにも悪い顔色だったらつれて来いとのことだった。 迷宮街に慣れてしまうことで変わってしまった人間について書こうと思ったけど、これもそのうちのひとつに挙げられるかもしれない。 ともあれ児島さんが回復した時にもうお昼過ぎていたから、午後からエディの訓練場が空き始める事にあわせて戦士たちの戦闘技術底上げに使おうかという話になった。それで、危なげもなくエディの間へ。迷宮街にきたのはつい先日なのに、もうこの階層では安心していられるようになっている。一ヶ月でこれだけの成長があるということも意外だけれど、さらに意外に思うのは、俺たちよりもずっとずっと長い間探索を続けてきた第一期の探索者たちでもまだ第四層で足止めを食らっているということだった。真城さんから聞いた話では、第一層から第二層、三層と続けて降りるとその時点で体力も時間も気力も切れてしまうのだという。第四層まで歩くだけでも三時間以上になるらしい。それに化け物との戦闘が加わる。もちろん片道だけじゃないからなかなか歩を先に進められないのも当然か。 エディの間では恩田くん部隊が先客としており、交互に五回ほど戦闘をした。 エディとの訓練のときは俺は優越感を味わうことができる。なにしろエディには表情がないし、筋肉があって動いているものではなく実体化したエネルギーがたまたま人間の形をしているだけのものだ。片足だけでどうしてそんなに勢いよく飛んでくる? と文句のひとつもつけたくなるような常識離れした動きを見せてくれるだけに、生き物の動きを読む力も利用して戦っている翠などは調子が狂うようだ。最後はスピード勝負になってしまうし、純粋なスピード勝負になったら俺の方が分があるのだ。それにしても青柳さんの剣がエディを捉えると恐ろしい勢いで跳ね飛ばされる。あれはなんだろう? 恩田さんたちの部隊を見稽古しているとき、翠が小声で話し掛けてきた。彼らの罠解除師である鈴木秀美(すずき ひでみ)さんについてだ。詳しい経歴を知っているかという質問だった。出身は知らないけど高校生らしいというと彼女を見たまま考え込んでいた。何かおかしいところでもと思い、恩田くんや西野さんの戦いを眺める彼女を見たけれど、確かに地下にいるにしては泰然自若としてふてぶてしくすらある態度はすごいと思うけど、それ以外は普通の女の子に思えるのだが。 桐原聡子(きりはら さとこ)さん率いる部隊がやってきたのでそこでお開きにする。彼女たちは『週末探索者』と呼ばれるグループで、平日はきちんとお仕事をもちながら週末にやってきては戦っている。なかなか独特な週末の過ごし方だと思う。恩田くんたちと一緒に見稽古させてもらったが、週末だけとはいえさすがに第一期からいる古参の探索者だった。エディがものの数十秒でしとめられていた。特に国村さんという戦士の腹筋と背筋の力がすごく、胴のねじりだけで打っている打撃でエディの身体がぽんぽんと飛ばされている。筋力が違うのか、使い方が違うのか。来週の土曜日には時間をもらって少し稽古をつけてもらう約束をした。 地上に戻ってから笠置町屋敷に遊びに行った。葵が昨日、レンタルビデオ屋で借りたビデオが趣味に合ったから。シャルロット・ゲンズブール特集だった。姉の翠はアクション一辺倒、妹の葵は恋愛もの一辺倒というのがイメージそのままで面白い。 寝るくらいなら観なけりゃいいのに雰囲気悪い女だなと言ったら怒らせてしまった。明日もう一度謝っておこう。 十二月一日(月) 大迷宮・第二層 一一時一二分 生まれたその瞬間から女性にはもててきたような気がする。それはもちろん自分の秀でた外見に由来するものだろうが、母親と祖母との三人暮らしだった幼児期、その二人に限りない愛情を注がれつづけたことから生まれる意識なのだろう。だから小学校にあがり、同年代の子供たちから好意以外のものを浴びせられて彼は混乱し、激しく恐れた。大別して悪意に属する感情に対してとる態度はいくつかある。たとえば攻撃的になることで悪意のもとを排除することもあるし、さっさと遁走したり屈服することもあるだろう。彼が選んだのは他の子供たちとは少しだけ違うやり方だった。悪意を正確に分析し、許容範囲を定めて受け止めるように身をかわすという。たとえばいじめっ子に対しては普段はなるべく避けるようにし、自分の誇りが許す程度にはやられてやる、というような。可愛げはないが相手をよく見て分析しないとできない対応だ。 物事を見る目は天性のものだと思う。誰かの悪意、それが受け止めないと相手の気がすまないものかどうかであったり、野球のボールがストライクになるかどうかであったり、ここに来る前の職業だったプログラマでは、プログラムをざっと見ただけで問題になっている部分がなんとなくわかったりした。おそらく、自分は他の人間よりも視覚情報の処理能力が高いのだろうと思っている。そしてそれは地下ではとても役に立ってくれていた。 対面する相手、動くその身体から受ける印象の強弱となってその恩恵は現れる。相手が次の瞬間に移動できる範囲、そのツメが被害を及ぼせる範囲、そして相手がやる気なのかそうではないのかまでなんとなくわかるのだ。生き物相手ならばよほど理不尽な速度で動いてこない限り読める自信があった。 しかし、長所は裏返せば短所になるものだ。関節と筋肉とで動く存在相手には効果を発揮する彼の特性も二つの存在には却って短所になるのだった。一つは生き物ではないものであり、一つはそんな読みが無意味なくらい速く動くものだ。 もちろんそういう存在にはなかなか出会うものはない。第一層ではいちごジャムと呼ばれる粘液状の化け物が前者に属したがまだまだ彼の敵にはならず、後者ではまだ出会っていなかった。同時期に戦士として探索をはじめた津差龍一郎(つさ りゅういちろう)や真壁啓一(まかべ けいいち)は彼が対応できないほどの速度で打ちかかってくるけれど、第二層に達した真壁によれば彼がてこずるような速度で動くものにはまだ出会っていないという。第二層ならば自分はまだ問題はない。それが、今日からここにやってきた理由だった。 山賊と呼ばれている人間型で短剣を持った生き物を蹴散らしその自信を再確認する。いつもどおりに罠解除師の木場直志(きば なおし)がお宝を守るエーテル塊をほぐしている間、怠りなく周囲に視線をめぐらせていた。背中を「金貨だ!」という嬉しそうな声がたたいた。神崎は戦慄した。そしてどうして喜びの声を出せるのかと腹立たしくなった。 治療術師の技術の中に各人の識別能力を高めるものがある。それを迷宮に入る際に施しておけば、それまで読んだり聞いたりして覚えておいた化け物と目の前にいるものを早く一致させてくれるというものだ。相手をどれだけ速く認識しその化け物に応じた対応を取れるかどうかが生死を分ける迷宮内部では必需品と呼べる治療術だった。もちろんそれを生かすためには事前に化け物の情報をたくわえておかなければならない。そのために毎日事務所には確認された化け物に関する最新のファイルが出されているし、探索者専用のホームページには最新の情報が載せられる。自分が毎日長い時間をかけて読み返している同じことを木場もしているものだと思っていた。しかし彼は金貨だとのんきに喜ぶだけだった。神崎の頭の中で結び付けられた存在、通称を金メダルと呼ばれる円盤状の化け物のことは思いつかなかったらしい。 すぐ放せ! という怒鳴り声は悲鳴にかき消された。正式名称をクリーピングコインというその化け物はどういう原理か発電することができ、それがごく付近の空間に激しい火花を生み出す。金貨に似たの外見に惑わされて鑑定しようと目を近づけた人間は、失明することすらあった。悲鳴は二つ、戦士の御前崎甲(おまえざき こう)のものもある。二人してなんて奴らだ。 放り出された金メダルをすぐに破壊しようと駆け寄る視界ががくりと下がった。そして左足に激しい激痛が走る。左のアキレス腱あたりのツナギが切り裂かれ真っ黒に染まっていた。 ——なにが、起きた? 周囲を見回す。白く小さな生き物がこちらを見ていた。いなばと呼ばれる白いウサギだった。数は五匹。ぴょん、ぴょんと飛び跳ねている。 ——ちがう。あれは、生き物じゃない。 形は生き物だ。だが、毛皮によって判別しにくいとはいえその動きと筋肉の動きは一致していなかった。脳裏に危険信号が走る。——ファイルには第二層でもっともすばやいと書いてあったはずだ。動きが読めず、すばやい敵。 確かにその跳躍は津差や真壁ならば苦労なく叩き落せる速度だったろう。しかし相手の動きを読む特技に頼ることで彼らよりも遅い反射神経をカバーしてきた神崎には対応不可能な速度域だった。くわえて片膝をついている不利もあった。 喉に激痛と衝撃。喉ぼとけのあたりの肉をごっそりと失った頭部はその重みで前にたれ、かろうじて残った意識が自分の全身を映し出した。 彼の目は、自分の身体がもう何もできないことを正確に読み取った。 そして、暗転。 真壁啓一の日記 十二月一日 誰も泣かなかった。それが一番の驚きだった。探索者の中には神崎さんと男女の仲だった人もいるはずなのに。 神崎さんの部隊が全滅した。今日はじめて第二層に挑み、そこで何かにやられた。ちょうど地上への電話機が設置されているあたりで敵に襲われたらしく、その敵を撃退したあとで地上へ救援を求めたが、真城さん、越谷さんなど三人が救助に行ったものの、もう持ち帰ることもできない状態だったらしい。全員分のツナギ生地があったからみんな食われたんだね、と真城さんはあっさりと言った。その淡白さと彼らの危機を知って泣きそうな顔で越谷さんたちに同行を頼んでいた姿にあまりのギャップがあった。助けられるものは助けるが、ムリなら見切る。生物として自然なその姿勢は人間には不自然なはずだったが、ここではそれが誰にもとがめられない。とがめようものなら古参の連中から袋叩きにされそうな雰囲気だった。人間らしさを失っていて、しかしそれを指摘できる雰囲気ではないというのは深刻な問題なのではないか、そう思える。なんだか吐き気がする。 違う。 吐き気がするのは自分に対してだ。 俺は、神崎さんの死を悲しむよりも、あれほどの戦士を殺せる化け物が第二層にいることに強い興味を感じている。迷宮街に来た直後、小寺の死体を囲んでいた時と今の俺と、本当に同じ人間なのか? 十二月二日(火) 鈴木秀美の電子メール ユッコにアキ、お元気ですか。姫です。なんかね、同じグループの今泉くんには姫って呼ばれてます。気品があるからかしら(わがままだからだよ/気づけよ)? 今泉くんはちょっと女装させたくない(負けたら落ち込みそう/というか負ける/今でも負けてる)くらいの美男子です。写メール送ったのより三倍くらいかっこいいです。ただ、クールな感じが馬鹿にされてる感じがしてたまにむかつきます。ていうか明らかに馬鹿にされてるのか? 姫て。 いまちょっとね、部屋の空気が暗いです。一緒に暮らしている落合さんが好きだった男の人が昨日亡くなってしまいました。あたしからすると意外とは思えないようなぜんぜん強い人ではなかったんだけど、落合さんはそういうのわからなかったから驚いたみたい。まあ、好きになったらその人が死ぬなんて思わないもんね。でも「あなたがここに来るのはちょっと無茶じゃない?」と思える人でした。 あたしから見て、同時期にここに来た中ですごい人ってのはそんなにいません。みんな、分を守って慎重にいかないと危険です。うちのメンバーなんて・・・泣けてきます。才能だけで考えれば、身長が二メートル以上あるでっかい人がいるけど、この人はすごいですね。マンガだと多分『百万人に一人の才能』とか言われるでしょう。結局は骨格に乗せられる限界以上の筋肉はつかないし、力は筋肉が生み出すものだから体格的なものは大きいね。しかもこの人、精神的にタフです。さすが大人は違う。 というわけで(どういうわけだ)落合さんなのですが、表面は落ち込んでいないんだよね。本人も気づいていないかも。でも毎晩のフランス語会話の暗誦で、これまではパリジェンヌっぽく軽やかに交わしていたフレーズが微妙に暗いです。これは聞かされていてかなり凹みます。 今泉くんとはどうにも恋にならなそうなので、あたしに春をもたらしてくれる王子様を(アホか)求めて夜な夜な徘徊しています(あぶねーな)。新しくバーテンで入った小川さんという人が、三〇代前半くらいだけど、気さくで楽しいです。神田さんという先輩と仲良くなり始めたみたいで、今度ドライブに連れて行ってくれます。でも小川さんの紹介でも・・・年上だしなあ。やっぱり今泉くんかね。でも今泉くんも気を抜いたらすぐに死にそうなのでうかつに好きになれません。どうもこの街は恋には向いていないようです(街のせいか?/そう思わせてくれ)。 そんなところで。球技大会の写真ありがとうね。たむリンハットトリックだって? 見たかったなあ。クリスマスあたりには帰るから、パーティーやりましょう。だから抜け駆けして彼氏つくってんなよ〜(弱気だな)。では。   真壁啓一の日記 十二月二日 どんよりとした曇りの一日。津差さんと訓練をして過ごした。津差さんたちは本当は今日もぐるつもりだったのだけど、彼らの治療術師の的場さんという方が体調不良になってしまったということだった。神崎さんの死にショックを受けていたのだという。真城さんがあんまりさっぱりしていたから驚いたけど、落ち込む人はやっぱりいるんだな。ちょっと安心した。だからって、自分が落ち込んでいないことの言い訳にはならないけど。 津差さんも神崎さんを殺せるような敵が第二層にいることを気にしていた。不意打ちされていきなり畳み込まれたのならともかく、神崎さんを失っても一度残りのメンバーで撃退し、地上に助けを求める電話をかけている。消耗戦になればあの部隊で最後まで残るのは神崎さんだろうから、つまり彼はほぼ一発で殺されたのだ。しかし、そんな剣呑な存在はどうしても思いつかなかった。昼前にやってきた翠と越谷さんを加えて相談したところ、二人はいなばというウサギの化け物じゃないかと言っていた。一撃で致命傷を与えられる化け物はほかに想像できないし、いなばと神崎さんはタイプ的には最悪の相性なのだそうだ。いなばは確かに動きがすばやいけど、そして神崎さんから教わった動作を読む方法が通じないけど——そうか、そういうことか。神崎さんは俺や翠、津差さんに比べたら動きが遅い。その大部分を相手の動きを読むことでカバーしていた。そういうことか。 得心がいったので訓練は切り上げてモルグへ戻る最中に道具屋の小林さんを見つけた。迷宮街では見かけたことのない男性と一緒にいた。なんだか小林さんは困って、泣いているみたいだった。みんないろいろありますな。 十二月三日(水) 迷宮街・北酒場のバー 一九時五分 北酒場内部を大別すると六つに分けられる。ひとつは六〜一〇人座れる丸テーブルが並ぶ集団用の飲食スペース、二つ目は八人がけのテーブルが並ぶ個人用の食事スペース、三つ目はバーカウンター、四つ目はパーティーなどを行うためのホール、五つ目はオープンテラスになっているカフェテリア、そして厨房だ。バーカウンターには四組分のペアスツールと一〇人ぶんのスツールが並んでいた。いま織田彩(おりた あや)が腰掛けているのはペア席ではない。ふらりと一人でやってきたので一人の席に座っていた。ほかの客はといえばペア席に探索者らしい二人がいて、織田とは二つ席を開けて津差龍一郎という大男の探索者が座っていた。そのために余裕があったのか、バーテンが話し掛けてきた。探索者の方ではありませんね? 日に焼けた精悍な外見とは裏腹の穏やかな声だった。小川肇(おがわ はじめ)と自己紹介を受けていて、先日からここで働き始めているらしい。 やっぱり雰囲気が違うんですよ、と小川は笑った。それは、この街が生まれてからずっとコンビニで働いてきた織田にも納得できる答えだったが、続いてコンビニですか? と言い当てられたことには驚いてしまった。 「発声でそんな感じがしたんです。コンビニ独特の発声法は、普段の会話でもわかるものですよ」 そんなものかな、と感心する。 「それに、昨夜レジにいらっしゃるところをお見かけしたからね」 津差の含み笑い。絶句した織田に向けた小川の人を食った笑顔、視線が彼女の後ろで止まった。そして「片岡さん」と声をかける。 「素通りとはつれないですね、片岡さん。一杯飲んでいってくださいよ」 片岡宗一という鍛冶師だった。織田や小川とは違い、鍛冶師だけは迷宮探索事業団から給料をもらっている。三〇人ほどいる彼らが探索者の武器を作り、修繕し、調節しているのだった。鍛冶師たちはみな力仕事にふさわしい体格と男っぽさだったが、その中でもチーフの位置にいる片岡は見るからに血の気がありそうだ。正直なところ織田は苦手だったので隣に座られて少し戸惑う。 しかし、普段の彼とは別人のように今夜の片岡は憔悴していた。小川は何も言わずにビールにブランデーをいれて差し出した。 「大木のところが全滅だよ、小川さん」 大木——大木邦人だ。名前を繰ってすぐに思い当たった。第一期からいる中堅の探索者である。年齢は二〇代前半〜半ばというところだったろうか。毎週木曜日の夜には必ずマンガ雑誌を立ち読みしていた姿を覚えている。背は高く声は大きく笑顔は大味で、殺しても死なないだろうと感じていた。その感覚はこの街ではあてにならないと知ってはいたが、でも、そう感じていたのだ。 「らしいですね」 「何日か前、あいつのところと喧嘩しててね。その時小川さんはいたかな? 大木のこともかなり強く殴ったから、やっぱり後味はよくないな」 「気にすることありませんよ」 これは津差だった。「大木さん、翌朝には顔の腫れはすっかりなくなってましたから」 そうか、そうならいいんだけどなとつぶやくものの、それでも気分は晴れないようだった。そして津差の顔を見た。 「あんた、津差さんてひとかい?」 「——どこかでお会いしましたか?」 「いや、あんたの剣も研いだからな。あれだけでかくて、たった一日で鉄の刃がボロボロになるような怪力はあんたくらいの体格だろうなと思ったのさ」 なるほど、とうなずく津差にではなく、大木は誰にとも無くつぶやいた。 「大木はあれで几帳面なやつだった。あんたたちの剣は両刃だろう? でも大木はいつも決まった側の刃しか使ってないようだった。左右対称の鋳型で作った剣だったんだから、どっちの刃も同じに使えただろうし他のやつらはみんな両刃とも使った後があるのに、あいつだけは片方だけだった。それも決まったほうだ。口は悪かったし喧嘩っ早かったけど、細やかなところもあった奴だった。——もう死んだんだな」 三人とも、日に焼けたその顔を眺めていた。片岡は二杯目のビールをあけた。 「津差さん、あんたは死なないでくれよ。あんたの剣だけは、運ぶのに他のと一緒にしないんだ。普通は二本ずつ運ぶのに、同時に持ったら重すぎて疲れるからな。それは俺たちにとっては時間の無駄でうっとおしいことだけど、しないで済むようになったら俺たちみんな落ち込むぞ」 「そうですよ」 織田がつぶやいた。 「津差さんがもし——そんなことになったら、私たちはレジにくるすべてのお客さんに『この人もどうせ』って思わなきゃいけなくなっちゃいますから。ゴルフダイジェスト、津差さんの立ち読みのためだけに入荷しているんですからね。これからも入荷しては返品を繰り返しますからね、いいですね」 涙声になっている自分を恥ずかしく思う。でも、そう、もし店長が少年チャンピオンを「もう立ち読みする奴もいないし」ということで入荷しないように言い出したら、自分は断固として反対するだろう。 津差は黙りこくっていた。強いブランデーを一気に流し込む。 「ごめんな、勝手なこと言って」 片岡が決まり悪いように謝罪した。それでもしばらくじっと黙った後巨人は答えた。 「——いえ。ありがとうございます」   迷宮街・南北大通り 二〇時〇五分 「こっしー! 止まれ!」 高田まり子(たかだ まりこ)は反射的に叫んでいた。迷宮街の大通り、北酒場に向かう歩道の上だった。声をかけた相手は越谷健二(こしがや けんじ)という名前の探索者である。高田と同じく第一期から探索を続けている彼は、いまでは迷宮街随一の剣士という評判を得ていた。たくましい身体を(自転車用の)ぴったりした服で身を包み、レースに使うような自転車にまたがっている。車道を走っていた彼はゆっくりと減速してからブレーキの音もさせず止まり、呼びかけた女を振り向いた。その顔に手招きをする。 迷宮街内部には東西南北に二車線通りが走っているものの、これは主に外部の業者が物流に使うためのものだ。迷宮街内部では一般人には車庫証明がおりないために夜も遅いこの時間ではほとんど車の往来はなかった。越谷は自転車を担ぎ上げると歩道と車道を分かつフェンスを乗り越えた。そしてゆっくりと高田のもとにこぎよってくる。 「こんばんは、まり姉。何か?」 高田は眉をしかめて皮膚に意識を集中した。彼が通りがかったときに確かに感じたのは迷宮内部でしか強くは感じられないはずのエーテルだったはずだ。しかし目の前に立たれた今は——いや。指をそっと上げる。人差し指で越谷のみぞおちに触れた。 「な、なんですか?」 明らかにうろたえているその声に、ごめん、ちょっと動かないでと上の空で答える。そのまま指で彼の身体をなぞっていった。そしてそれを探り当てた。 「ここに何かある」 「え? ああ、迷宮の中で見つけた石ですよ。けっこう綺麗なんでロケットに入れて持ち歩いているんです」 半分を青あざで覆われた顔は醜いとすら表現でき、そのためか無骨なイメージを抱かれることの多いこの男だったが、会話をするようになってもう半年以上経っている高田は知っていた。この男、実は綺麗なもの——花や宝石など——を好む傾向がある。たまに駅前のデパートから「まり姉に似合いそうなネックレス発見!」といったメールが飛んでくるのだ。恋人がいるという話は聞いていないので、自分の愉しみのために宝飾品店に出入りしているのだろう。変わった男だった。また、木賃宿をいつも飾る花を用意するのもこの男である。 「迷宮の中で見つけた石? ちょっと見せてくれる?」 いいですよ、と取り出したロケットは大きなサイズのものだ。開いたその中にはくすんだような色の鉱物が鎮座していた。この男が綺麗という割には味気がない。地下だともっときらめくんですよ、と越谷は付け加えた。高田はその石から目を離せないでいる。 意識を集中した。 目の前の男は顔の青あざとその戦闘能力に敬意を表されて『青面獣』というあだ名を頂戴していたが、高田にもまたあだ名があった。『魔女姫』というのがそれだ。整った顔立ちと(ほとんどの相手には)穏やかな物腰もそのあだ名の要因のひとつではあったが、何よりも魔法使いとしての優れた素質がその呼称を勝ち取らせた。そう。彼女は優れた素質をもっていた。地上であっても意志の力で周囲の空間からエーテルをある程度集められるほどに。 口の中がからからになるほどに意識を集めたとき、一度ならば猛吹雪の術すら起こせるほどのエネルギーが周囲に満ちていた。ぎょっとしたように越谷があたりを見回す。警戒の視線を高田の顔に向けると彼女は食い入るようにロケットの中の石を見つめていた。つられて越谷も視線を移した。そして驚いた。 石はきらめいていた。彼がいつも迷宮内部で見るよりもはるかに奥深い、ダイヤモンドの屈折率の奥で万華鏡が輝いているかのような幻想的な色調だった。 エネルギーが霧散した。石の輝きが薄くなり、消えた。 高田はよろめき、額を越谷の肩にあずけた。大きく深呼吸をする。大丈夫、と越谷の気遣いにうなずく。 「ねえこっしー、明日ひま?」 「え、ええと、特に予定はありませんけど。デートですか?」 「え? うん、そうだね、デートだね。ちょっとこれを詩穂に見せに行こう。いや、久米さんかも」 越谷は明らかに落胆した表情を作ったが、高田は気づかなかった。すでにくすんだ色に戻った石を見つめていた。   真壁啓一の日記 十二月三日 本日の探索も無事に終了。第二層でも危なげなくなってきた。今日もまた八万オーバーの稼ぎである。迷宮から戻ってきて何も考えずにお金を預け、戻ってきたレシートを久しぶりに見たらびっくりした。こんな金額になっていたのかと。 なので、ちょっと銀行の窓口に行ってみることにした。探索者はみんなお金がうなっているから、それを見込んでの投資相談には力を入れているだろうと思ったからだ。 予想に反してあんまりいい感想はもてなかった。窓口の男性はしきりに一つのファンドを薦めてくるだけで、なんというか、俺の希望にあわせて一緒に考えてくれるという姿勢が感じられない。殿様商売とでもいうのかな。この街では金がうなっている顧客が沢山いるから、俺程度の投資準備額では歯牙にも掛けられないのかもしれないし、みんな真剣にお金を殖やそうと思っておらず、薦められるがままに決めてしまっているのかもしれない。ともあれすっかり不愉快になった俺は席を蹴立てて帰り、それから大通りの植え込みに座って少し考えた。 すべてのことをする時間がない以上、俺たちはたくさんのことを他の人間に代行してもらっている。その際支払われるのは、しばしば愛情やら義理やら好意やらの場合があるけれど、圧倒的にお金が多い。お金で誰かの労働を購うことが一般的だから大体の相場というものが出来上がっている。かにパン一つで考えると小麦粉の栽培から店頭に並べるまで一つのパンを作るために本当にいろいろな人が働いていて、その労働に対して俺が支払う金額は八四円である。この八四円という金額は変わらない。俺が貧乏だった頃も今も。 でも、お金を沢山持つことで、八四円という金額に対する自分の中の価値は下がっていく。月一五万でアパートから遊びからまかなっていた東京時代はかにパンを買うのにも一五秒迷ったけど、今は(たとえば立ち読みをして申し訳ない気分をごまかすとかいう程度の)軽い気持ちで棚から取る。 かにパンは世間一般の二二才にとっては手軽なものだから、俺と迷宮街の外の二二才との間に感覚のずれはそれほどないだろう。けど、たとえば祇園で五万使うことを軽く考え始めている自分はやっぱりよくない変化をしているのではないかと思ったのだ。もちろん沢山稼いでいる人間は、ポンとお金を使っていいに決まっている。けれども、ポンとお金を使えない人間にとってはその気持ちは理解できないものだろうし見ていていい気分はしないだろう。少なくとも俺はそうだった。 何十万、何百万という投資は真剣にするべきもののはずだ。でも俺たちみたいな若造が「なんでもいいよ」という適当さで扱っている姿は、お金の価値に敏感な銀行員だけに不愉快に感じられるのではないだろうか。それがあの人の態度になったのではないだろうかと思ったのだ。もちろん商売繁盛はいいことだ。けれどどう感じるかは別の問題だから。そして俺たち探索者には共通して未来(自分のみならず他人のものも)を大切にしていない傾向がある。 自戒しないといけないことがたくさんだ。 十二月四日(火) 道具屋 十二時四五分 迷宮街では日常生活にかかわることの大半が一般企業にゆだねられているが、簡単に参入できるというわけではなかった。スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどはある。しかし衣服や本、一般的ではない食材、娯楽の類は街の中に立ち入ることは許されなかった。そういったものまで迷宮街内部で自給自足してしまうことで閉鎖的になることを恐れての処置だという。それは奏効し、住民たちは気軽に四条や京都駅前、あるいは大阪神戸などへと出かけていった。奏効しているからこそある程度は原則を外れた商行為も許される。道具屋で家電や家具の注文販売が行われているのはその一例だった。当初はそれらも迷宮街の外で買うしかなかったのだが、さすがに運搬するのは億劫だったのだ。何しろ自分のための車をもてない街だから、買う場合は送ってもらうかレンタカーを利用するしかないのだ。 道具屋のアルバイトである小林桂(こばやし かつら)の仕事の一つにそういった注文品の引渡しがある。もちろん口外するつもりもないが、一人一人の注文の傾向というものが読めて面白く感じることもあった。いま彼女が扱っているのはその中でも顕著な傾向がある女性が注文したものだった。 「ログハウスでも建てるつもりですか?」 神田絵美(かんだ えみ)は第一期の探索者で、今年で三〇になる女性だった。ふっくらとした少々下膨れの笑顔に似合わず彼女の趣味は日曜大工である。散歩しているとしばしばトンテンギコギコとにぎやかにしているところを見かける。だからその材料の注文は慣れたものだったが。 今回の材料は比較的細いとはいえ丸太だった。 「うん。犬用だけどね。徳永さんが今度犬を飼うらしいの」 面白そうですねとつぶやくと見学に来ないかと誘われた。今日は早朝シフトだったので、あと一五分で仕事があける。用事もないし甘えることにした。 道具屋の軽トラで彼女の作業スペース(木賃宿の前にある庭の一角だった)に向かい、二人して木材を下ろした。小林が軽トラを返して戻ってきたら、すでに神田はのこぎりを引き始めていた。 小林には工作の心得はない。だから言われるままに木片を支えたりしていることしかできなかった。それでも、小柄な女性がひらひらと飛び回るように仕事をこなしていくのは見ていて気分の良いものだ。いい午後だなあ、と曇り空を見上げて吐く息は白い。もうすっかり白い。神田絵美謹製のストーブに手をかざした。空の灯油缶の中で木片が燃えている。さすがにかじかむよ、と言いながら神田が隣りにやってきた。そして唐突に一人の男性の名前をつぶやいた。 「この間、来てたでしょ。桂に用があったの?」 小林ははっとしてその横顔を見つめた。神田は少しすまなそうな顔で、ごめん、見かけたと謝った。 「ええ、そうです」 「なんだって?」 「一緒に来て欲しいって言われました。いまは実家のお店をついでいるらしいです」 そう、と神田はうなずいた。そしていい話だと思うな、と。小林は答えなかった。 「美香のことはもう考えても仕方ないことでしょ」 あれはまだ一年経っていないころのことだ。その頃の小林にとって探索者は少々金遣いがあらいけれど気のいい友達だった。小林、神田、そして二人の男性と一人の女性。その五人で暇を見つけては遊びまわっていた。別世界のように思える風景。 今ではこの街に残っているのは小林と神田しかいない。もう二度と話せない場所に行ってしまっていた者も二人いる。 「ダメですよ」 少し強い語気に自分でもはっとする。いぶかしげな顔に気づき苦笑した。 「私は男の人を不幸にしますから。ダメですよ」 脳裏には二つの顔。 迷宮街・教官室 一三時二〇分 「こういうものがあるなんて想像もしませんでしたね」 鹿島詩穂(かしま しほ)はさすがに魔法使いの訓練責任者だけのことはあり、高田まり子(たかだ まりこ)に差し出された石片をつかんだだけでそれがどういうものなのかを理解したようだった。 「まりはどう使えばいいと思いますか?」 鹿島は教官であり高田の師にあたるはずだったがそれでも意見を訊いた。傍で見守る越谷健二(こしがや けんじ)にはそれがこの教官の通常の態度なのか、あるいは魔女姫だから特別なのかはわからない。 「うん。私たちが地上で持っても触媒の代わりにはならないわね。そして、そもそも迷宮内では必要ない。でも、自動的にエーテルを集めてくれる力は役に立つと思う」 「黒田さんの領分でしょうか?」 「そうだね。彼は天才だけど、彼と同じようなことがこっしーにもできるようになるかもしれない——使い方を勉強するか、それとも方向を固定するか」 そこで話を聞いているだけだった越谷が手を挙げて会話をさえぎった。 「えーと、帰っていいか、説明してくれるかどっちかお願いします」 魔女二人が視線をかわした。高田が口を開く。 「この石は、私たち術師たちが迷宮内で使うエーテルを常時集める力があるの。ゆうべ私が一時的にエーテルを集めたら反応して輝いたでしょ? そういう性質があるんだろうね」 越谷がうなずいて先を促す。話を継いだのは鹿島だった。 「魔法使いや治療術師が精神力でやっていることが、これを持つだけである程度自動でできることになります。越谷さんもご存知のようにエーテルは便利な道具ですが、あなたがた戦士は自分で集めることができません。そこをこの石が肩代わりしてくれるのならば、それを利用していろいろなことができると思われるのです。——黒田さんの戦いをごらんになったことは?」 訓練場でなら、との答えはいぶかしげだった。そうだろう。随一の剣士である彼ならば黒田聡(くろだ さとし)が決して超一級の剣士ではないとわかっているはずなのだ。その男を捕まえて魔女二人は自分よりも格上のように話しているのだから。 「こっしーの強さってのは、地上でもどこでも変わらないでしょ。それは純粋に肉体と技術だけの強さだからだね。でも、黒田くんは違う。黒田くんはその才能があって、自分の攻撃や防御に自然とエーテルを利用しているの」 「・・・魔法を使っている、ってことですか?」 「それほどハデじゃないけど、こっしーは地上でも迷宮内部でも砕ける石は同じだろうね。けど、黒田くんは違う。訓練場では砕けないような岩であっても迷宮内部ではこなごなにしたりする。場所限定の強さになっちゃうけど、それだけに強いよ」 「そういうものもあるのか・・・」 鹿島がうなずいた。 「そういうことです。越谷さんと黒田さんの違いは無意識にエーテルを集められるかの違いですが、これはもう、才能というしかないものです。だから黒田さんのような戦士が現れても私たちは他の戦士たちに見習えとは勧めませんでした。どんなにがんばっても素質がなければできないことですから。けれど、集めるパートをこの石が代行してくれるのならば、その操作はそれほど難しくないはずです。特に剣やツナギに直接石をくっつけてしまえば操作の必要すらないかもしれません」 「片岡さんかな」 「でしょうね。でもまずは理事の方々に相談してみます」 そしてしげしげと石を見やった。夕べ、魔女姫がエーテルを集めるまではくすんだままだった石は昼の光の影響だろうか? 教官の細く白い指につままれてかすかにきらめいているように見えた。それにしても、とそれを眺めたまま教官は続ける。 「それにしても四階に届くようになって結構たつのに、どうして今まで見つからなかったんでしょうね」 「宝石マニアがいなかったからよ」高田は越谷の肩を頼もしげに叩いた。 「お手柄だよこっしー。ご褒美は何がいい?」 二人分の賞賛の視線に柄にも無くうろたえ、いえ何もしてませんからと口の中でつぶやく。こういうときにさらっと「ほっぺにチュで」と言えない性格が少し悔しい。   真壁啓一の日記 十二月四日 今日は訓練場でのトレーニングは行わず、恩田さんの部隊の戦士である西野太一(にしの たいち)さんに連れられてボルダリングというスポーツを初体験してきた。前に書いたかな? 西野さんはロッククライミングをするユーミンファンで、この街で三日に一度だけ稼いだら山に行っている。今日は俺と翠、真城さんは初心者ということで自然の岩肌は避けて人口壁に突起がたくさんついている場所に行った。京都駅の南東である。レンタカーを借りて久しぶりに運転した。俺の運転は左に詰める傾向があって助手席に座った翠は落ち着かなかったらしい。最初の五分は「あぶない!」「あぶない!」と悲鳴をあげていたけれど、すぐに「一五センチ」「七センチ」というつぶやきに変わった。鬱陶しいなあ。絶対当たらない自信があるから左に詰めているんだけどな。 ボルダリングはまったく新しい経験だった。腰にハーネスというベルトをつけてそれを頑丈なロープで固定する。ロープは天井近くにあるバーを支点にパートナーの腰にあるハーネスに結び付けられる。パートナーは相手の登り具合を見ながらロープの遊びを調節するから、壁から落ちても地面に叩きつけられることはない。 俺はバランス感覚に優れているつもりだったけど、それは両足の裏が地面についている状態でのみ発揮できるものだったらしく、専用の靴(つま先をグーにするかなりぴっちりしたもの)をはいて親指の先しか壁にかからない、という状態ではなかなか思い切って身体を動かせなかった。甘く見て垂直の壁に取り付き、調子よく登っていったが足場が少なくなって滑落した。女どもから笑いが起きる。 さすが平地で転ぶ人間は違うわと古い話を持ち出してから、自信満々の表情で翠が壁に取り付いた。パートナーである俺がロープを送り出そうと待っていたら、俺の身長くらいのところで動きが止まってしまった。 「・・・あのっ。もう登れる気がしないんですけどっ。西野さんっ」こんなうろたえっぷりだったろうか。こんな翠は初めて見た。真城さんもカメラ持って来いと叫んだからには相当珍しい光景だったのだろう。カメラは持ってなかったけど。いくらなんでもそこで止まるとは思わなかった俺は驚き指示をした。右手でつかんでいる突起のすぐ下に右足を掛け、身体を引っ張りあげるだけの簡単な動きだったのに、それができないようだった。 西野さんが俺より的確な指示を出すが結局できず、翠はずるずると降りてきた。どうしたの? と訊くと、あれはムリでしょという返事だった。 初めてで垂直の壁にいきなり登れる方がどうかしている、と西野さんとスタッフの方が言ってくれて、初心者用の斜めの壁に移動することに決めた。その前に真城さんが一度チャレンジを申し出た。翠の警告にも「アマゾネスの女王を舐めるな」とかっこいい言葉を残して壁に取り付く。パートナーは西野さんが勤めた。翠が失敗したところを意識して真城さんの登り方をみていてわかった。俺は一七六センチで腕は長め、翠は一六二〜三センチで真城さんは一七二センチだから、腕、脚の長さにして俺と翠は一〇センチ程度、真城さんとも五センチほどの差がある。それが、この壁では大きな違いをもたらすのだ。俺なら簡単に脚をあげられる場所も、二人には大変なのだった。そう。同じところでアマゾネス軍団の女王も動きが止まった。でも彼女が違うところは、そこから腕(というか指)の力だけで登っていったところ。「おっかねえな、あの子は」という西野さんのつぶやきにまったく同感である。 斜めになっている初心者用の壁に移動してやり直した。さすがに戦士で食っている面々だけあって運動能力は高い。垂直の壁へのチャレンジは次回のことだけど、少なくともみんな楽しむことはできた。真城さんは早速自分用のシューズを買ったほどだ。もっとも、あの人の目当てはボルダリングそのものじゃないらしいけど。今日もキャラメルママに行くかと西野さんと意気投合したら翠に「真城さんの恋路を邪魔したら、馬を待つこともなく刺されるよ」と耳打ちされた。そうなのか? 俺は相変わらず鈍い。 京都駅東側でレンタカーを乗り捨てた。少しくらいのアルコールなら大丈夫だよと言ったのだが三人から猛反対が出たのだ。そのままタクシーに乗って手近な焼肉屋に移動する。その場で驚くべき話が出た。二人とも俺と翠が付き合っていると思っていたらしい。同じ部隊の戦士同士、年のころもほぼ一緒だからともに行動することは確かに多いけれど、まさかそういう噂話の片方に俺が選ばれるとは思わなかったから驚いた。ということで自慢のために書いておこう。どんなにひどく翠に否定されたかは書かなくてもいいだろう。女ってのはしばしば、男にもプライドがあるということを簡単に忘れるもんだから。「こんなの」はないだろう「こんなの」は。俺は年上だぞ。 用事を思い出したふりをして俺たちは迷宮街へ。二人はそのまま二軒目に向かった。二人ともいい人だからうまくいけばいいけれどね。 十二月五日(金) 真壁啓一の日記 十二月五日 今日は一一時までパトロールなのでこの時間から書く。パトロールというのは探索者の戦士たちが自発的に組んだ自警団のことだ。迷宮街は街という名前だけど、交番が一つあるだけで警察力はほとんどない。もっとも陸の孤島というわけでもないし、不良少年と駐車違反が少ないこの街なら必要ないのかもしれないけれど、それでも珍しいことだろう。そこを補うのが探索者の自警団だった。とはいえ自警団にはもちろん現行犯以外の逮捕権限はない。主に喧嘩の仲裁が役目だった。当然選ばれるのはある程度以上の実力がある戦士のみ。俺も今日からおおせつかった。津差さんに遅れること四日、第ニ期の探索者では三番目になる。もちろん一番はうちのボスだ。 喧嘩の仲裁とはいえ血の気の多い探索者のこと、いちいち取り締まっていたら身がもたないし、すべての探索者にとって身体は資本だから深刻な事態にはならなかった。俺たちが出馬するのは、鍛えられたその力が普通の住民に向けられた場合のみ。そしてそのために自警団を組織しなければならない事実は、迷宮街の悪い一面を示していると思う。 人より優れた力を持った人間がそれを恃み傲慢になってしまうというのはこの街に限ったことではない。どんな学校にも高学年であることをかさにきて威張る奴がいるものだし、どんなテレビドラマにもいやな上司は登場する。でもそれは別に問題ではないと思っている。その力が、その人間のものでない限りは。 権力、財力、年齢といったすべては他人からその価値を認められて初めて効果をもつ。だから暴君を倒すにはその生命を止める必要はない。彼から権力を奪うことができればそれでいい。その意味で、世間一般にいる暴君たちは虎の威を借る狐だということができる。でも、迷宮探索で鍛えられた人間の肉体の力は別だった。それは、たとえば腕を切り落としたりしない限りいつまでも彼のもとにありつづける。本人が改心しないならば、その迷惑を止めるには非常手段をとらなければいけない種類のものだ。いきおい、権力やら財力やらをよりどころにする人間よりも傲慢の度が深くなる。 それを止めるために探索者が有志で自警団を組まなければならないという事実は、力を鍛えても悪しき人間性は矯正されない事実を示しているし、たとえば警察署を設置したり自衛隊に臨時に権限を与えるなどという公の力で処理できないでいる現状を示している。 でも、ここ以外のどこでだってそんな対処はできないことだった。迷宮街の中ならば、そういった常識を超えた戦闘能力がいることが予想されてそいつらの暴力を抑止する手段も考えられるが、これが外の世界に散らばっていったらどうなるだろう? うまく立ち回るずるがしこさを備えたヘラクレスは、普通の人々にとって悪魔にもなりうるのではないだろうか。 他人の気持ちをどうこうすることはできない。少なくともこの街では探索者がカタギの人に迷惑をかけようと思ってもできないくらい、俺たちが目を光らせるしかない。あとは、自発的に俺たちの側から自警団が生まれたことに希望をもつしかないのだろう。 何かの本の中で、「生物がより文明化されるとは身体の中にあらゆる種類の病原菌を蓄えることであり、社会がより文明化されるとは社会の中にあらゆる種類の悪徳の種を蓄えることだ」という文章を読んだことがある。一度克服した病原菌に抗体ができるように、社会も怠惰や貪欲、暴力や差別という悪徳を身のうちに供えることで、それで絶滅しないようになるという話だった。迷宮街で生まれた、普通よりも強靭だが自制心は平凡という存在。これも一つの病原菌なのかもしれない。この街で培養され、少しずつ広がっていき、迷宮街の外でもなんとか共存の方法を見つけるようになるのかもしれない。でも今は対処療法を続けるしかないのだろう。この街が外国人に解放されていない理由が少しだけわかったような気がする。この街が生むのは富だけじゃない。伝播を慎重に見守らないといけないような存在も生み出しているのだろう。    迷宮街・北酒場 一九時一二分 乾杯をした時点では確かに二人だった。しかし一五分後には差し向かいのテーブルから円テーブルに移り、五人が腰掛けていた。 神田絵美(かんだ えみ)が製造に携わったログハウス風犬小屋も本日無事完成し、手伝い半分話し相手半分で見物していた小林桂(こばやし かつら)に礼をかねてお酒をおごりたいといわれ、二人して北酒場にやってきた。旧友と飲む久しぶりのビール、喉を焼く苦味に意識を半ば飛ばしつつあったところに声がかけられた。 そこにいたのは真城雪(ましろ ゆき)という第一期からいる探索者だった。美人で活動的な彼女は迷宮街でも屈指の剣士として有名だったから、当然小林も見知っている。彼女は神田と同じ部隊だった。その隣りには見覚えのない男女が立っていた。ごく自然に神田がお通しを持って立ち上がり、場所が円テーブルに移された。 西野太一(にしの たいち)、鈴木秀美(すずき ひでみ)と自己紹介をされた。ともに第二期の探索者だという。正直なところあまり探索者と深くかかわりたくなかったし、新しい知り合いも作りたくなかったのだが、それを言い出せる雰囲気ではなかった。 改めて乾杯を交わした直後、西野があげた言葉が彼女を金縛りにした。彼は知り合いを呼ぶ口調で叫んだのだ。今泉、と。 「うっわ大人数ですね。また宴会ですか?」 声も語調も聞き覚えのあるものだった。夢にも出てきたことのある声。夢の中で彼女を責める声。 「お前も飲めよ! 明日は休みなんだから!」 心から誘うテーブルの面々に、彼に顔を見られないようにうつむきながらも嬉しさを感じている。どうしてこの街に来たのかは知らない。でも彼はこの街で一人きりではないのだ。 「まあたまにはいいすね。ご馳走になろうかな」 ガタ、と自分の隣りがあけられた。ぎょっとして顔をあげる視線が今泉とぶつかりあった。途端に彼の眉がいぶかしげに寄せられた。 「あれ、どこかで」 「道具屋の小林さんだよ」西野の声。 「いや、道具屋じゃない・・・小林、こば・・・小林先生?」 びくりと身体を震わせた。 先生? と神田が驚きの声をあげた。桂、家庭教師か何かをやってたの? と。 「いや、中学校のときの担任の、小林先生ですよね? 小林桂先生でしょう? え、ええ? 俺のこと忘れちゃいました? 住吉中の今泉ですけど、っていうかどうして先生こんなところ、あれ? 道具屋? いてえ! いててててて! 姫! 放して!」 十分に混乱している今泉の首の付け根に鈴木と紹介された少女が指を置いていた。驚いたことにそれだけで彼は身動きが取れないようだった。 「どうどう。まあ落ち着け。——小林さん、先生だったんですか?」 自分の顔から血の気が引いていくのがわかる。 「ごめん、神田さん。ごめんなさい、皆さん——失礼します」 「痛い痛い痛い痛い! あれ、先生ちょっと待って! あいたたた!」 彼の声には自分を責める口調がないように聞こえる。でも、それは自分を甘やかしているだけだろう。人生を台無しにしておいて、笑顔で話してもらえるわけがないのだから。   鈴木秀美の電子メール ユッコにアキ、お元気? 姫はそんなに元気じゃないでござるよ(考証しろよ)。今日、他の探索者の人たちとお酒飲んでたら、なんか道具屋の女の人が雰囲気ぶち壊してくれました。前から気に入らなかったのよねー、あのおばちゃん。 なんか、今泉くんのもと担任? だか顧問だかで、今泉君にとっては恩師なのだそうです。恩師の割には逃げてっちゃったんだよね。なんかあるのかな。 つまんなかったわよ。真城さんて人はうちの部隊の西野さんて人となんか二人で世界作ってるし、今泉君はその道具屋のおばちゃんのことを、そのおばちゃんの友達に根掘り葉掘りしてるし。よっぽど他の席に行こうかと思ったわよ。 ああもう! 二七才だよ? もうおばちゃんじゃん! 信じらんない! 十二月六日(土) 有楽町・バー 一六時二二分 まだ日の高い午後四時だというのに店内は半ば以上が埋まっていた。さらにソファ席から届いてくる笑い声は彼らが十分に酔っていることを想像させる。見知った顔が開いたドアの下にある自分を見て凍りついた。新郎の上司にあたるその顔は田垣功(たがき いさお)もよく知っているものだった。彼もまさか自分の会社の役員がやってくるとは思っていなかったのだろう。 「いらっしゃいませ専務!」 カウンターの奥からなじみの深い声が田垣を迎えた。いつもどおりの、いちど覚悟を決めないとひるんでしまう悪相が笑っている。それにしても、とその隣で幸せそうな笑顔と雑然とした店内を見回して思った。もうすぐ六五年の人生になるが、こんな結婚式は初めてのことだ。新郎がちょっといないくらい凶悪な顔つきをしていることもそうだし、新婦がきわめて整った美貌であることもそうだったけれど、それよりも何よりも、新郎が慣れない手つきで氷を砕きその隣で新婦が一生懸命グラスを磨いている光景などこれまで祝福の場では見たことがなかった。ここは有楽町駅から少し歩いたビルの地下にあるバーだった。かつて、本日の主役である後藤誠司(ごとう せいじ)に連れられて二〜三度来たことがある。今日は貸切でその結婚式のために開放されていた。 迷宮街への異動にともない突然決まった結婚であるから式は肩肘張らないものにするつもりだとは本人から聞いていた。しかし、スピーチもなければ時間指定もない、案内に記されたバーに記載された時間の間にやってきて適当に酒を飲んでくれというだけの式は肩肘を張る張らないではなく肩や肘の場所さえ見当もつかないものだった。それに、これだ。後藤に懐から取り出した祝儀袋を渡した。彼は嬉しそうに押し頂くと、いそいそとその中身を引っ張り出した。 祝儀袋の中に入っているのは紙幣ではなく、一枚の紙片だった。そこには田垣の文字で「結婚おめでとう」と書いてある。後藤は満面の(自然な、つまり凶悪な)笑顔でためつすがめつすると、その紙を壁にあるコルクボードにピンで留めた。同じような紙がすでに十枚以上飾られている。毛筆あり、ペンの字あり、短いメッセージあり、長い警句あり、紙の色、文字の色、筆致の巧拙はさまざまだったけれど、そこにはひとつ共通しているものがあった。この結婚を祝う強い気持ちである。 『ご祝儀は不要です。その代わり、自分が納得する祝福の言葉を紙に書いてきてください』という文章を式の案内に見つけたとき、貧乏性が抜けていないのか、まずはもうけたと思った。しかしいざ書いてみるとこれが難物だった。 筆記用具はすぐに決まった。ある万年筆である。すでに潰れたメーカーのもので、そうと知らずに彼に購入を頼んだのが彼との出会いのきっかけだった。その時は手に入らず代用品を即座に用意した彼の行動力に感心しただけだったが、それから一年と三ヶ月したある日、奈良の文房具屋の倉庫にありましたというコメントとともにまさにそのメーカーのその型の万年筆を持ってきたのだった。代用品はすでに手になじんでいたがもちろんその万年筆にすぐに乗り換えた。一年三ヶ月も自分のために商品を探してもらったことなど今までなかったからだ。このペン以外に自分の祝福の気持ちを伝えられるものはなかった。 紙の良し悪しはわからないから秘書に命じて適当に高級なものを用意させた。そして最初は長々とした激励の警句を書き記した。幼いころ、教育の一環として学ばされた書道を手は覚えていたらしく、見栄えのいいものができあがった。そして即座に破り捨てた。 これは違う、と感じたのだった。こんな小手先のものではなく、もっと相手を思う気持ちが伝えられるはずだった。暇を見つけては紙にペンを走らせた。その都度、彼らには必要ないだろうものを削り落としていったメッセージはついに『結婚おめでとう』の一言になっていた。 納得のいくものが出来上がったのは一昨日のことになる。子供のように浮き立つ気持ちを抑えられず、秘書に見せた。秘書はしばらく見つめたあとでため息をついて、私もこんなふうに祝福されたいとつぶやいた。不覚にもその言葉を聞いて田垣は涙ぐんでしまった。 しかしその幸せも長くは続かなかった。取引先のデパートに挨拶に出向いた帰り、ふと立ち寄った文房具屋で見かけた紙、その方が自分が使ったものよりもより自分の気持ちを伝えられることに気づいてしまったからだ。気づいてしまったからには、紙の選択でも悔いを残すわけにはいかなかった。 その発見が昨日の午後のことで、それから三軒のデパートを回った。書き上げたのはつい二時間前だった。 新郎と同年輩にあたる若いスーツの群れが田垣の紙を覗き込みにやってきた。そして、おお、と声をあげる。中には「こんなことなら書き直したいな」という悔しそうな声もあった。その言葉の真剣な響きに田垣は笑みをもらす。彼は早晩書き直し、それを新婚家庭に届けるだろう。そうして、彼らの新居は心からの祝いの気持ちで満たされていく。 ソファに座るのは若い社員たちに気の毒ということで、バーカウンターに座った。メニューを見て強めのスコッチをロックで注文する。危なっかしい手つきで新郎が氷をグラスに落とし込んだ。飲み物は種類を問わず二千円と少し高めだが、その儲けが祝儀になるのだろう。 「いい式だな」 心からそう言って後藤はにやりと笑った。雛壇は嫌いなんですよ、と。それでも花嫁の実家がある宇都宮ではきちんとした古式でやるのだそうだ。 「結婚式はあまり好きじゃないんです。ご祝儀は負担だし時間は取られるし、それでいて祝いたい相手とはあまり話ができないし。こいつが結婚式にドリームを持っていたらあわせようかと思ったんですが、こういうのはどうかと相談したら賛成してくれて——いらっしゃいませ!」 振り向くと、華やかなそれでも普通に見かけるスーツ姿の若い女性たちの一団が歓声をあげていた。だぶだぶのボーイの服装がかわいらしい花嫁にかけより、両手一杯の花束を渡している。一人として社内で見かけた覚えがないから新婦の個人的な友人たちだろう。ざわ、と空気がうごめき、若い男たちの集団が二つ同時にエスコートに殺到した。その姿に思わず笑ってしまう。 客の大半は田垣にもなじみの深いスーツ姿だったが、あきらかにブルーカラーとわかる一団も同じくらいいた。後藤の話によれば、学生時代に両親を失ってから肉体労働のバイトはかなりやって、友人もたくさんいるのだそうだ。そのあたりかもしれない。彼の部下たちとは反目しあいながらも和気藹々とやっているようだった。そこからも新郎の人柄がわかる気がする。 「六時くらいまでは閑古鳥かと思っていたんですけどね。——これサービスです」 目の前にミックスナッツの皿を置いて後藤が笑った。そして花嫁を呼び寄せると紹介した。花嫁も同じ会社の人間だという話を聞いていた。彼女にとっては初めて見る役員という人種だったろう。いくぶん緊張したようにぺこりと頭を下げる姿はかわいらしい。 新しい一団への飲み物を用意し終えてまた田垣の前にやってきた後藤がすっと真剣なまなざしになった。 「ところで専務、今の迷宮街の責任者の榊原さんという方のことですけど」 「こんな日にまで仕事の話はいいだろう」 「いえ、仕事の時間を使って訊くほどのことでもありませんから。経歴を見ましたけど、決して無能な方ではありませんね。怠け心を出したとも思えないし。どういう方かご存知ですか?」 「私の印象を知ってどうするつもりだ?」 「気構えの問題ですね。常識的に考えても難しい交渉になるってことは想像ができてます。でも、榊原さんがどうして何の手も打とうとしていないのかが気になっているんです。あまりに困難な交渉にさじを投げたのか、事実上の独占を失うことを恐れたのか、あるいは利益をあげているのは確かなことだと怠け心を出したのか」 声を潜める。 「あるいは脅されているのか」 「そうだとしたら行きたくないか?」 「逆です」 即答だった。 「積極的に関わってくるのであれば却って楽ですよ。相手に交渉の意思があるってことですから。問題なのは攻め口がなくそれでいて頑固な相手です」 頼もしい笑いに田垣はうなずいた。確かにこの人相が相手ならどんな脅しも尻すぼみに消えていくだろう。 「最後に会ったのは今年の夏だが、脅されているほど弱ってもいないようだったな。投げ出したようにも見えなかった。そう、信念あってあの利益率をキープしているような感じだった。だからお前に任せるんだ。いつから行く?」 「来週中には。とりあえず試験を受けてみようかと思っています。最近、久しぶりに運動していますよ」 そして笑った。 「でも、今日がいちばん体力的にきついですね。店を空けて二時間、もう座り込みたいんです、実は」   真壁啓一の日記 十二月六日 第二層で地図ができている個所をすべて歩き終わった。曲がりくねった洞窟だから正確な大きさはわからないけど、歩いている時間だけで五時間はあったと思う。体感的に時速四キロくらいの速度で進んでいるから、ゴツゴツした洞窟内を警戒しながら二〇キロは歩いていることになる。ちなみに二〇キロというのは新宿から府中の競馬場くらいの直線距離になる。大変なものだとわかってもらえるだろうか。それでも明らかに疲労が軽減されているのは体力と気力が底上げされているからだろう。最近では朝八時に地下に潜り、地上に出てくるのが一五時ごろになっていた。確かに第二層でもこんな調子では第四層から先へのアタックができないという事情がよくわかった。第一期の探索者で現在第四層に達しているのは四部隊(そのうちのひとつは真城さんのところだ)あるが、そこから先のアタックをするためには地下で最低六時間の睡眠をはさまなければならない。警戒しつつの浅い眠りでは疲労が回復するわけもなく、テントや食料などを持ち込んだら行動力が下がるということで地下での睡眠は現実的ではない。ゆえにそこから先へ進めないのだった。 来るべき第三層へのアタックを見込んで現在はしきりに情報収集をしている。熱心なのは児島さんと常盤くんのコンビだ。お金が必要だが死ぬわけにもいかない彼らは自分たちにとってのリターンとリスクの最高のバランスを探している。もともと第二層で俺たちと別れる予定だったがそれも不明になってきた。色々と暇を見つけては代打をしていてわかったらしいが、仲間として俺たち以上の部隊は(少なくとも頻繁に代打を必要とするような部隊では)ないらしい。俺たちだって彼らと組んでいたいから、もうしばらく第二層で経験をつみ、絶対安全になってから第三層に挑むのがいいのでは、とみんなでの話し合いでは決まりつつあった。問題は絶対安全の判断基準だ。 第二層と第三層の違いは何か、と第一期の探索者たちに訊くと返ってくるのは「スピード」という答えだった。第二層最速の化け物は通称をいなばという白いウサギの化け物だったけれど、第三層での標準の速度はそれに近い水準になるという。いなばは生き物の外観をしているものの実際はエーテルが凝縮されてできた存在らしく、筋肉の動きなどで先を読むことはできない。純粋な反射神経だけで対応しなければならない難敵だった。うちの部隊では俺と翠は対応できているが青柳さんはたまに悲鳴をあげていた。それが標準になるのだから困難が思いやられる。そして、スピードというのはそれだけの問題ではないらしかった。話によれば第三層は、怪物たちがねぐらにするような物陰や横穴が非常にたくさんあるらしく、その大部分は掘削して通行可能になっているものの目を離すとすぐにその暗闇に潜むものが出る。第二層などと比べてはるかに近くに怪物が潜むことになるために戦闘また戦闘というテンポになってしまうという。よほど慎重にしないとこれまでの好調も続かないとは容易に想像できた。第一期の探索者でも第三層に降りずに第二層でやめておく部隊が半分以上いるのだった。それだけの違いがあるということか、と唸ったら黒田聡(くろだ さとし)さんが「まあ、度胸の問題もあるからな」と吐き捨てるようにつぶやいた。 地上に出てモルグに戻ったら週末探索者の国村光(くにむら ひかる)さんが来ていた。先週約束して身体の使い方を教えてもらう予定になっていたのでそのまま訓練場に出かけた。 予想に反して国村さんの講義はホワイトボードの前で行われた。なんだ? という顔をして教官の橋本辰(はしもと たつ)さんも顔をのぞかせる。さらさらと国村さんがホワイトボードに描いたのは人間の胴体の図だった。黒いペンで肋骨、背骨、骨盤を器用に描き、そして「これが腹直筋」とつぶやいて筋肉の線を赤いペンで描いた。普通の筋肉の図とは違って、どの骨とどの骨をつないでいるのかを強調している。 筋肉は、骨と骨とをつないでいるゴムにすぎない。そう国村さんは言った。だから、原則としてつないでいる二極を直線でつなぐ動きしかできないし、それが一番大きな力を発揮できる、と。そして滑らかな動きで俺のあばらに手を触れた。ここが腹直筋の基点で、ここが終点になる。言いながらすっと指を下ろした。今のラインにそって身体を動かすのが一番早く強い動きになるわけだ、と。 言われてみればシンプルなことだったが、実際に指示どおりに意識して動こうとすると難しい。国村さんの目には俺がどの筋肉を使っているかわかるらしく、綺麗な動作を阻害するような筋肉を利用すると「違う!」と声が飛んできた。ゆっくりした運動しかしなかったけど全身がだるい。筋肉痛になりそうだ。 まあ難しいけどなと苦笑して今日の訓練を切り上げた。コツは教えた、あとは人体図鑑を見ながら自分でやるようにという後姿に頭を下げた。尊敬の念が自然にそうさせたのだ。だってあの人、俺が全身で押した腕を、片腕だけで簡単に押し戻したのだから。全身で押している俺をころりとすかして転がして、効率よく力を使えばこれくらいのことはできると笑って見せた。奥が深いな。 木賃宿の前の庭にでっかい犬小屋を発見。ここは神田さんという人の大工スペースだからあの人が作ったんだろうな。見たところ大型犬用だった。木賃宿で犬でも飼うのかな? だったらうれしいけど。 十二月七日(日) 北酒場 一六時三五分 彼を目の前にして逃げ出した弱さを憎んだから、二日後、彼の仲間たちが武器防具の修繕を頼みにきたとき、小林桂(こばやし かつら)はこちらから声をかけた。西野太一(にしの たいち)——あの晩紹介された年長の男——は複雑な表情を見せて言った。「なんだかショックだったらしくて、地上に戻ってすぐにモルグに寝に行ってしまいましたよ」。 そうですか、という落ち込みに同情してくれたのだろうか、西野はお茶を誘ってくれ、申し出に甘えることにした。元気でやっているのか知りたかったからだ。彼と同じ部隊で、彼と同年輩の少女も同席するようだった。かわいらしい子だった。この子は彼のいい友達になってくれているのだろうか? 「ま、あいつも寂しがってるから落ち着いたら話してやってくださいよ」 何でもないことのようにさらりと言う。「でも、どうも何か誤解があるみたいですからね。よければ聞きますが」 小林は深く息をついた。すべて聞いてもらうつもりだった。彼の身近にいる大人たちに自分が何をしたのか知ってもらいたかった。それによって、彼になにかよいことをしてくれるかもしれないと期待したからだ。 大学を出てすぐ母校にあたる中学校に配属されたのは非常に珍しいケースだった。教師はどこでも競争率が高かったから、卒業してすぐの自分が採用されるとは思わなかったのだ。授業に強烈な熱意をもってあたったのはそれだからだし、彼女の朗読する枕草子を聞かずに落書きばかりしている今泉博(いまいずみ ひろし)をなんとかしようと思ったのもそのためだった。 注意しようとして彼の落書きを見たときのことは今でも覚えている。形だけにしても叱れた自分をよくやったと思っているからだ。彼女には、彼が絵の才能を備えていることがよくわかった。それは彼女が心から望み、ついに自分にはないのだとあきらめたものだった。そのためにこうして二番目の夢だった古典の教師になっているのだから。しゅんとしている少年に、絵を描くのが好きなのかと尋ねた。彼はかわいらしい顔に意外の思いを浮かべながらもしっかりとうなずいた。 美術の教師は放課後の労働など死んでもごめんというタイプだったから、新設の美術部顧問は彼女が引き受けることになった。美大受験のために学んだ技術すべてを少年はどんどんと吸収していった。授業中に落書きをすることもなくなった。そのためかどうかわからなかったが成績も目に見えて上がった。 少年が三年生になった春、二人は当然のように、進路をある公立校にしようと決定した。偏差値こそ彼の成績からすれば低かったものの、そこには大阪の美大で教鞭をとっていた老教授が隠退していたからだ。新しい師は少年に世界と視点と技術と、なによりコネクションを与えてくれるはずだった。 しかし、少年の両親は絵で生活などできるものではないと信じ込んでいた。地元の企業は優秀で土地に根付いた人間を欲しがっていた。進路担当は一人でも多くの生徒を進学校に送り込もうとしていた。そして彼女は地方で最も偏差値が高い公立校を薦めた。 その高校に進学した少年が学校をやめ家出したと知らされたのは去年のことだった。そして彼女は逃げるようにこの街にやってきた。 「なんか食い違ってるね」 こんな季節にも関わらずのチョコレートパフェを口に含みながら少女がつぶやいた。 「小林さん、今泉くんにはまるでサリバン先生のように慕われてますよ」 小林は即座に否定した。私はあの子を裏切ったんだから、と。そんな資格はないのだ。 「小林さんはそう思ってても奴自身はどうだか。——どうだ?」 愕然として背後を振り向く。彼女が席についたとき、かがみこむようにして本を読んでいたはずの人物が身をねじって彼女を見つめていた。 「先生、裏切られたなんて思ってないですよ、俺」 中学校のころから、彼は紙袋が必要なくらいチョコをもらっていた。それを——学内でのチョコのやりとりは禁止されていたのだが——自分の弟を誇る気持ちで眺めていたあの日を思い出した。少年には整った顔立ちに加えて品のよさがあった。それはこの街にいて日々を危険にさらしてもまったく失われていない。 「先生、父に頼んでくれたでしょ? どうしてもあの学校に行くとしても、美術部を続けることは許してやってほしいって。あのあとお父さんに言われたんです。あの先生があれほど熱心になるなら、お前は絵を選んでもいいのかもしれないな、って。そっちの学校に行くかって。西高に行ったのは俺が自分で決めたことです。自分が本当に絵でやっていけるのか自信が持てなかったし、——先生が、やる気さえあれば学校にクラブだって作れるってこと、コンクールに応募までできるんだってことを教えてくれたから。あの学校をやめたのは——いじめられたからです」 口元を手で抑えた。だめだ、と思った。だめだ、泣く。生徒に涙を見せてはいけない。 「今、大検の受験料を貯めてます。美大用の専門学校にも通ってます。大検をとったら今度は美大の学費を貯めます。何年たっても美大に行ってみせます。やらないのは状況が許さないのじゃなく、やる気がないんだって、昔先生に言われたから」 視界がぼやけた。   真壁啓一の日記 十二月七日 昨日国村さんに教わったように、筋肉を意識しながらジョギングとストレッチを中心に午前いっぱい汗を流した。実際に意識してみると、自分の動きは雑なんだということがよくわかる。同じお皿を持ち上げる動きでもきちんと筋肉を理解して効率よく動かしたほうが洗練した動きに見える。 そういったことを翠に話してみたら「ふーん」と気の無い返事だった。結局は強さでしょ、と身も蓋もないことを言う。真壁さんて論理先行だから、きっと六〇万円の羽毛布団とか買わされるよねとのことだ。あー、そうかもしれない。さすがに六〇万の布団は買わないけど、ハウツー本は結構買ってしまって後悔している。由加里を口説いたときなんて山ほどの恋愛ハウツー本を買ったものだ。その後二年ほど、自分が売り払ったそのハウツー本がブックオフで売れずにいるのを見て落ち込んだものだった。こんなのにすがるのは世の中で自分だけなのかと。 それでも今度の教祖様は誰かと訊かれたので答えたら翠の顔色が変わった。そして一転して丁重に、何を教えてもらったのか私も教えてほしいと。どうやらこの羽毛布団は本当に価値のあるものだったみたいだ。 午後からは地下鉄に乗って京都の中央部へ。すっかり寒くなってきたので冬物の調達に。稼ぎは増えたけど相変わらずユニクロでしか買い物できない自分がほほえましいやらなさけないやら。その後、旭屋書店で筋肉の本を買った。四八〇〇円。安いものではないのでしっかり勉強してモトをとらないとね。 夜、由加里からうれしい電話。一二月の終わりにかけて、帰省の途中で迷宮街に遊びにくるとのこと。ということで一人舞い上がって迷宮街の西北部にある高級ホテルに偵察に行ってみた。せっかくだからあそこに泊まってみようと思って。 以前の日記で、系統立てて宿のシステムを書いただろうか? 多分書いていないので(というのも、宮殿をはじめて見たのがチョボ探しの時だから)、少しまとめてみる。 迷宮街で俺たちが寝泊りするのは二つの方法がある。宿に泊まるか、アパートを借りるかだ。大半の探索者は宿を選んでいたけれど、それには料金と待遇でランクがあった。最低ランクはもちろん探索者のパスを提示すれば無料で泊まれる大部屋で通称を『木賃宿』という。これは迷宮街の南北を貫く大通りの東南部にあって、東西通りに面している。男女共同でレンタル毛布は一晩五〇〇円。男女共同といっても女性はほとんど利用しないしちょっと稼ぐようになるとすぐにモルグに移動してしまうからここには新参の人間が十数人と、児島さんと常盤くんくらいしかいない。前にも書いたかもしれないけど、みんなが買った本や雑誌をここに寄付しているので昼のほうが人口密度が高いくらいだ。木賃宿と同じ建物の二階、三階は『モルグ』と呼ばれるこれまた共同の寝場所がある。イメージとしては、『フルメタルジャケット』の兵営をイメージしてもらうとぴったりだ。二段ベッドがずらっとならんでいる。男女別で定員は百人程度。一杯になったのを見たことがないくらい常にあいているので、俺のような常客はもう自分のベッドを確保してしまっている。二階部分を荷物置き場にして一階で寝ているのだ。ここは一晩千円。第一期からの探索者でもここを愛用している人間が多い。ここにいると、暇なら大概飲む相手が見つかるからだろう。 木賃宿は六階建てで、四〜六階は個室が連なる。四〜五階はビジネスホテルくらいのサイズだ。ベッドはシングルで値段は一泊三〇〇〇円。六階はセミダブルになり少し広くなって一泊五〇〇〇円。ちょっと贅沢しようかな、と思うと利用するのがこの部屋だった。ここまでが真城雪(ましろ ゆき)いわく「庶民」で、それよりアッパーな人たちは迷宮街西北部、大通りには面しない場所にあるホテルに泊まっている。通称を「宮殿」と呼ばれている。 宮殿は二〜四階をスイート、五階をロイヤルスイートと呼んでいる。もちろん入ったこともないし、チョボ探しのときに「あー、これかー、確かに宮殿だわ」と思っただけだったから今回が初めての探索になった。由加里を連れて行って、たとえばユニクロお断りとかはないだろうか? ちょうど門前で声をかけられた。俺たちを庶民と呼んではばからない真城さんだった。彼女は四部屋しかないロイヤルスイートに連泊している唯一の探索者で、何をしてるのかと訊かれたので正直に答えたらじゃあ部屋を見せてあげようという流れになった。ついてるね。 一ぱく三まん五せんえん! 総じて家賃が安いこの街でこの価格は大変なことだとわかってほしい。そんな値段にふさわしい点をいくつか挙げる。まず、二〜四階にも一フロア一〇室ずつしかないというのに、エレベーターが八基ある。なぜなら四基はそれぞれのロイヤルスイート直通だから。カフェラウンジはコーヒーがおかわり自由。ロイヤルスイートには寝室が四つあった。五〇インチのプロジェクタで衛星放送が全部観られる。お風呂は泳ぎきるのに息継ぎが必要なくらい広い。そして。 トイレが俺のベッドより広い(一階、二階あわせたよりも)。由加里さん、悪いけど五〇〇〇円のセミダブルにしよう。 十二月八日(月) 大迷宮・第四層 一三時五六分 かぶとの類を身につけている相手には決して大上段で切りかかってはいけない。かぶとは衝撃を受けとめるためではなく流すために作られている防具であり、振りおろした剣が逸らされたら一秒は無防備になってしまうから。訓練場の橋本辰(はしもと たつ)に何度も言われたことだったが、越谷健二(こしがや けんじ)がその警告を思い出したのは実際に振り下ろし始めた刹那だった。慢心があったのではない、と思う。一年以上死線を潜り抜けてきた勘が大丈夫だと教えてくれたのだ。 第四層である。このあたりでは探索者は、明らかに文明化された二足歩行の化け物に多数出会う。もちろんそれは人間とはまったく別種の生き物だった。日の光に慣れていないためか色素の薄い瞳、この低温下でも自在に動くために密度濃く皮膚を覆う産毛、人間のように呼吸器(鼻腔)と食料摂取器(食道)が併用されていないのか、鎖骨あたりにあるエラ状の隙間で呼吸をしている外見からして違う。それでも顔に表情が浮かぶ点(それはつまり、彼らの中で個体の識別は状態の伝達を顔によって行っていることを示していた)や二本足で歩く点、彼らなりに洗練された武器防具を身につけている点などは非常に酷似していた。 探索者の基本四職業が戦士、罠解除師、治療術師、魔法使いであるように、地下に文明を築いている彼らのうちでも実際に探索者が出会うものはその四種のいずれかに大別できるようだった。つまり、彼らの中での戦士階級なのだろう。探索者が人間社会においてほんの一つまみに過ぎないように、彼らの背後には非戦闘階級の生き物で作られた巨大な社会があるに違いない。戦士はその武装によって、罠解除師はエーテルをたくみにあやつり目くらましや不意の過重や地面を滑りやすくすることによって、魔法使いは魔法によって、治療術師は仲間を回復させることによって探索者の行く手を阻んでいる。越谷の目の前にいるのもその一種類で戦士にあたり、円筒形のかぶとをかぶったものだった。ちなみに、こういった明らかに人型の生き物に対してはいちいち通称をつけてはいない。 自信と不安と同時に乗せた鉄剣は、敵戦士の受け流そうとした首の傾きを歯牙にもかけていないようにその頭部を粉砕した。半ば以上予想通りとはいえ、自分の手に戻ってくる反動とその結果とのあまりのギャップに驚いた。 その一撃で戦闘は終結したようだった。敵戦士が連れていた巨大な野犬たちは、彼らの仲間の緑川浩一郎(みどりかわ こういちろう)がその魔法で(いつもどおり、毛先ほどの表情のゆれも見せず)焼き尽くしていた。リーダーの星野幸樹(ほしの こうき)が手を差し上げ、その周囲に陣を組む。たっぷり一五秒息を殺してから星野がふうと息をついた。 「越谷、アナボリックステロイドでも使ってるのか?」 星野が真剣な顔で訊き、もう一人の戦士である葛西紀彦(かさい のりひこ)も同様にうなずいた。この街の、特に前衛は自分の力を高める意欲を失うことはない。それをあきらめた時が死ぬときだと知っているから。ことに星野は陸上自衛隊の士官だった。彼には迷宮街でインフラ整備に従事するべく配属された部下が多数ついており、彼ら個々の能力をあげる努力(それは、個々の生存確率をあげる努力と同義である)は何にもましての重用事なのだろう。 ええ、と越谷はうなずいた。ドーピングです。剣にですけど。 掲げた鉄剣は前回まで使っていたものとは違い新品だった。彼が迷宮内で発見した石、この迷宮内部に限り不思議にきらめくそれが鉄剣の中には埋め込まれているという。この街でも屈指の魔女二人が鍛冶師に頼んであつらえた試作品だった。彼女たちによるとその石の特性がうまく発揮されれば鉄剣の剛性が高まるということだった。 剛性、という言葉は越谷にはなじみの深いものだ。彼の趣味はサイクリングで、自転車の性能においてしばしばその基準は用いられた。剛性が高ければそれだけペダルを踏む力が損なわれずにタイヤを回す力になる。金属とは(それも、人間が扱うことができる程度の重量の金属ならなおさら)やわらかいものである。伝えた力が伝播するうちにその大部分はその金属の歪みや震えに吸収されてしまう。迷宮街で戦士たちが使う剣は鉄に銅、ニッケル、モリブデン、ニオブ、クロムなどの化学成分を調合したもので、およそ満足すべきコストパフォーマンスを実現していたものの、それでも金属の甲冑に身を包んだ化け物を叩き潰すにはあまりに柔らかかった。少しでも軽量、少しでも剛性の高い成分率を発見することは迷宮探索事業団の鍛冶師たちの永遠の課題でもあるのだ。 その石は、それほど重要な剛性の追求に別アプローチからの回答になるかもしれないという。それは歴戦の戦士であり(戦士としての必要上から)鉄鋼の精製についていくつかの論文を読んだ越谷には眉唾物に思えた。だから深夜のテレビ通販で金をどぶに捨てるような気持ちで今日迷宮に携えたのだった。片岡という鍛冶師の腕前は信頼しているから、今までよりも悪いことにはならないだろう・・・。 悪いこと? 自分の不明を恥じる思いだった。外見上は何も変わらない鉄剣だったが、今握っているこれはまったくの別物だった。腕が伝えてくる打撃の感覚が教えてくれる。これに比べれば今まではプラスチックバットで叩いていたようなものだと。 そういったことを手早く説明すると、目の前でその飛躍的な打撃の向上を見ていたこともあり、二人の戦士は深く納得した。 「これが契機のひとつになるかもしれんな。普及すれば、少しだけ状況が変わるだろう」 安堵の表情に胸がつまされる思いだった。彼らがもっとも進んだ部隊になって一ヶ月が経っていた。先に誰もいないという不安と緊張感は、そうではない立場では想像もしなかったくらいに重く厳しい。安定した探索の遂行を組織から命ぜられてここにいる目の前の男にはなおさらのことだったろう。この人はいくつだったろうか? と目じりにしわの走った顔を見て記憶をさぐった。もう小学生の娘がいたが、それでも三五才になっていなかったはずだ・・・。そうとは思えない貫禄、悪く言えば老け込みようは家族がいるためだけのものではない。明らかにこの一ヶ月で彼は明らかに憔悴していた。 「変わりますよ」 葛西も同じことを思ったのかもしれない。明るい声にはつとめてそうしているような気配があった。 「昨日より今のほうが状況はいいんですから。明日はもっとよくなります」 個々の戦闘での生存確率が少しだけ上がったところでそれが時間の大幅短縮につながるわけではない。この階層で野営するわけにはいかない現状が変わらないのだから、先に進めない問題は相変わらずあった。それはこの場にいる六人ともわかっている。それでも今だけは、と越谷は笑顔を浮かべた。 真壁啓一の日記 十二月八日 寒い寒い! 今日は雲ひとつないいい天気だったのに、その晴天も「風に雲がふきとばされたから?」と思えてしまうくらいに寒い一日だった。モルグで寝起きしていると、大概六時ごろに目覚ましでいったん起こされる。大半の探索者は感覚が鋭敏だし、その時間には自然に目覚めるように前夜眠るから長い間鳴らしつづける奴はいないけれど、今日のように明日初陣というような新参者が隣のベッドになると最悪だ。緊張して夕べは眠れなかったのだろう。およそ五分以上目覚ましを鳴らしてくれた。そこまでして苛立って、俺が起こした。床の冷たかったこと! 生きて帰ってきたら文句を言ってやるつもりだったのに。 そんな時間に床の冷たさに起こされてしまったので、二度寝もなんだしということで着替えて訓練場に向かった。最初はのんびりと三〇分くらい歩き、次はショートジョグで一時間、そしてそれなりの(時速一五キロくらい?)ペースで一時間。食事を終えた探索者たちがぞろぞろやってきて準備運動を開始したので空いているうちに、とバランスボールにチャレンジ。橋本さんが効果を認めたため、訓練場の片隅には今では二〇個以上のバランスボールが置かれている。最近は上に立って木剣を振ることができるようになってきた。 すっかり汗をかいて、おなかも減った一〇時に終了。入れ違いに翠がやってきた。嬉しそうに「今日からコタツがくるのでお鍋をしよう!」と誘ってくれた。もちろん快諾する。何の鍋にするのか? と訊いても「決めてない」と返答が返ってきた。いかんなあ。せっかくだから買出しに行くことにした。 スーパーの開店を待って干ししいたけを購入。それをもって笠置町屋敷に行くと、すっぴんの葵が眠そうに出てきた。休みの日はこんな時間まで寝てることがしょっちゅうという言葉に、この街でもブルーカラーとホワイトカラーの別はあるのだなとしみじみ思う。 干ししいたけを戻しておくように頼んでから、木賃宿で漫画を読んでいた常盤くんを拉致して地下鉄に乗る。目指すは三条通り商店街だ。いつも自転車で通り過ぎたときに惹かれていた場所だった。狭い往来に活気のある店と時が止まったような店、地元民の生活のための店と観光客をだますための店が隣り合っている。常盤くんはしきりに「へえー」と感心したような声をあげていた。たった数種類の食材を買い込むだけなのに、いちいち常盤くんが店を覗き込むから買い物が終わったのはもう午後四時過ぎ。ちょうどいい時間になっていた。 笠置町屋敷に食材を持っていくとすっかりおしゃれに変身していた葵が出迎えてくれた。食材を見せて切り方を簡単に指示すると、てきぱきとやっていく。高校を卒業してからずっと家事手伝いだったときに母親に習ったのだそうだ。もう一人は? と訊いたら、「何にもできないのがばれるのが嫌なので居留守」とドアの向こうから返答があった。イメージ通りだから大丈夫と返すと出てきた。こんな単純な天照だったら神話にならないだろう。 出来上がるころに児島さんを呼び出してお鍋。考えてみれば、児島さん常盤くんとゆっくり話すのは初めてのことかもしれない。彼らの事情を話してもらった。一緒にバンドを組んでいた友人が自動車事故を起こしてしまったのだそうだ。友人は意識不明、そして遺族に対する多額の賠償金が発生したという。ここに来て好転してますよ、とからりと笑う常盤くんを、えらいなと思った。親類でもなんでもない友人の事故の始末を二人がつける必要はないはずだ。たとえば二木が同じ状態になったら、俺はあいつのために迷宮街に来れるだろうか? 真城さんの次の男は真壁さんですか、と非常に直截な質問が葵からもたらされてびっくりした。何の事はない、昨日部屋を見せてもらったのを誰かが目撃していたのだそうだ。その流れで由加里がこっちに遊びにくることを話したら、翠が会いたがっていた。えーと、たまの逢瀬を邪魔するのはどうかと思いますよとやんわりと断ったらしょんぼりとしてしまった。 ・・・少々可哀想だったろうか? 十二月九日(火) 迷宮街・南側未整備地区 十一時一三分 迷宮街のはずれに誰かが作ったベンチを見つけた。立ち枯れていたクヌギをそのまま組んだのだろうか、風雨と陽光によって磨かれたそれはとてもいい雰囲気をかもし出していた。とはいえ当初はそのベンチをスケッチのための椅子として使おうと考えていたのだが、すぐにお尻がむずむずしてくるような気分になってきた。 ——まずはこれを描こう。 自分の筆力で、このベンチの味と生みの親に対する仲間意識を描けるかどうかわからないけれど。ともあれ今日の被写体に出会ってしまったのだから、今日はこれ以外のことは手につかないだろうとわかった。今泉博(いまいずみ ひろし)は折りたたみ椅子を広げた。 少しずつ色をつけ始めたとき、背後で突然声がした。「面白いもの描いてるな」と。突然のことだったので驚きの声をあげてしまう。すまんすまん、と申し訳なさそうな声に振り向いた。こんにちは津差さんと相手の名前を呼んだ。 巨大な男だった。日本人男性の平均身長を大きく超えた身長に、決してひょろりとした印象を与えないだけの筋肉が乗っている。その腕は今泉の脚よりも太く、首は胴回りと同じくらいあった。今泉と同じく第二期の探索者で、理事の娘を別格とすれば自他ともに第二期最強と認める戦士だと言われていた。黒いタートルネックのセーター、スラックス、ロングコートはすべて特注だろう。男くさい笑みを今泉に向けてから、じっと絵を覗き込んだ。そして「なんかいいことあったか?」と訊いてくる。突然何事だろう。 「どうしてですか?」 空の色が、今までと違うとの返答。うなずいた。 「ああ、今日は白絵の具を使わないで明度を出す練習してるんです。必然的に、暗い色の明度を落として引き立たせるようになるからそれででしょうね。うーん、まったく同じような印象を与えるようにするつもりだったんだけど」 まだまだ修行が足りません、との苦笑いを見つめる顔は真剣なようだった。 「なあ、絵描きってのは食っていけるのか?」 意外な質問にその顔を見つめる。 「唐突ですね・・・。僕はまだ美大に入るだけで頭が一杯だからよく調べていませんけど、イラストレーターや挿絵描きや、きちんと仕事はあるみたいですよね。でも、絵を通して表現した自分というもので食べていける人はやっぱり一握りじゃないでしょうか」 同じく絵を描くのでも、誰かに頼まれて要求されたものを描くのと、自分自信の内面から生まれてくるものに値段がつくのでは大きな差があると今泉は信じていた。漠然と、もしイラスト描きなどの仕事しか得られなくても、いつかきっと、という気持ちを失わず自分を表現するための絵は描きつづけようと決心していた。 「いや、絵じゃないんだが・・・詩なんかは食っていけるものなのか?」 「し? 詩? ポエムですか?」 うなずく。 「それはもう畑が違いますからちょっと。ごめんなさい。でも、絵よりさらに厳しい世界のような——内藤さんですか?」 彼らの部隊の魔法使い、内藤海(ないとう うみ)とは年も近いことがあって親しくしていた。彼がこの街にやってきた動機は「詩想を得るため」だという。文芸活動は絵描きのように周囲が見てわかるものでもないから、なんとなく忘れてしまっていたのだが。 「ああ。例えば今泉くんにはとにかく美大に入ろうという目的があるよな。それは、美大に行くことで将来食っていける可能性が高まるからじゃないのか?」 考える。——自分が美大に行きたいのは、独学では超えられない壁があると思ったからだし同じ年代で同じ夢を持つ人間と出会って刺激を受けたいからだ。それはつまり、もっと深く絵の世界に進みたいということになるのだろうか。眉を寄せながらもうなずいた。 「そうかもしれません。少なくとも、目標になっているのはそうです。ただ、僕の場合は手段もある程度目的化されていますけど」 「あいつはここで何をして、これから何をしたいんだろう」 確かに「詩想を得る」というのは漠然としすぎていた。それは、津差のようにまじめな性格の人間には理解できにくいものなのだろう。そして改めて考えた。この街にいる探索者も、いろいろいるのだなと。自分のように金を稼ぐための手段と割り切っている人間、例えばロッククライミングをして過ごすために来ている男とか、夜学に通うお金を捻出している男とか、親の借金を返すために来ている男とか、車の趣味に金をつぎこみたい女とかがいる。彼らはシンプルで目的もはっきりしている。でも大半は、なんとなく(もちろん彼らの中にはきちんとした目的があるのだろうが、それは外からはうかがえないものだった)この街にいて日々を過ごしているように見える。でもそれを言うなら、目の前の男と内藤は同じくくりのはずだ——が、どうも違う。 「内藤さんがそうだとは言いませんけど」 慎重に言葉を選ぶ。 「なんとなく、いつ死んでもいいやという気持ちでいる人がこの街には多い気がします。いつ死んでもかまわないから、それまでの生活を楽しく過ごそうという姿勢の人」 一晩数万円の部屋を占拠し、艶聞途絶えることのない女戦士を思い浮かべた。彼女には——強靭な肉体と健全な常識と一緒に——どことなく退廃的な雰囲気があるような気が常々していた。でも、それは他の人間が気にすることじゃないと思いますけど、と恐る恐る異議を唱えると津差は辛そうにうなずいた。 「もちろん俺だって他人のことを気に病みたくないけどね。でも、もしそういう投げやりな気持ちがどこかに混じっているのだったら、それがいつか危険を呼ぶんじゃないかと心配で。魔法使いはなんといっても生命線だから」 それきり黙りこんだので再び絵筆を走らせた。そういえば、彼の部隊の鈴木秀美(すずき ひでみ)はどれにも分類できないなと思いながら。   迷宮街・鍛冶棟 一六時二〇分 四時を過ぎると今日の探索を終えた連中が使用した武器防具が運び込まれてくる。現場のチーフである片岡宗一(かたおか そういち)にとっては一番あわただしい時間帯だった。ひとつずつの状態を見極め、誰なら任せられるかを考え、てきぱきと割り振っていく。一人一人の熟練度を完全に把握していないと残業が待っていた。ちなみに彼ら鍛冶師は一三時から二〇時が勤務時間だったので、残業という言葉の持つ重みが通常勤務のサラリーマンとは違う。この時間は一秒だって貴重だった。 だから、ひとつのものに視線をくぎ付けにするなどということは珍しいことだった。それが起きた。 「・・・なんでこんなところにいるんですか?」 呆然と訊いた相手は笠置町茜(かさぎまち あかね)という名前の中年女性だった。小太りで穏やかな笑顔を浮かべる彼女は片岡の上司にあたり、迷宮探索事業団の理事という役職にいたからこの街にいてもなんら不自然なことはない。驚いたのは、つい二時間前に木曾にある彼女の家に電話をかけ会話をしていたからだ。確かに「ちょっとそっちに行くから」と言われて電話を切られたが、ちょっととは数日後のことだと思っていた。 自分の作業をサブチーフに命じて理事を別室に通した。彼女は二人を従えていた。魔法使いの教官である鹿島詩穂(かしま しほ)と探索者の一人で最強の戦士として呼び声高い越谷健二(こしがや けんじ)だった。話題はおそらく、彼が迷宮街から手に入れ、その剣に埋め込んだ金属のことだろう。先ほどの電話の内容だった。 鍛冶師の建物には可憐な事務女性などはいない。指先が油とやけどで黒ずんだ屈強の若者が四人分のお茶を並べて退出してから、理事はまず使った人の感想を聞きたいと若い戦士の顔を見た。顔の半分を青あざに覆われた精悍な顔が緊張しているのは、彼ら探索者にしかわからない重圧を感じてのことらしい。 非常に効果があります、と彼は言った。それは想像していた回答だった。昨日、実戦を終えてきた彼の剣(試作品)と彼の仲間が使用した剣を見比べて検分した結果、彼の剣の損傷はないに等しいものだったからだ。仲間の剣がかなりの金属疲労を起こしていることを勘案に入れても、相当な硬度を実現していることを示していた。意見を求められてその旨を答え、そして付け加える。 「今回は鍔の位置に石を埋め込み、鉄の成分率も他のものと同じでした。それらを変えて試してみたいと思います。たとえば硬度が上がっている以上、これまで靭性を優先するために見送っていたチタンやシリコンの調合も試してみたいと思いますし」 一種類の試作品を作るのにどれだけの時間がかかるか? と問われ、六日と答えた。数人の戦士を選抜して、二回ずついろいろな調合の剣で戦ってもらい、感触を聞いていきたい。電話で話したその意見を残りの二人にも聞かせるつもりで繰り返した。二人とも深くうなずいた。課題は? と理事が促す。鹿島がノートを見下ろしながら鉛筆の尻でこめかみを掻いた。 「まずテストに協力する戦士のリストアップですね。いろいろな体格で、少なくともここしばらくは死んだり辞めたりしない方を。これは橋本さんにお願いしましょう」 片岡が手を挙げ注意を促した。 「剣の場合は硬度アップも剛性アップもどちらもメリットしかありませんが、防具の場合は別ですよ」 それは昨日から考えていたことだった。 「硬度の上がり方、その影響の広がり方を詳しく調査すれば、ツナギの金属糸を強化することもできると思います。そうすれば確かに切り裂いたり突き刺したりするものへの安全性は高まるでしょう。けれども問題は殴打ですね、硬度が上がって剛性が上がるとその分だけ身体に衝撃がきてしまいます」 「いえ、それは大丈夫だと思います。少なくともこの石が取れる第四層くらいまで降りてきている戦士は、単なる打撲の衝撃なら最小限にする体さばきは備えていますから。問題なのは切られたり刺されたりです。衝撃への防御力はある程度なら犠牲にしてもかまいませんよ」 なるほど、とうなずく。喧嘩ばかりするんじゃなくてそういう話もせにゃならんなとつぶやいた。 「そういうことならなるべく軽量化して、そのぶん生地を訓練場で使うものに似せるように考えてみます。これも試行錯誤ですね。ところで何より一番大切な問題なんですけど、実験をしようにも石が圧倒的に足りません」 「しばらくの間、探索者から高額で買い取るのはどうかしら」 理事の提案に越谷が難しいだろうと答えた。すでに戦士たちにはこの情報が行き届いている。全員を生かす実験のために寄付するのはまず自分が石で完全武装してからと誰しも考えているはずだった。まだ手に入らない階層にいる人間たちも金で手に入れようとする可能性が高い。安定した供給は望めなかった。 「越谷さんも、次に手に入れたら私たちに売るつもりはありませんか? 相応のお金はお支払いいたしますが」 鹿島がどことなく甘えるような口調で尋ねたが、青面獣とあだ名される男はあっさりと首を振った。まずは星野さんの剣に、というシンプルな回答だった。全員が押し黙る。探索者が賭けているのが命である以上強制できる問題ではなかった。 「詩穂に——」 突然自分の名前をつぶやかれて、訓練場の教官が怪訝そうな顔をする。 「久米くん、橋本さん、洗馬くん——うちの旦那、あと・・・誰かいないかな」 「何がですか?」 「もっと深い階層まで降りて、石だけを専門に集める部隊を組めないかと思って。訓練場の四人プラス旦那、あと一人前衛がほしいけど——越谷くんやる?」 「橋本さんが動員されるような部隊だったら、瞬時に死にそうな気がします」 「だよね。うーん、孝樹かな。あの子も土曜日だけならできるかな。どっちにせよ、訓練場をそんなに閉めるわけにもいかないしね」 よし、と手を打った。 「集める部隊は私がなんとかします。他に課題は?」 全員が顔を見合わせる。じゃあ閉会、と理事が立ち上がった。スーパーで夕ご飯の材料を買っていこうかな、今日はタマゴが特売でしたよ、と会話をしながら出て行く背中を見送り、片岡は壁の時計を見た。午後四時半だった。これから木曾に帰り夕ご飯を作るつもりでいるのだろうか? まさかな、と首を振って否定した。   迷宮街・笠置街姉妹のアパート 一九時二三分 迷宮から戻ったアパートで鶏モモ肉一〇〇グラム五八円とタマゴ一パック八八円というビラに気づいてすぐに引き返した。同じように買い溜めする人たちが多いのだろう、普段より混雑した店内でカゴ一杯に商品を詰め込んだ。客がたくさんいただけのことはある。なかなか出会えない人間とも遭遇してしまった。 親子丼とほうれん草の煮びたし、アサリの味噌汁といういたってシンプルなご飯を囲んだ夕食の場で笠置町葵(かさぎまち あおい)は姉にそう言った。 「誰と会ったの?」 「お母さん」 ぎょっとした顔はたぶんタマゴのカートの前で自分が浮かべたものと似ているのだろう。なんといっても一卵性の双子なのだから。 「なんで? 何しにきたの?」 お仕事だって。瞬間移動で今日中に帰るって言ってた、との言葉に笠置町翠(かさぎまち みどり)はため息をついた。 「なんか、タガがはずれたって感じだねお母さん」 まったくだとうなずく。母親は普段は父と一緒に野良仕事をしており、週に二日だけ長野の町に出て習字教室を開いている。最近はその教室からでも瞬間移動の術で飛んで帰ってくるのだと父がぼやくのは聞いていた。突然、土間で爆発的なエーテルの発生が起きたら寿命も縮もうと言うものだ。このままエスカレートすれば、家から歩いて二〇〇メートルの畑にまで飛んでいきかねない。 「孝樹にいちゃんがこっちに来るってさ」 つとめてさらりと言い、姉の狼狽には気づかないふりをするために、かるくご飯をよそった。立ち上がって冷蔵庫から自家製のぬか漬けを持ってくる。姉は回復したようだった。へええ、何で? と訊く声の震えは姉妹でなければ気づけない程度のものだ。 研究用の材料を深い階層から持ち出すための部隊を組むのだそうだ。訓練場にいる基本職業の四達人プラス彼女たちの父親である魔法剣士、そして白羽の矢が立ったのが木曾でも稀有な才能と認められていた従兄だったという。水上孝樹(みなかみ たかき)というその従兄は、現在は東京で特別な馬の世話をしている。 先月にあった休み、姉は突然東京に行った。その理由を誰も面と向かって質さなかったのだが、この街の住人のあいだでは部隊の仲間の真壁啓一(まかべ けいいち)と恋仲だから二人で旅行したのだと理解されているようだった。もとより真壁はそんなことを気にするタイプでもない(それ以前に気づいていないかもしれない)から放置していたのだが、葵は違う理由だと直感していた。手をつないで育ってきた彼女には、姉が七才年上の従兄に対して抱いていた想いが感じられたのだ。彼に会いに行ったのではないか、そう推測していた。 あー、だめだ、こりゃ。まだふっきってない。 明らかに心ここにあらずの風情の姉を眺め、心中でため息をついた。そしてお茶碗のご飯を眺める。さて、これをどうやって消費しようか。すでに満腹だった。 真壁啓一の日記 十二月九日 早くから大変ですね! と言われた。小林さんにだ。なんだかすごく元気で快活だ。宝くじでも当たったのかな。 今日も今日とて第二層の探索を続けている。今日の俺の目標は「目指せ青柳誠真(あおやぎ せいしん)」だった。以前書いたけど、青柳さんの強さというのはちょっと理解できないものだった。動きも(俺や津差さんや翠に比べたら)遅いほうだし、訓練場ではそれほど苦戦しない。それなのに、俺たちが切りかかってもぼんやりとしか消滅させられないニコチンという煙状の化け物を、一振りで吹き飛ばしたりしている。その不可思議な強さの原因がわかったようなのだ。 エーテルを無意識に操作して、剣やツナギをコーティングしているとのこと。それによって、越谷さんいわく「青柳さんがその種の才能を持っているとするなら、真壁くんとの差は大きいよ。金属バットとプラスチックバットくらいに」ほどの効果を出しているらしい。越谷さんも真剣な顔だから本当のことだろうか。 階段を下りながら、そのあたりのことを翠と青柳さんと話していた。「あー、確かに訓練場で木の剣を使って殴る感触とはぜんぜん違うな。でもそれは木と鉄の違いかと思っていたけど」たしかにその二つは違うけど、それでもプラスチックバットと金属バットほどの差はない。何かあるのだ。 ということで、「いつもどんなイメージを持って戦っているんですか?」と尋ねてみる。「うん? 晩飯のこととか早苗(青柳さんの恋人)のこととか車のこととかかな」と人を馬鹿にしたような答えが返ってきたけど、とりあえずは俺も晩御飯のことを考えて戦ってみようと思い立った。 そのせいではないだろうけど、今日は結構苦戦した。第二層から二本足の人間っぽい化け物が多数出てくるけど、その中でカンフーと呼ばれているものがいる。大概は武器を持っている化け物たちにはめずらしく素手で、殴ったり蹴ったり爪で切ったりして襲い掛かってくるものだ。驚いたことに、その手刀でツナギが切られることも多い。こいつらは五〜六体で群れている上によく動くので全部を葵の魔法に任せることもできない。切りあうということは、相手の攻撃が読めるようになっていても緊張するものだ。覚悟を決めて降りているわけだけど連戦だとさすがに疲れるのだった。 地上に戻ってすぐに北酒場でかけそばを食べた。地下にいるあいだずっと食べたいと思っていたから。目指せ青柳誠真の目標は、食べ物のイメージトレーニングで達成できたか? という疑問をもし持ったのなら地上に帰る階段での青柳さんの言葉をもって回答に替えたい。 「ほんとに食い物のことなんか考えて戦ってるわけないだろ。アホか」 十二月十日(水) 迷宮街・屋外グラウンド 一四時三一分 踏みおろした足が地面にめり込んでいる気がする。一歩ごとに背骨、腰、膝が押しつぶされて身長がちぢんでいくような不気味な想像が後藤誠司(ごとう せいじ)の心を占めていた。左の肩に担いでいた土嚢を右に担ぎなおす。最初のころは腕だけでしていたその動きも今では一度腹と腿で抱え込んでからでないとできなくなっていた。 麻美はこんなもんじゃすまなかったはずだ——まだ東京にいる内縁の妻のことを考える。神田ガード下の魔窟のような飲み屋で日本酒にやられた彼女をホテルまでおんぶして歩いたのは遠い昔の話ではない。それに比べたら、二〇キロの土嚢など重さのうちにはいらない。背負うという姿勢の利点、疲労を忘れさせてくれたアルコール、なにより背負っていたものが恋人だったという幸福感すべてを意図的に無視して自分に言い聞かせた。 京都市北京区に位置する迷宮街には連日三〇名近くの探索者が訪れているが、彼らはまず体力テストを課されることになっている。後藤がいるのはそのテストの場だった。そしてここは週明けからの彼の勤務地でもあった。これから直面するであろう困難な交渉、相手を少しでも理解できるかとの期待から、テストだけは受けることにしたのだ。二〇キロの土嚢をもってグラウンドを歩き続けるという単調な試験だったが、スタートの二五人が昼食をとった時点で一五人になっていたことが示すように相当に厳しいものだった。脱落者が不甲斐なかったのではない。後藤がインターネットで検索してすぐに出てきたように、この試験の内容と過酷さを熟知してそれでも自信を持ってやってきている面々のはずだった。二五人のうち一七人が男だったが、それらはほとんど後藤よりも大きな身体つきをしていたのだ。 訓練場の職員の足音が聞こえる。彼が最後尾で、彼に追い抜かれたら脱落だった。もう楽になるか—— いや、まだだ。そう思い直した瞬間に足がもつれた。派手に転ぶ。慌てて起き上がろうとして、しかし太ももは痙攣するだけで反応してくれなかった。のたうつ彼を、職員は歩を緩めず追い抜いていった。 後藤は寝返りを打って空を見上げた。交渉が難航しても腕力での解決は不可能だ。それだけはわかった。   真壁啓一の日記 十二月十日 ついに芸能界デビュー!(by笠置町葵)だそうだ。 午前中に軽く身体を動かしてモルグに戻ったら告知の張り紙が出ていた。本日一八時までに以下のものは事業団の事務所に出頭と書いてあった。こういった通知はたまにあって、大体が喧嘩したので叱られるとか落し物とかだったから、その下にずらっと一〇人以上の名前が出ていることは珍しかった。集団乱闘でもあったのだろうか? そして羅列の中に自分がいたことにさらに驚いた。俺が加わった集団乱闘でもあったのだろうか? 知り合いの名前がいくつかあった。津差さん、笠置町姉妹、真城さんなど。あとは今泉くんも挙げられていた。なんだろう? と思いつつその足で事務所へ。 カウンターではちょうど笠置町姉妹と神田絵美(かんだ えみ)さんという方と出くわした。彼女たちも出頭組だという。神田さんという方は初めてお話したけど、真城さんの部隊の魔法使いだった。チョボを探して走り回ったときに翠に迷惑を受けたとかで親しくするようになったらしい。物腰とかで年長とわかるのだけど、あったかい雰囲気で童顔なので年齢はわからなかった。食べ物に分類すると・・・オムレツかな。由加里と同じ系統だ。ちなみに真城さんは断然ステーキって感じがする。 四人で小部屋に通されるとすぐに徳永さんが入ってきた。そして簡単なプリントを配られる。そこにはNHK特番の取材に関する協力願いとあった。そこで最初の葵のセリフになる。第二期募集も一ヶ月たち、既に約一二〇〇人もの人間がこの街を訪れた。その危険が隠し立てなく伝えられているこの街で、なおかつ集まる人間たちの姿を特集するのだそうだ。それでサンプルとして「いろいろな意味で目立つ」探索者を集めているのだという。「目立つ?」といぶかしげな声をあげる神田さんに同感して頷いたら、翠が「いや、二人とも目立つと思うな」と一言。徳永さんも葵もうなずいた。そうなのか。全国にさらしていい顔かどうかはテレビ局の人間が判断してくれるだろうから別にいいですよと回答しておいた。撮影はおそらく今週末の土曜日と日曜日。予定では土日とも地下にはもぐらないから、好きに指定してくださいと答えて退出した。 モルグに戻ってもう一度告知の面子を読んだ。 今泉博(いまいずみ ひろし)・・・ルックスがいいし、若いし、画家志望だからか? 笠置町姉妹・・・美人双子は珍しいしね。 神田絵美(かんだ えみ)・・・常識人代表その一。 桐原聡子(きりはら さとこ)・・・週末冒険者はこの街でも珍しい。 鯉沼昭夫&鯉沼今日子(こいぬま あきお&きょうこ)・・・なんと探索者同士の夫婦! 神足燎三(こうたり りょうぞう)・・・第一期の初日に試験を突破した最古参の探索者だからかな。 津差龍一郎(つさ りゅういちろう)・・・でかいし。画面に収まらずに放映されないというオチを予想。 西谷陽子(にしたに ようこ)・・・第一期からいる魔法使い。自動車の趣味にお金のほとんどが吸い取られているという噂。 真城雪(ましろ ゆき)・・・説明不要。すべてが派手だしモデル級の美人なので選ばれるのは当然だろう。 真壁啓一(まかべ けいいち)・・・常識人代表その二。 まあ、俺の顔は放映されないだろうな。それにしてもこの街には派手な人間が多い。 十二月十一日(木) 迷宮街・徳永邸 一五時一五分 「うわー!」 黒い毛並みがびくりと震えた。その犬は怯えたように目の前の女性を見上げる。見知らぬ来客に精一杯振っていた尾が、ぱた、ぱた、と控えめな動きになっている。うるさいよ雪、怖がらすな! と神田絵美(かんだ えみ)は部隊のリーダーである女戦士をたしなめた。 迷宮街の南西部、アパートに隣接するここは事業団の職員に対して貸与されている社宅が集まっている。探索者や一般労働者とは違い一戸建てで、内部での役職に応じて家は立派になり庭ももてた。この家と庭を借りている人間は徳永幹夫(とくなが みきお)で、事務方の全般を監督する立場にいる。よって庭もそれなりの、大型犬を飼う程度の広さはあった。 「うーわー、かーわーいーいー!」 まるで子供のように黒犬に抱きついた。ニューファンドランドという種類のその犬は、つややかでふさふさした黒い毛で四〇センチはある身体を包んでいた。目の前にいる人間に加えられるのは危害ではなく愛情だけだと得心がいったらしい。長い舌でその顔をしきりに舐めていた。 「本当にありがとうございました、神田さん。セリムもとっても気に入ってます」 この家の主である徳永夫人が微笑みかけた。目の前で全身で愛情を表現している犬のための犬小屋を作ったのが彼女だった。納品は数日前に済んでいたが、昨日から犬がやってきたというので仲間の真城雪、製作を手伝ってくれた道具屋のアルバイトの小林桂(こばやし かつら)を連れて挨拶に来たのだった。 「ニスの匂い、嫌がってませんか?」 徳永夫人に気になっていたところを訊く。なるべく匂いが気にならないように、内部には匂いの薄いものを、外部にはまず基本的な防水をエポキシでおこなってから最小限の汚れ予防として薄くニスを塗った。小林の顔を中に突っ込ませて匂いを嗅がせてみたが「わからない」というくらい、人間が住むのだったら問題はない程度なのだが犬の嗅覚にはどうかと心配だったのだ。 「特に気にしていないみたいですけど。喜んでましたよ」 よかった。そして芝生の上で人間と取っ組み合いをしている巨大な犬をしげしげと眺めた。 「ニューファンドランドって初めて見たんですけど、寒さには強いんですよね」 「ええ。そのかわり夏の暑さにはちょっと。京都は盆地ですから、来年がすこし心配なんです」 それを聞き、神田は歩き出した。小林もついてくるが視線は元気良く真城雪と戦っているセリムの方にちらちらと流れていた。うらやましそうに、順番待ちをする子供のように。 今でこそ四〇センチくらいだったが(実際はそれでも十分大きいのだが)長じたら八〇センチ以上になる犬の住まいということで、それはとても巨大なログハウスだった。一面の壁には片開きの大きな扉、しっかりとしたカギもついている。残りの三方には窓枠があり、窓板は両開きで開くようになっていた。フックの留め金で外側から施錠もできる。 「ここをあけて空気を通してあげてください。窓枠の上にはレーンをつけてますから百円ショップでスダレを買ってきて垂らしてあげることもできます」 まあ、と驚いた顔。神田は少々得意げな顔をして、今度は天井についた金属管の口を指差した。 「もっと暑そうだったらここから水をぎりぎりまで入れてあげてください。水は床下のタンクにためられて、床下の日陰を通る風に冷やされます。管の上にある空気が熱くなって膨張し、サイフォンの原理で中にゆっくりと水流ができます。パイプは四隅を通ってますから、日なたに置いても中は涼しくなりますよ。土台のここは外せるので、夜になったらタンクを取り出してください。中の水は顔を洗えるくらいにあったかいお湯になると思います。管からタンク一杯の水を入れるのはきっと面倒ですから、タンクにまず水を入れて床下にセットしてから、屋根からは管の分だけの水でもいいでしょうね」 「まあ・・・すごいわねえ。本当にありがとうございます」 夫人は感心しきりといった様子で深く頭をさげた。楽しかったし、喜んでもらえてうれしいと笑顔を返す。 相変わらず黒犬と遊んでいる大きな子供を置いて三人は家の中に招じ入れられた。徳永夫人がお茶を淹れに立ち去ると桂はため息をついた。 「あーあ、真城さんと来たのは失敗だったわ」 憮然とした声。しかしあくまで楽しげなその様子が神田には嬉しい。最近まで疎遠だった昔の親友とこうやって出かけられることも、彼女がなにかふっきったように明るくなったことも。 「神田さん」 「うん?」 「私も犬を飼いたいんですよね。私にも作ってもらえませんか?」 「別にいいけど、アパートじゃどうせ小型犬でしょ? 買っても安いんじゃない?」 いいえ、と首を振ってにっこり微笑む。 「私、二十日でお店を辞めることにしたんです。この街を離れようかと」 すぐには何を言っているのか理解できなかった。しかし、その言葉と笑顔とがじわじわと教えてくれた。それは喜ぶべき門出なのだと。思わずそのほっそりした両手を握った 「熊谷くんのところ?」 照れくさそうに肩をすくめる。しっかりとうなずいた。 「ほんとに! そっか・・・」 しみじみとうなずく。 「そっか、じゃあ世界最高の犬小屋を作ろう。五階建てくらいで、オートロックとか」 いえ、あれでもう十分ですと慌てたように言った。顔を見合わせて笑った。   高田馬場・居酒屋 二〇時一七分 店員の手にある皿を見て奥野道香(おくの みちか)は叫んだ。誰も触るな、動くな、そのコロッケは私のだ、と。サークルの後輩たちの試合を観戦したあと財布の機能を多分に期待されつつ打ち上げに招待された。自分と同じ四年生はゼミも一緒になる二木克巳(にき かつみ)、理工学部の大石多恵(おおいし たえ)しかいない。他の四年生はまだまだ卒論で大変なのだろう。奥野も苦戦するかと思っていたがゼミの友人が(なんだか生まれ変わったように)元気一杯で資料集めをする横でなんとなく図書館の本を読んでいたら体裁が整っていた。これなら卒論でC評価は固いと判断できるレベルだ。BやA評価に魅力を感じず、ではSを狙うとしたらそのコストは大変なものになる。その計算をもって仲間たちに先駆けて卒論を終結した。もう製本も済んでいる。カンフルになってくれた友人はもう一つ書き上げるのだそうだ(物好きなことだ!)。「で? いくらでなら売るの? 売るアテは一五秒で見つかるけど」との申し出に彼女は「みんな同じこと言うのね」と苦笑した。誰だろう? 心当たりがありすぎて絞れない。 コロッケが目の前に運ばれてきた。すでに同じ料理を三回頼んでいた。しかしそれらはすべて二四人いる後輩たちに略奪されて、彼女の前までたどり着いてはいなかった。三度目の注文では「そんなに食いたいなら貴様らも食えよ」と言いながら四皿も頼んでいる。一皿に二つだから、三回の注文で一二個。もし座の半数がコロッケに飢えているのだったら序盤から誰かしら頼んでいたはずだし、今度こそは自分までまわってくるだろう。安心して待ってしばらくし、「コロッケ通ってる?」と後輩に頼んだら八人の名前が連呼された。そいつらの胃袋に収まった(一部はそのままトイレで吐き出された)という。意地になった四回目の注文、さすがに後輩たちももうやめようと思ったらしい。 「別にそんなに食べたいってわけでもないんだけどね」 苦笑いして半分に割った。ソースをたっぷりとかけて、あーんと口を開いて——。そこに座っていた大柄な後輩がトイレにでも立ったのだろうか、ポッカリできた空間のおかげで同じ四年生の二木がこれまた四年生の大石に説教をしている様子が見えた。さっくりと衣をかみ破りながら耳をそばだてる。 「・・・だからね、同じ学校、サークルやクラス、研究室で友達なんていっても卒業したら会う理由はなくなっちゃうでしょ。そうなる前にきちんと意思表示して会う理由を作っておかないとダメじゃないの? それができない奴には失恋を気取る資格はないんじゃないか?」 お前がそれを言うか? サークルもゼミも一緒で他の人間よりは縁が深いだけに、その言葉の理不尽に頭を抱えたい思いだった。 まず第一に、お前が説教をしている女が惚れているのはお前だ。気づけよ。まったく多恵も可哀想に。 そして。 自分と由加里の縁も卒業で切れるということに気づいているか? 真壁啓一の日記 十二月十一日 天気は良く、めぐり合わせが悪い一日。 訓練場で青柳さんをドライブに誘ったら、午後からお経を上げにいくとか。お坊さんの世界でも常連客がいて、名指しで指名されると断れないのだそうだ。翠でも来ないかなとぼんやり待っていると、姉妹でおめかしで出かけていく姿をコンビニの帰り道に見かけた。 小林さんがなんとなくフレンドリーになっていたのでお話しようと道具屋に行ったけど今日はお休みだった。そこにちょうど鍛治師の島村さんが午前の納品に来ていたところだったので見学させてくださいよと頼んでようやく無聊から逃げられたという次第。そして彼らの作業場にお邪魔した。 すごい! の一語に尽きた。第二期の募集が始まり現在では三五〇人程度の探索者がこの街にいる。単純に考えてそのうちの半分が戦士にあたるから、一七五人。三日に一回地下におりるから六〇本弱の鉄剣、そして全員分のツナギを日々ここで修繕しているのだ。鍛治師は現在三〇人ほどおり、さらに二〇人の増員が計画されているらしい。そこまで聞き出したところで島村さんを怒鳴る声が聞こえて「邪魔しないなら適当に見ていっていいよ」と放り出された。 作業場は三つに分かれている。新しい剣を製造するところと、痛んだ剣を直すところと、ツナギや篭手など布製品を扱うところだ。剣を扱うところではむっとした熱気と臭気にくらくらしてしまいそうになる。俺たちよりよっぽど戦士向けの肩の筋肉をした人たちが、真っ赤に焼けた鉄を叩き整えていた。それらの剣は初め水桶に、次いで流水にさらされて冷やされる。もうもうと蒸気があがる。そして二人の男性がせっせと研ぎをかけていた。 耳がキーンとしたまま比較的すごしやすいツナギの作業場に進む。ここでは巨大なミシンを使って五人の男性が補修をしているみたいだった。彼らが使うミシンは、大正時代のドラマにあるような足踏み式のもの。なんで電動を使わないんですか? と訊いたらこっちの方が微妙な操作ができる上に強いんだと応えてくれた。 数十分いただけで喉がからからになって退散した。面白かったな。うん。ものを作る現場って面白い。東京にいたころ、お酒の工場の見学に行こうぜとよく提案していた木村さんに、酒は買って飲めこのアル中と切り返していたけれど、考えてみればもったいなかったかもしれない。確かJRの山崎駅にはサントリーの工場があったはず。時間を見つけて行ってみよう。 その後も今泉くんのスケッチを見物しようとしたら「ごめんなさいこれから学校なので」と言われ、北酒場で笠置町姉妹と見知らぬ男女が食事していたので寄っていったら葵に手と視線で追い払われ、由加里に電話したら一一時半過ぎまでずっと電話中だったのであきらめた。まあこういう日もあるか。 十二月十二日(金) 大迷宮・第九層 一〇時三一分 探索者の戦士たちも第四層に降りるあたりになると、各人の個性や優劣が出はじめると彼らは言っている。いわく、星野幸樹(ほしの こうき)は突き技に長け、真城雪(ましろ ゆき)は鉄剣の重量と遠心力を利用する跳躍戦法のが巧みで、野村悠樹(のむら ゆうき)は空手の足技と絡めて変幻自在、そして越谷健二(こしがや けんじ)はそれらの全てを越える技量を持つ——だそうだ。訓練場で彼らを日々しごいている橋本辰(はしもと たつ)からすれば、何を言っているのやらという印象がある。彼らはまだ各人の個性を云々できるほど強くない。 初めて竹刀を握ったのは小学三年生のとき。自分は世界を獲れると思った。夢は剣道日本一。大まじめで学校の作文に書いた。 その夢をあきらめたのは、中学校の顧問が彼をある老人に紹介したからだった。遠州さんと皆から呼ばれているその老人は中学生の橋本と立ちあった。もとより子供と大人の立会いだから、子供にいくら天分があっても勝負になるはずもない。それを言い訳に自分を慰めるべきだった中学生は、その天分ゆえか一つのことを思い知らされていた。このままでは、このおじいさんの歳になっても自分はこれほどにはなれない。なれる才能はあるのに。 弟子にならないか、その代わり、大会だのなんだのはすっぱりあきらめてもらうが。 遠州の言葉に一も二もなくうなずいた。 遠州は自分のことを『人類の剣』と呼んでいた。この国にほんの百人程度、世界中で数えてもニ〜三万人ほどの『人類の剣』たちは、いざ人間が即応できない事態が起きたときに盾となるべき義務を負うという。中学一年生の精神は、その輝かしい任務をすんなりと受け入れた。「バカじゃねーの」と思うような年頃になるときにはすっかりそんな言葉は忘れていた。人間が即応できない事態など滅多に起きるものではないのだ。 能力だけが高まっていく日々。年老いた遠州を越えたある日、彼は皆伝を申し渡された。そして「ことある時には——ないと思うが——自分より強い者たちをよく補佐するように」と。頷きながらも驚いていた。遠州を越えた今になってもまだ自分より上がいるのか? 確かめる機会もないまま結婚し子をなした。もう中学生になる息子には基礎的な剣術くらいは教えている。素質は平凡だったから健康になってくれればいいという程度だった。『人類の剣』などという考えを思い出すのは、遠州の命日の朝くらいだった。そして大迷宮が出現した。 名簿があったらしい。自衛隊による探索を補佐するために協力してくれないか。そう笠置町隆盛(かさぎまち たかもり)に頭を下げられたときに即座に応えたのは、彼が遠州の言った自分より強い者だと実感したからだ。勤めていた会社を辞めて京都に引っ越した。当初は隆盛とともに自衛隊の護衛を果たした。自衛隊による探索から迷宮街開設につれて、ごく自然に訓練場の教官になった。この強い男が自分を必要とする。世界で二番目ではないかもしれない。しかし、日本ではどうやら二番目にいるようだ。そう信じはじめていた。笠置町隆盛とは一一年の年齢の違いがある。彼の年になるときに越えればいいのだ・・・。 迷宮の第九層を歩きながら、そんな昔のことを思い出していた。 「敵です。およそ一五〇メートル前方。大型獣四匹」 訓練場で罠解除師の訓練を管理し、彼と同じく『人類の剣』の一人である洗馬太郎(せば たろう)がささやいた。地下に充満するエーテルを察知することで、自分たちが耳や目でつかむよりもはるかに広い範囲が彼の意識野に取り込まれていた。潜水艦のソナーの印象をもっている。 「警戒」 隆盛が静かにつぶやいた。そのまま歩を進める。五〇メートルほどまで近づいたとき、向こうもこちらのヘッドライトに気づいたようだった。後続が各自のランタンを一杯に広げ、まぶしくはないが動くには十分な程度に青白い光が広がった。 獣の一匹は青銅を思わせる肌をした水牛で、目が赤くらんらんと光っている。残りは毛皮に覆われた四肢に、いくつかの種類の動物の頭が生えている分類不能な獣だった。どちらもカバほどの大きさがあった。 「二〇メートルで、孝樹と辰は散開しろ。後続はおのおのの判断。私は牛を、二人は後ろのを各人しとめること。とりあえず一匹は残していい」じりじりと距離を縮めていった。 ぴったり二〇メートルの距離で水上孝樹(みなかみ たかき)と橋本は左右に走った。隆盛はそのまままっすぐに走る。隆盛が大きく踏み込み日本刀を振り下ろす様子を横目で見た。固そうな水牛の頭部がぱっくりと割れ、前肢を折り曲げて倒れた。静かに、すばやく。完璧な一撃と感嘆の気持ちを抑えられない。そして橋本も距離をつめて獣の頭の一つに鉄剣を叩き込んだ。切っ先はライオンを思わせる頭蓋を簡単に砕き、刀身の半ば以上がめり込んだ。そのまま力ずくに横に滑らし、トカゲの首の付け根にめり込ませる。ひゅごう、と頭の上で声がした。見上げるとトカゲの首はまだ力尽きておらず、陰になっている口の中でちろりと炎が燃えた。大きく吸い込んだ息を吐き出すとき、あの炎はどうなる? 危険信号に無我夢中で篭手に包まれた右腕を叩き込んだ。トカゲの顎が砕ける感触があり、前肢が崩れた。 「水上さん、こいつは炎を——」 彼に向かっていった二頭は自分が倒したものと同じ種類だったらしく、ライオン、トカゲ、ヤギと三つの首があった。それらは全て一点を向いており、そこに水上がいるのだとわかった。そして、計六つの首がすべて消失した。 横倒しになる二体の四足獣。その躯の向こうで無造作に鉄剣の血脂を振り飛ばす若い男を呆然と見つめた。自分がこの瞬間日本で三番目以下になったことを悟った。   真壁啓一の日記 十二月十二日 笠置町翠、絶不調。こともあろうに梅ジャムなんぞの不意打ちを食らっていた。彼女を包み込んだ梅ジャムに呆然とする俺だったが、青柳さんが慎重に中心細胞を破壊して二人がかりで掘り出した。引っ張り出してもしばらくはガタガタと震えて俺にしがみついていた。おでこに触ってみたものの、熱とかではなさそうだ。梅ジャムは呼吸器をふさぐ攻撃をしてくるから、かなりの量の粘液を飲んでしまっているようだった。念のため活性剤を打って毒気を消しておいて、しばし相談した。 葵に肩を抱かれあやされているうちに正気に戻った翠に続けられるかどうか訊いてみた。即答で「大丈夫」と帰ってきたが、数秒後にやっぱりダメかもと。今日はここまで、と決定したけど俺たちは実は安心していた。体調であれ、精神的なものであれ、少なくとも自分がダメなことがわかるくらいには回復したということだから。 午前中のうちに地上に戻った。翠からどこかに出かけようと小声で誘われた。承諾し、二人して京都駅の南側にあるスポーツクラブへ行ってみる。その場で入会しウェアを購入(金遣い荒くなってるなあ)し靴も買ってスカッシュのコートへ。頭がモヤモヤしているときは身体を動かした方がいい。球技は運動神経だけでなんとかなるものじゃないから俺に一日の長がある。たっぷり二時間ほど左右に揺さぶった。 それでかなりすっきりしたようで、おしゃれなところでお酒を飲もうというリクエストに同意したら洋服選びから始まった。俺も仕方なくジャケットとスラックスを購入する。そこで気が付いた。昨日、訓練場から見た翠はスカートをはいていたな、と。そんな彼女を見るのは東京以来だった。誰か親類に会いに行った東京以来。そして、昨日北酒場で見かけた男女。なんとなくパズルのピースがはまってきたような気がした。もちろん俺が知る必要はないけれど。 夕食はリーガロイヤルホテルのレストランでとった。迷宮街に戻りたくないと言う姿は子供のようで、仕方なくバーで酔いつぶした。そのままシングルを取って叩き込んでから、現在漫画喫茶の端末で記入中という次第だ。夜中に奴が起きたらまた呼び出されるのは明白だから飲み直しもできない。まあ、昔のジャンプコミックスを読めるからいいかな。 十二月十三日(土) 小川肇のメモ (前略)迷宮街の誕生は果たして人類史上初めてのことだったのだろうか? それは明らかに最初のことだったろうが、迷宮の出現という現象はこれまでに幾度も見られた。もっとも有名なものといえば『オデュッセイア』の中でイタケの国王オデュッセウスが賢者テイレシアスから助言を受けるために冥府に降りた話があげられる。日本のイザナギの冥府行、あるいは同じギリシャであってもヘラクレスの冥府行がいわば「優れた個人の冒険譚」であったのに対しオデュッセウスのものは軍事組織によるものである点で明らかに相違している。オデュッセウスは「その智謀神にも勝り」「城市を毀つ」明らかな勇者として描かれているが、冠絶たるのはあくまで知力であり個人的な武勇ではなかった。ゆえにオデュッセウスの冥府行は「英雄不在の」冥府行ということができる。 「英雄不在」という点は現在京都で行われている探索活動と非常に酷似していた。この街の探索者のうちに、英雄と呼ばれるべき存在は一人としていなかった。彼らはしばしば些細なことで探索行を放棄し、それは「各個人の自由意志」という考えの元に認められた。人類がいまだ成功していなかった地下世界への侵攻、それに牛歩に近い速度とはいえ成功しつつある(すくなくとも頓挫していない)という現状の価値を彼らは認識していなかった。彼らが気にしているのは今日の稼ぎと明日の自分の無事だけ、個人として自分が得るもの、失うもの、彼らの関心があることはそれだけだった。それでも歴史的な探索行は進んでいく。 それを可能ならしめたのは前述のとおりに個人の意識でも能力でもなかった。ただ怪物の死骸を金に替えるシステムの賜物だった。科学技術の進化によってかつてゴミ同然だった怪物の死骸に高価値が付加され、その結果最上層であっても一日に四〜五万円稼げるという状況が生まれた。以下の想像は答えを得るのに難くない。はたしてこの恵まれた経済的条件がなければ(義務感、英雄願望に頼るだけでは)、現在のように迷宮探索が継続しえただろうかと? 断じて否だ。 そして想像する。ホメロスの世界の英雄たちの前に同じシステムが提供されても彼らはそれに応じただろうかと? オデュッセイアの冥府行挫折(オデュッセウス自身はテイレシアスの助言を得ることこそ目的だったと語っているが、これは本人が言っているだけのことに過ぎない)と現代日本での漸進的継続を見比べると、ブローガンの以下の言葉を想起せざるを得ない。 「もちろんわれわれが時々、敗れたロマティストたちの側に共感を感ずることは自然で好ましいことである。しかしそのあとで、偉大な事業というものは高貴な英雄的な行為だけによって作られるのではなく、それよりはむしろ『中庸、注意深い勇気、適度の利己主義』に基づくことを学ぶのは必要なことだろう」 迷宮探索という偉大な事業が、英雄不在でしばしば度をすぎた利己主義を特徴とする国民性を持つ土地に発生したことはまさに天の配剤と言えるだろう。(後略)   真壁啓一の日記 十二月十三日 朝八時にフロントから部屋に電話をかけてもらったら、ひどい寝癖のまま降りてきた。手に下げているのは昨日洋服を買った紙袋だから、その寝癖のままで戻るつもりかと尋ねたらうなずいた。タクシーならいいでしょ? とのことだ。それはかまわないが、午後からの撮影までには直しなさいよと注意したら何それ? とぼけたことを言う。 あー! 忘れてた! テレビ局の取材を思い出させたときの反応がこれだ。俺くらいなのかな、一大事だと思っていたのは。 タクシーで迷宮街に直行、すぐに髪を洗ってシャワーを浴びて、美容院に毛先をそろえに行くのだそうだ。タクシー内部で美容院の予約をずらしてもらってシートにもたれた横顔は、もう回復しているように見えた。ま、仲間としてできることはした。これで次もへこたれているようだったらひっぱたくだけだ。 西口検問前で降りた。タクシーは(いちいち身分証を控えられるためか)迷宮街内部に入ることをあまり喜ばない。のんびり歩くつもりの俺を置き去りに翠は走っていった。最後に振り向いてありがとうと礼を言われた。すっきりした笑顔で、ちょっと報われたかな、という気分。 銭湯で一番湯を浴び、お昼まで一眠りした。ゆうべは三時ごろから少し寝たけれど、リクライニングの椅子では深い眠りにはならなかったからだ。 テレビ局の撮影は二時からスタートした。東京から週末探索者の桐原聡子(きりはら さとこ)さんにくっついてきたらしい。まずは事務棟で簡単なヒアリングをされた。内容は、「どうしてこの街に来たのか?」と「どんな変化が起きたか?」と「いつまでいるつもりか?」の三点。それぞれ正直に答えた。その後訓練場に移動し、各人普通の訓練をしてくれということでずっとストレッチをしていた。どうせ俺は添え物だからね。テレビクルーは真城さんと翠の打ち合いを撮っていた。最初はいい絵にするため指示を出そうとしていたらしいが、巨大な木剣を両手(というより全身)で振り回す真城さんと、対称的に小さな動きで切り込んでいく翠の図は変な演出が入り込めないレベルだったみたいだ。 その後、いろいろと思うことを話して欲しいからしゃべるのが得意な人はいないかと要求されたときになぜか俺があげられた。七時から北酒場で食事風景を撮るので来てくれと。今度こそ映れるだろうか。 夜。神田絵美(かんだ えみ)さん、真城さん、神足燎三(こうたり りょうぞう)さん、津差さん、葵、俺、黒田聡(くろだ さとし)さん、青柳さんで食事をした。普通に談笑しながら、インタビューへの誰かの答えにみんなでイチャモンをつけていくという感じで進んでいった。俺もいくつかしゃべったし、テレビも向いていた。結構長い時間撮られていたような気もする。 それにしても、迷宮街で撮る部分は二時間番組の中の一時間くらいらしい。それだけのために、レポーター、監督(?)兼音声さん、ライトさん一人、カメラさん一人と四人が二日動員されるのだから大変なことだ。二木は確かテレビ局に内定だよな。大変だぞー。 十二月十四日(日)  迷宮街・出入り口詰め所 一四時一五分 間光彦(はざま みつひこ)は目の前の女性を別人かと思った。東京で訪問し、インタビューを重ね、新幹線車内で横顔を映していた女性は社交的だがあくまで温和で、一流企業の販促プロジェクトを弱冠にして指揮しているとは思えない女性的な物腰をしていた。それはここ京都に訪れて彼女が仲間たちと笑いあう姿を見ても変わらなかった。特に、「ここから先はプライベートですので!」とウィンクして去っていった昨日の夜の姿からは迷宮探索者という殺伐とした印象はまったくうかがえなかった。 今朝は六時から撮影を開始した。道具屋で装備を受け取る探索者たちのカットを仕入れ、探索者の一人が地元の少年野球チームのコーチに出る姿を追跡取材した。探索者とはいえ何も変わらないのか。たとえば代議士と浮浪者ほどにも——自衛隊員にしてもっとも探索の進んだ部隊のリーダーという剣呑な肩書きをまったく感じさせずに子供たちにノックを放つ満面の笑みは間にそんな感想を与えた。テレビ人としての落胆と人間としての安堵を同時に感じながら迷宮入り口の詰め所脇で彼女——桐原聡子(きりはら さとこ)の部隊を待っていた。地下に降りていく背中、もし可能ならば迷宮内部をほんの少しだけフィルムにおさめるためだ。そして見慣れた人影に手を挙げた。先方も親しげに手を振る。そして間は金縛りにあった。 陳腐な表現をするならば蛇に睨まれた蛙とでもいうのだろうか。おはようございますと微笑むその顔は昨日と変わらず、仲間たちに紹介する気さくな態度も冗談も昨日と変わらず、そこにいるのは明らかに別の人間だった。何が違う? 間は平静な笑顔を作りながら必死に考えた。——これから彼女たちが地下で繰り広げる殺戮に対する期待感? 違う。もっと好悪からも善悪からもかけ離れた無色な何か。 昨日、京都に向かうのぞみのシートで彼女が言った「週末に読書で過ごす人も映画を読む人もドライブをする人もテニスをする人もいます。私はそれと同じように地下探索を選んだだけです」という言葉を信じるのなら、彼女が週末の愉しみに地下探索の代わりとしてドライブを選んだとしても、ハンドルを握る気迫はこうなるのだろうか。そうとはとても信じられなかった。 カメラの大西浩太(おおにし こうた)に背突かれて、おそるおそる地下にもカメラを同行させたいのだが、と切り出した。桐原は予想通りに危険ですからとやんわりと断った。そしてその後で、降りたいというなら止めませんけどね、と。 おお、とスタッフの中で喜びの空気が湧き上がる。しかし、間は「いや、やめておきます」と申し出を撤回した。いぶかしげで不満げな残りのスタッフたちの視線に苛立つ。どうしてこの馬鹿どもは気づけないんだ。殴りつけたい気分だった。 目の前の探索者が思っていることをどうして気づけないんだ。俺たちに抱いている感情をどうして気づけないんだ。 彼女は俺たちの申し出を拒絶しながら内心は喜んだとなぜ気づけないんだ。一回分の盾ができた、とほくそえんだとなぜ気づけない。 早くこの街を離れたい。心底からそう思った。   迷宮街・北酒場バー 一九時二二分 お目当ての若いバーテンは東京に行っているという。少し残念に思いながら、強めのスコッチをダブルで頼んだ。もともと団体で騒ぐことが性に合わない津差龍一郎(つさ りゅういちろう)は、最近はもっぱらバーカウンターで一人で飲むことを好んでいた。 「お晩です、津差さん」 ぎ、と音をさせて若い娘が隣りに座った。理事の娘でこの街でも屈指の魔女の一人、笠置町葵(かさぎまち あおい)だった。なんとなく上機嫌そうだ。 「こんばんは」 あたしも同じのください! と初老のバーテンに頼む。ずっと前にこの娘に酔いつぶれられたことがあったな、と思い出し少々不安になった。まあ、いざとなったら双子の姉を呼べばいいのだが。 「ご機嫌だね。何かいいことでも?」 できの悪い姉を持つと苦労しますよ、としみじみと言った。そういえば彼女は? と問うと真壁啓一(まかべ けいいち)とデートだという。パンダを見に神戸まで行ったそうだ。 「このところちょっと落ち込んでたんですけど、家族じゃ迂闊に踏み込めない問題だったんですよね。真壁さんに任せられてよかったな。あの人ならちゃんと彼女いるし、間違いも起きないでしょ」 事情を訊く前からの説明的な言葉は、それが彼女にとって大きな心痛の種だったことを示していた。津差はあいまいに笑った。 「それにしても、ほんとに恋の祭典って感じですね、この街自体が」 「クリスマスも近いからね」 今日も探索者の神田絵美(かんだ えみ)とアルバイトの小林桂(こばやし かつら)が二人して道具屋を白と緑と赤に飾りつけしていたような気がする。京都の中心部に行けばもう路地裏までクリスマス一色なのだろう。 もちろんクリスマスの魔法だけではない。この街では喜怒哀楽が外よりあからさまだと津差は感じていた。当時は過酷だと思えた体力テストは、今にして思えば健康な大人ならば誰でもできる程度のものだったとわかる。そのうえで当落を分けるのはひとえに覚悟の量だったのではないだろうか。そうして覚悟を試された、言うならば精神的に強靭な探索者たちが、すぐ隣りに死を感じながら日々を過ごすのがこの街だった。 死が近くにあり明日も自分が生きている保証がないからこそ、探索者には自分の欲求を肯定して簡単に主張する傾向がある。好悪、美醜、善悪、所有欲——あらゆる行動の典範がごく薄のオブラートに包まれて(しばしばオブラートは品切れだった)表出されるのが迷宮街という場所だった。この娘が恋の祭典と名づけた現状も、それを考えれば何らの不思議もないものだろう。誰だって他人に好意を抱くし、正常な大人ならそれは性欲を伴う。 でも、と考える。自分たちのように明日がないかもしれないと痛感している人間ならオブラートを捨てることも抵抗がないだろうが、この双子はまだ自分たちのようにエゴを肯定しきれないのではないかと。であるなら色々な意味で不利になるのだった。どんな論議だって積極的で声の大きいものが勝つものだから。死を隣りに感じていないというのは——生き残る可能性が高いということだから——喜ばしいことだけれど、周囲の華やかな世界に今ひとつ声を上げられない若者を見ると少々気の毒にも思えてくるのだった。 「ああ、いいなあ」 うらやましそうにつぶやく横顔はどこにでもいる夢見がちな二一才のものだ。眺めながら、津差はおかしいやら心配になるやら複雑な気分だった。これは兄の心境だろうか? と新しいスコッチのグラスを目の高さに掲げた。琥珀色のグラスに映るのは若い男だった。テーブルスペースの一角から彼女の部隊の罠解除師がちらちらと視線を送ってきている。彼は彼で、自分の欲求をあからさまに肯定できない経済的な理由があった。だから見つめるだけしかできないのだろう。そんな控えめな思いを、恋の祭典にあこがれる娘はまったく気づいていなかった。津差は苦笑してグラスをあおった。隣りで不思議そうな顔をする。 真壁啓一の日記 十二月十四日 午前中は訓練場で訓練をして過ごした。最近は地上では打ち合いの時間を減らすようにしている。平らな床の上で動くことに慣れてもあまり意味がないと思うようになったことと、とにかく剣筋を精確に、太刀行きを速くする練習が重要だと思うようになったからだ。ということで筋トレと柔軟とランニング、そして素振りだけで終わった。いろいろな訓練設備に恵まれている迷宮街だったけれど、いわゆるトレーニングジムのマシン類は置いていない。あるのはバーベルやダンベル、バランスボールといった使い方が決まっていない道具類のみだった。昔橋本さんに理由を訊いたら「俺はそんなもの使ったことないよ」と言われて沈黙した。この街でこれ以上に説得力のある言葉はない。 訓練を切り上げてモルグに戻る途中、テレビ局の人たちを見かけた。俺が呼ばれていたのは土曜日だけだったけど彼らは土日をこの街で過ごしているのだ。道具屋の前で神田さんと小林さんがクリスマスツリーの電飾を飾り付けしているところを撮影していた。 午後からは笠置町姉妹、津差さんと神戸まで出た。目的地は王子の動物園。ここにはパンダがいるのだという。パンダを見たことのない笠置町姉妹がついでにドライブを所望したのだった。俺が運転するという申し出は約一名の強力な反対で実現せず、助手席でナビをおおせつかった。 姉妹は喜んでいたが、やれパンダだやれキツネザルだやれカンガルーだと走り去っていく後に残される男二人は休日の動物園でどう見えているのだろうか。どうせなら平日にすればいいのにと言ったら「空いている動物園って淋しいじゃない」だそうだ。 その後、京都まで戻る途中で回るお寿司を食べて帰った。道具屋では立派なイルミネーションが完成していた。この街もいよいよ(世間から半月遅れの)クリスマスだな。 十二月十五日(月) 迷宮街・商社事務室 一三時七分 午前中で迷宮探索事業団の事務方ならびに計量部門の技術者たちとの挨拶を済ませ、後藤誠司(ごとう せいじ)は事務所の自分の椅子に深くもたれた。ぎ、と嫌な音がする。その音に眉をしかめてから室内を見回した。せいぜい一〇坪程度のその部屋が、世界にたった一つ地下世界の戦利品を買い取る事業を動かす拠点だと誰が信じるだろう。つつましいのは部屋の広さだけではなかった。確かにこの部屋は準備期間からあわせて二年間使われているのだが、それにしてもひどい事務器具のくたびれようだった。たった一人の事務OLである木島明子(きじま あきこ)に質問したところ、新しいオフィスを開くにあたりテンポスバスターズからすべて購入したらしい。耳を疑う思いだった。スタートの時点でそこまで強引に経費を削減するほどの覚悟がありながらどうしてこの高い買い取り価格を許しているのだろう? そう! 意外だった! と朝一番で行われた前任者の榊原美樹(さかきばら よしき)との引き継ぎを思い出した。渡されたファイルは非常によくまとまっており、管理者と作成者のどちらも高い事務処理能力があることを示していた。それだけに、さっと目を通しただけでわかったのだ。自分たちが得るべき利益を迷宮探索事業団が搾取しているわけではない、という意外な事実が。後藤が想像(というより期待)していたのは『探索者からは安く買い叩き、自分たちには高く売りつける迷宮探索事業団』というやりやすい構図だった。しかしよくまとめられた帳簿類は、一次の交渉相手である迷宮探索事業団も死体買い上げというメインビジネスではほとんど利益をあげていない、少なくとも暴利をむさぼっているとはいえない状態を教えてくれた。この街が生み出す莫大な富はほとんどが探索者の懐に入っている。それを事業団が各施設で吸い上げているのかとも思ったが、食住は外注しておりしかもその値段も低く抑えられていた。事業団が独占している事業に武器防具の製造があったがそれは当然だろう。こんな特殊用品は専用の企業体を作らない限りどれだけの値段で売られるかわかったものではないし技術革新も望めない。 価値あるものには価値ある値段を——後藤の半生を通じて真理だったものが通じない街に少なからず動揺し、そして気が付いたら前任者は新しい任地に旅立っていった。逃げられた、という印象が強い。好きにおやりなさいと笑う顔には悔しさもねたましさもなく、やることはやった満足感と後藤に対する信頼(それはとても信じられない感情だが)があふれていた。何を考えているのか本当にわからない。 とりあえず椅子は買い換えよう。机や棚が古いことは気にならなかったが椅子だけは別だった。たかが四〜五万のものだからたいした問題にもならないだろう、と思った視界の端に湯呑みが置かれた。 「ありがとうございます、木島さん」 榊原と二人でこの街の買い取り事務を切り回していた女性は、当年で四〇歳くらいになるのだろうか。すこし痩せすぎだが快活そうな女性だった。ゆっくりした京都弁を聞く限りでは地元の方なのだろう。当面は師としていろいろ聞かねばならない相手、お茶を入れてもらうのは申し訳ない気がした。だから湯飲みを持ち上げてから断りを口に出した。これからは別に私の分は結構——あ、おいしい。 これからもできればお願いします、と頭を下げると笑顔でうなずかれた。話の端緒をつかんだ気がしてこの街について訊いてみた。この街ができるときの街の設計、建設の手配をしたのは誰だろう? 物流を整えたのは? 各外注企業の選別は? それらはすべて理事たちがしたのだろうか? 答えは、榊原さんですというものだった。それは半ば以上予想通りだった。 組織は時間とともにどうしても血流が悪くなるし、放置すればサイズと費用が増大するものだ。ゼロから打ち立てて二年間、現時点で事業団の経理がこれだけ健康であるということは二つのことを示していた。最初に立てたシステムが非常に完成度が高かったということがひとつで、もうひとつは権限と忍耐力のある人間が不断のメンテナンスを行っていることだ。メンテナンスは徳永という事業団の事務責任者がいればどうにかなるだろう。しかし最初の仕組みを作るのは、人間性と組織と経済に精通している人間が必要だった。もちろん理事がその稀有な人間だった可能性も当然ある(しかし、木曾の山奥で職業農家をしている人間ではその可能性は薄そうだった)が、しかし、卓抜した経済人が二人同じ場所にいた、というよりは榊原がすべてを設計したと考えるほうが順当だった。 何を考えているのか! 買い上げのシステムを調べたとき、うちの会社と迷宮街の絆は強そうだなと思った。榊原という人間の仕事を追っていくうちに、絶対にこの街で大きな存在感を持っているだろうと確信した。大きな存在感? とんでもない! この街の父親はまだ見ぬ理事ではなく徳永でもなく、榊原美樹だった。ではなぜ利益を取らない? 簡単だ。親だからこそ子供を甘やかしているのだ。 問題は、その「子供」が探索者なのか、探索事業なのかだが——。ちょっと石を投げてみるか。でも、どこに投げれば効果的に波紋が広がるかがわからない。今日から北酒場に入り浸ることにしよう。 「所長」 これまで課長代理という役職にしかついておらず、長と呼ばれても自分のことだとはわからなかった。もう一度呼ばれて気づき、別に後藤でかまわないと告げた。 「今日の夜からインタビューのアポイントがあるのですが」 「・・・初耳ですけど」 「榊原さんが受けたんですけど、新任の方がいいだろうということで。テレビ局の特番で一九時からです」 「いいですよ、別に家に早く帰ってもすることないし・・・テレビ局?」 「ええ、NHKです」 「探索者にも取材が入りました?」 「ええ」 そのリストは手に入らないか? と尋ねるとすぐに出してきてくれた。名前と簡単な説明文だった。後藤は一人一人をじっと読み込んでいった。これは、マスコミというある種の嗅覚を持った人間が目をつけた人間のリストなのだ。自分が運を天に任せて選ぶよりは、迷宮街での中心に近い場所にいるだろう。そしてその名前を見つけた。 お前だ、突破口は。にっと笑い、あわてて顔を温和につとめた。木島に怖がられたらえらいことになる。 お茶を飲み干してしまい、物足りない思いで湯飲みを見つめる。くすりという笑い声と、「もう一杯入れますね」と立ち上がって出て行く背中に感謝を込めて頭を下げた。 真壁啓一の日記 十二月十五日 迷宮街だけではなく地下までもクリスマスに突入。 何かというと、葵のツナギが「クリスマスバージョン」になっていた。ベースを赤に、フードのふち、袖、足首、ウェストラインが白いというもの。書き忘れていたけどツナギの色は基本料金で各人自由に選べる。たとえば俺はオレンジだし翠は明るい緑色(それが翠という色なのかどうかは今泉くんに訊かないとわからない)、葵は明るい青だった。児島さんは——あれ? 前に書いたか? まあいい。一色で塗りつぶすなら基本料金でやってもらえたけど模様をつけるには追加料金として二万円ほど必要。それでもお金持ちの多い迷宮街のこと、独自ツナギは根強い人気を誇っていた。葵もずっと青一色だったけれどクリスマスに合せてサンタを真似たのだろう。ちなみに他に目立つツナギといえばやっぱり真城さんだろうか。この人はなんと豹柄。あんまりといえばあんまりだけど、ネコ科の肉食獣の装束はこの人の速くスムーズな動きにすごくよく似合う。他には越谷健二(こしがや けんじ)さんが印象的。この人は人体の筋肉図だった。なんでも好きなスポーツ選手が昔こういうユニフォームを着たらしい。この人は訓練用のツナギも作っていて、そっちはシマウマの模様である。だからこの人がいるとなんとなくほのぼのとする。 サンタ効果でもないだろうが、今日も無傷で探索を終えた。いなばやカンフーという高速な化け物にも全員が対応できている。青柳さんは相変わらず一振りでいなばを粉砕(文字通り)しているし、翠は最近、生き物を両断しても刀身に血脂がつかなくなってきた。俺は——特にこれといった成長もなく。でも問題もなくついていっている。いなばが三匹出てきて、葵の援護が出る前に一人一匹ずつしとめたことでなんとなくこの階層はもう終わりでいいかという雰囲気になった。俺の気分としては、早く第三層に降りてみたいというところ。というのも第一期の探索者には第二層で進行が止まってしまっている人たちがたくさんいるから。彼らはもともと第二層まででいいと思ってこの街にきたのだろうか? もしかしたら中にはそういう人間もいるかもしれない。けれど、大半は第三層に挑戦して(あるいは話を聞いて)くじけたのだと思う。であるならば、このメンバー、この士気で進みたいと思ったのだ。越谷さんや真城さんといった既に第四層に達している部隊からは問題ないとのお墨付きをもらっていた。あとはきっかけだけ、勢いだけの問題だった。そして今日は誰一人怪我を負わずに地上に戻ってこれた。青柳さんも同じことを思ったらしく、五時から北酒場でミーティングを行うことにした。 テーブルにケーキ(俺と葵だけだが)とお茶を用意し、経験豊かな先輩探索者の越谷さんと落合香奈(おちあい かな)さんをお迎えしてスタートしたミーティングは、第二層に降りることについての意見を越谷さんに訊いた時の「だいじょうぶじゃないの? 笠置町さんいるんだし」とは違い真剣な雰囲気で進んだ。ちなみに落合さんは、探索者相互の掲示板の怪物情報に一番意欲的に書き込んでいる方で、この人がハンドルネーム『エジンバラ公』だと越谷さんに紹介された瞬間に全員が同席してもらう価値ありどころかお願いしますと唱和した観察力と表現力の人である。文体と名前からてっきり男性だと思っていたんだけど。 化け物にも相性があるようで、群れの規模、群れが同行するパターンなどはあらかた経験によって明らかになっていた。そのすべてのパターンを考えて客観的に自分たちの能力と比較して挑戦が無謀じゃないかを話し合った。問題は通称もそのままクマというワーベアーという化け物が最大で八体出てくる場合、緑竜と呼ばれている緑色のトカゲ、信じられないことに(おとぎ話の化け物みたいに)高熱の硫化水素ガスを吐き出してくるこのトカゲに不意を討たれた場合、動きも速いカンフーたちが最大三〇人くらいで襲い掛かってくるという悪夢のような場合、その三つに焦点が絞られた。まあ、と越谷さんは楽観的に笑った。葵が身につけている魔法、一瞬だけエーテルを変質させることで普段エーテルになじんでいる迷宮内の怪物をすべて殺してしまう術さえあれば、大量に出てきてもどうにかなるという。「俺たちがはじめて三層に降りたときには笠置町姉妹はいなかったし、剣の腕も真壁と同じくらいだったよ。君らは恵まれている」「だったねー」二人は昔同じ部隊にいたそうだ。確か真城さんとも同じ部隊だったんだよな、越谷さんは。一年もいれば死別でなくても人間の移動はあるのだろうか。俺たちもそのうちばらばらになるのかな。 「まあ、俺たちのレベルでも緑竜に不意打ち食らったら誰か死ぬし。でもお前さんたちはもういい時期だと思うよ」 からっと笑う越谷さん。絶対安全を地下に求めるほうが間違っているのだろう。心身の調子が悪ければ、笠置町翠ですら梅ジャムに飲み込まれるのだから。 うーん、と判断を保留したバンドマン二人も実際は乗り気のようだった。自分の命がかかっているんだから、俺たちに遠慮して決められたらこっちが迷惑だからな、という青柳さんの一言で場を解散した。そのまま葵、俺、越谷さん、常盤くん、落合さん、鈴木秀美(すずき ひでみ)さん、珍しいことに道具屋の小林桂(こばやし かつら)さんも加わって宴会になった。どういう縁かといえば落合さんと鈴木さんは部屋をシェアしていて、鈴木さんは小林さんになついているらしい。小林さんに何かいいことあったんですか? と訊いたら右手の薬指をあげられた。婚約指輪なんて生まれて初めて見た。越谷さんの悪い癖で(この人は男なのに花とか宝石とかが大好き)指輪の質、似合う似合わないの品評をはじめそうになったのを感じて首根っこをつかんでバーカウンターへ。そのまま津差さんと、若いバーテンの小川さんという方と四人でおしゃべりをした。 「真壁さんひでえよ、男一人おいていくなんて」 モルグで常盤くんに言われたセリフがこれ。彼はくそまじめな面があるからうまく外せなかったんだね。目の前で結婚のドリームを咲かせつづける女たちはつらかっただろうけど、いい人生勉強になったんじゃないかな。 十二月十六日(火) 木曾谷・笠置町邸 一〇時三九分 木曾の山はもう雪に包まれている。普段だったら都市部に出稼ぎ(各地の町道場へ稽古をつけに)行くべき時期だったが今年もそれはしないでよさそうだった。ささやかながら事業団理事の報酬もあるし、一年目のハウス栽培のイチゴは目が離せない。これが軌道に乗れば今後は冬のたびに家を留守にしないで済むだろう。もっとも、かつて淋しがっていた娘二人はもう家を出てしまっているが。 旧家屋ということで風通しのよすぎる部屋、それでも囲炉裏の炭火をかんかんにおこしたので来客は快適そうだった。出されたお茶をおいしそうにすすっている。そのしぐさを見て夫婦は少しほっとした。 迷宮探索事業団と独占取引をしている商社の担当者が変わるという話を聞いてから半月、どんな人間が来るのだろうと不安に思っていたのだ。前任の担当者はその男を高く評価しているようだったが、それはあくまでも彼が迷宮探索事業に抱いている価値(歴史的価値? だとか)のためにである。夫婦は初老の営業マンであった前任者を好いて頼っていたがその価値観は理解できないものだった。もともと彼らは『人類の剣』と呼ばれてはいるが、戦闘能力に秀でているだけであとは一般人となんらの変わりもない。世の中の標準と同じように政治と経済の感覚に欠けていたし、ありとあらゆる英雄的な精神からも無縁だった。みな日々のつとめで生計をなんとか立てている傍らでその技術を磨いているに過ぎなかった。どうしてその努力を続けているかといえば義務感では断じてない。それは単に先人たちの努力に対する義理と——政府から支給される月一〇万の維持費用のためでしかない。彼らはあくまで通常の体制や常識では即応できない事態に対する応急処置なのである。現実に、再来年から名誉理事を一人ずつ普通のひとびと(おそらくは防衛庁あたりの天下り)に移していく計画を練っていた。その交渉(名誉理事たちはできるだけその名誉を長く保っていたかったから抵抗があった)が夫婦の現在の仕事の大部分を占めている。 剣の技術、魔法の技術を除けばどこにでもいる中年夫婦でしかない二人にとってはなるべく波風立たずに穏やかにやってくれる人間を期待するのが正直な気持ちなのだった。 目の前の男は夫婦が抱いていた懸念とは無縁の人間に思えた。はじめはその悪相にぎょっとしたが、つとめて浮かべる笑顔が自身もその顔を気にしこちらを怖がらせないようにしている気遣いを強く感じさせた。彼は簡単な挨拶をし雪に驚いてから、前任のやり方を引き継ぐと明言した。夫婦はもちろんその言葉を信じた。後任者は前任者以上の結果を要求され、ビジネスの世界では結果とは利益のことだと知ってはいたが、まだ若さを感じさせる笑顔には二人を安心させる頼もしさと誠実さがあったからだ。 玄関先で見送るとき何の気なしに京都にお戻りですかと尋ねた。 「いえ、今日は東京に向かいます。迷宮街には明日の午前中に」 本社に出頭するのかなと漠然と思った。その一瞬に見せた凄みのある笑顔に自分はこの男をつかみきれていないのではないかと不安を感じた。   長野県・「しなの」車内 一二時一二分 緊張を解いたのは「しなの」が発車して一〇分は経った頃だった。それまでなんとなくあの男女の支配圏にいるような気がしていたのだ。雪が降っていた場所にいたというのに、手のひらにはびっしょりと汗。 もともと事業団から金を引き出そうとは思っていなかった。引き出そうにもそこに金はなかったからだ。昨日はそれを残念に思った。というのも北酒場で探索者たちを眺めて痛感したのだ。こいつらと団体交渉したら胃に穴があくと。 その戦闘能力、生命力に対しての自負がそうさせるのだろうか? 探索者たちは一様にいさぎよく、芯が強そうだった。さすがは自分があえなく沈没したテストを潜り抜けてきた者たちだと思った。 しかし、理事の笠置町夫婦と対面して談笑した今ではそれでも探索者たちの方がましなのだとわかる。探索者たちはあくまで人間だ。しかし理事たちは——もちろん人間だ、人間なのだが・・・はたして相手も同じく自分を人間だと思ってくれているか? なんだか不気味な不安を感じる。 できることからやっていこう。東京で数種類の化学成分についての価格交渉と最新の需要傾向を調べ、そして時間があればもう一つの目的も果たしたいところだ。 最初から飛ばしすぎだろうか。少し反省する。 それでも東京に戻れるのならよしとする。テストからこちら、めまぐるしく物事が動いて少し疲れていた。妻の隣りで一息つきたかった。   真壁啓一の日記 十二月十六日 寒い! 朝方の気温はすでに三度ほどだ。最近は朝六時に起きるようにしている。この時間なら必ずモルグでは誰かしらの目覚ましが鳴る。これまでは舌打ちしながら二度寝していたけど、それよりは起きてしまってトレーニングを早めに終えたほうがいいと最近気づいたから。今日もジャージに着替えて三〇分ほど運動場を歩いてから一時間ストレッチ、その後一時間走った。当然のことだけど東京にいた頃より身体が軽い。おそらく、二〇キロなら一時間二〇分を切れるだろうな(東京にいた頃の最高記録は一時間二七分)。ハーフマラソンの大会に出てみようか。京都のはもう受付が終わってしまったけど。 朝のジョギングでは幾人か見知った顔ができた。その中に昨日初めてお話した落合香奈(おちあい かな)さんと、黒田さんの部隊の戦士である境周(さかい あまね)さんがいたので挨拶した。落合さんは真城さんの部隊の罠解除師。昨日も書いたけど観察力が鋭くてこの人の怪物写真がいまではほとんどの怪物資料に使われている。髪の毛を無造作にポニーテールにしてたったかと走る姿はアメリカの映画に出てくるキャリアウーマンみたいだ。そのイメージは普段からそうで、街中で見かけるときもいつも颯爽としたスーツ姿で、必ず俺以外にも数人はぽかんと口を開けて見とれている男がいる。 境さんは対照的に朴訥そうな男性。さかいあまね、なんて詩的な名前なのに。穏やかに人の話を聞いて微笑んでいるのが似合っている。でも黒田さんいわく「怪物と戦っているときは、どっちが怪物かわからないくらいの気迫」なのだそうだ。 二人に今日のたくらみを打ち明けたらいいなと言われたので誘ってみた。ジョギングを切り上げて汗臭いまま着替えを担ぎ、レンタカー屋の前へ。津差さん越谷さんが待っていた。みんなで鞍馬温泉でも行こうじゃないか、と昨日の晩に相談がまとまったのだ。三人だと思って借りたマーチ(といっても二〇三センチの津差さんがいる時点で選択ミスだと思うけど。こんな人は軽トラの荷台に乗せておこうよ)に五人詰め込んで出発した。 迷宮街ではお風呂は銭湯を使っている。モルグの住人だけではなく、一般の方とも触れ合うべきという考えからだった。それでも大半は探索者だから、こうやって外のお風呂に入ると気づくことがある。やっぱり探索者は絞り込まれた身体をしているなということ。四人とも前衛だからなおさら、後衛でも三日に一回は三キロあまりのツナギを着て二〇キロ近く歩く生活をしているわけだから、探索者には肥満体というのは見当たらない。真城さんなんかいかに脂肪を残すかで苦労しているらしい。温泉には深夜のドン・キホーテにジャージで来そうな人が数人いたけれど、俺たちの身体を見て黙りこくってしまった。多かれ少なかれ全員の身体に刀傷があるのだからそれももっともか。 昼ご飯は俺の強い要望でCoCo壱番屋になった。東京にいる頃はよく食べたな。もう一三〇〇グラムの挑戦はなくなってしまったのか? 昔は一三〇〇グラム食べたらタダというゲームがあって、二回やって二回失敗したと話したらじゃあやってみようということになった。 リザルト  津差 龍一郎 一五〇〇グラム 完食。  越谷 健二 一三〇〇グラム 完食。  境 周 一三〇〇グラム ギブアップ。  真壁 啓一 一三〇〇グラム ギブアップ。  落合 香奈 一三〇〇グラム 完食。 なんなんだアンタいったい。ああ、まだ胃の形がわかる。 十二月十七日(水) 桐原聡子の電子メール 星野幸樹 様 高田まり子 様 真城雪 様 湯浅貴晴 様 おはようございます。桐原@東京です。東京は今日はどんよりと曇っています。午後からは晴れるらしいのですが、気温のほうはいよいよ冬本番という印象です。京都はいかがですか? さて本題ですが、昨日夜、迷宮街の新しい買取担当者に就任した後藤誠司氏と会食しました。先方から挨拶にということで希望を受けたものです。後藤氏は始終にこやかに(彼のお顔はごらんになりました? 雪の好みかもしれません)機嫌よくいらっしゃいましたが、少し気になることもおっしゃっていました。 第二期の探索者がやってきたことで死体から採れる化学成分が過剰供給になる恐れがあるが、榊原さんは固定額での買取をおこなっていたために赤字の心配が出てきた、という話が一つ。探索者相互の連帯感についての質問が一つです。 彼の商社は私にとっても取引先の一つですから、探索事業の部署がかんばしくない成績であることは聞いていました。今回の担当者変更は利益拡大のためのものと考えて間違いないでしょう。確かに事業団の買い取り価格は実際の販売価格に比べて比較的高く感じられます。後藤氏の基本方針に買い取り価格を下げることは明らかにあると思われますし、それは変動相場にするのが簡単な方法でしょう。しかし第一層に探索者があふれている現状では、ほとんどの探索者の収入が減ることになります。当然抵抗は大きいでしょう。 そこで同時に探索者相互の連帯感を訊かれたということは、こちらが一枚岩かどうかを探っている——内部分裂をさせて各個に価格交渉ができないかと考えていると思われます。 彼から何もはっきりしたことは言われませんでしたが、私を協力者にできないかという期待を感じました。収入源を平日に持っていて、(探索者よりは)経済に明るいということで、彼の側の人間だと(数字で動くと)思われたのかもしれません。 今回は確実なことは何も言われませんでしたから今後も接触があると思われます。都度内容をご報告しますので、探索者側のとりまとめをお願いします。 雪へ 一九日ですけど仕事あけられそうです。小林さんの送別会は私もカウントしておいてください。一九時くらいに京都着かな?   迷宮街・北酒場 二一時四〇分 知り合いが宴会でもしていないかな、と思って円テーブルのスペースを訪ねた。予想通りに「真壁!」と声がする。真城雪(ましろ ゆき)がジョッキを掲げて呼び寄せていた。珍しいことに同席しているのは普段の仲間たちではない。現時点で第四層に到達している四部隊のリーダーだった。星野幸樹(ほしの こうき)は自衛隊の将校という珍しい経歴を持つ。高田まり子(たかだ まりこ)は迷宮街最高の魔術師で、『魔女姫』という異名を受けていた。湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)は長身で整った容貌、超然とした印象を与える治療術師である。第四層における地図作成や電灯設置などの作業はこの四部隊で行っているため探索者の中でも確固たる敬意を抱かれているエリートたちだった。真壁啓一はいぶかしい思いをしながら歩み寄っていった。なんですか? と訊く。 「真壁はあたしの味方だよな?」 女帝と呼ばれる女は相当程度酔っていて、そして不愉快になっているようだった。真壁は即答を避けて他の三人の顔を見た。星野と高田は苦笑し、湯浅の端正で理知的な顔立ちは普段どおりの無表情である。この四人の中で意見が分かれたというわけでは、少なくとも深刻に分かれたということではなさそうだった。 「やですよ、事情わかってても怖いのに」 なんだと! と気色ばむ。まあまあ、あんたの気持ちもわかる、よーくわかるからとりあえず飲みなよ、と高田がテーブルの上のジョッキに残っていたビールを彼女のジョッキに注いだ。ぜんぜんわからない上にそれは俺のビールだよと湯浅が小さくつぶやいた。無表情は変わらない。 星野が苦笑を深くして説明する。新しい買取担当者が買い取り価格の値下げを狙っているらしい、そのために探索者全体でまとまる必要があるだろうかと話し合っているのだ、と。確かに真壁の部隊は第二期の中では一番有力なものだったから、第二期探索者の意見を訊くにはもってこいなのだろう。 「そっか、真城さん値段を下げられたらロイヤルスイートにいられませんしね」 別に暮らしを変えるのが嫌なんじゃないよ、とぶつぶつつぶやく姿に苦笑がもれる。そこで突然「君が真壁くんか!」と声をかけられた。 一目でその能力の高さがわかった。年齢は二五〜六といったところだろうか、日に焼けた肌と刈り込んだ髪が印象的な男だった。背丈は真壁より高く一八〇センチを少し超えるくらいだろうか。見覚えのある顔だったが、この街の人間ではなかった。もちろん探索者の大半は顔と名前が一致しないのだが、この男とすれ違えば必ず記憶に残る。雰囲気から感じる戦士としての勘がそう告げていた。この男は、もしかしたら訓練場の教官に匹敵すると。 そしてふと思い出した。先日、笠置町姉妹と同席していた男女のうちの一人がこの男ではなかったか。同時に納得する。若くしてこの街屈指の能力を持つあの姉妹の関係者であればどんな化け物であっても不思議はない。遠目に姉妹の両親を眺めたときの重圧は、今でもときどき夢に見るのだった。 記憶を探っていた真壁の沈黙に、男は自分が唐突すぎたことを悟ったようだった。ごめんごめんと頭をかく。 「僕は水上孝樹(みなかみ たかき)って言います。翠ちゃんたちの従兄です。いや、真壁くんって名前を聞いたもんだからとにかく声をかけちゃったけど、驚かせてしまったね」 そして真壁の姿を上から下へと見回した。 「いや、よかった! ようやくできた翠ちゃんの彼氏が君みたいなちゃんとした人で。おばさんがいつも、あの子はダメ男にひっかかるとか心配してたから俺も不安だったけど、うん、よかった」 言葉の後半を真壁は理解していなかった。彼氏? 想像外の言葉に自分の名前が何かの事情で使われていることを知った。それを暴いたら一人の娘が恥をかく。めったなことは言えなかった。さらにこの場にいる四人、特におしゃべりな一人が失言しないようにその行動を制さないといけない。その方法を考えていたのだが——ポケットで携帯電話が震える。取り出した発信者の欄には懸念の相手の名前が光っていた。安堵して、水上に謝ってから携帯電話を耳につけた。無言だった。あたりまえだ。発信者の真城雪はすぐそこで座っているのだから。彼女も、翠が何かを隠すため真壁の名前を使ったうそをついたことに気づいたのだ。そしてとっさに助け舟を出した。ポケットの中では携帯電話が握られているのだろう。 無言の相手に向かい真壁は話しかけた。はい真壁です。ん? ほんとに? いやそれ早く処置しろって。わかった、すぐに行くから。切る。 そして、目の前の水上に頭を下げた。ちょっと、友人が緊急事態なんで行かないといけません。今度お食事でもご一緒させてください、と。水上は鷹揚に笑って手を差し伸べてきた。珍しいひとだなと思いながら握手を返す。彼の手は指が長く太く力強く、剣を振り回すことで鍛え上げられた自分の握力であっても本気を出されたら骨が折れるのではないかと感じられた。 円卓の四人にもお辞儀をして、真城雪の酔っ払いらしからぬ判断には大きな感謝の念を込めて足早に北酒場の出口に向かった。そして立ちすくむ人影を見つけた。笠置町翠だった。真壁さん、とつぶやく顔には不安げな色。真壁は笑顔を作れとだけ言った。水上が見ているおそれがある。泣きそうな今の顔を見られたら疑問に思うはずだ。 なんとか笑顔を作った女剣士に真壁は微笑んだ。 「とりあえず口裏合わせてるし、逃げてきたから大丈夫」ほっとした表情に続ける。 「なんでも協力するよ。でも前向きに一歩踏み出すんなら応援する」 肩をぽんと叩いて出口をくぐった。細い肩だった。   真壁啓一の日記 十二月十七日 大海を知った一日。今日は教官の橋本さんに稽古をつけてもらった。戦士としての真壁啓一にはこれといった特徴はないけれど、バランスよく上達していると思う。最近では第一期の戦士の中でも第二層より上で停滞している人たちとはいい勝負ができるようになってきていた。以前はとてもかなわない、と思った高坂新太郎(こうさか しんたろう)さんにも最近は分がいい。慢心は禁物。でも俺は、第二期の剣士として五指に入る位置にいると確信している。 まあ、慢心なんてできるわけがない。橋本さんは以前はぼんやり座っているだけだったのだけど、この頃はよく稽古をつけてくれる。第一期の先輩たちですら赤子同然のその人と、長い順番待ちでようやく立会いになったと思ったら相手にもならなかった。「じゃあ、首を右から打つから」そう言われて身構えても、気が付いたら切っ先が首の隣りにいる。真城さんのように瞬きのタイミングをつかんでいるのか? と思って意図的にずらしても同じだった。スピードとか筋力とかももちろん違うけど、それよりは根本的なコツを俺はつかんでいない気がする。言葉を知らないのに会話しようとしているような。たっぷり一〇分間あしらわれて、わけがわからないと言ったら「一ヶ月でわかるようになってたまるか」と笑われた。先は遠いな。 知らなかったけど、買取している商社の担当者が変更になったらしい。これまでは榊原さんといういいおじいちゃんみたいな空気の人で、暇さえあれば迷宮出口の詰め所でお茶をすすっていた人だ。みんなお父さんと呼んでいた。新しい人はどうやら買い取り価格を下げようと思っているらしい。あんまり無茶な下がり方をするのは困るけど、俺としてはふーんそうですかという印象だ。暮らせるだけの稼ぎはあるから。 水上孝樹(みなかみ たかき)さんという方とほんのちょっとだけお話をした。笠置町姉妹のいとこというその人は穏やかで快活で、明らかに強かった。ちょっと挨拶した握力は津差さんよりも強いんじゃないだろうかという迫力。笠置町家族のあたりはきっと遺伝子レベルで違うんだろうな。 まあ、違うといっても肉体的なものだけだろうけど。 十二月十八日(木) 迷宮街・南北大通り 一〇時六分 どんよりと曇る空。身を切る寒さこそないものの、吐く息はすっかり白かった。湿った風が絶え間なく吹き付けてくるこんな日にはさすがに部屋で暖かくしているだろう、となかば予想していたので、セーターの上に外套を巻きつけてイーゼルの前に腰掛けている姿に感心してしまった。その目は寒さなど感じていないように大通り向かいの並木とキャンバスのあいだを行き来している。冬の灰色の空を描いていてもなお明るいその色調はこの少年の健全さをあらわしているようで、小林桂(こばやし かつら)の心を暖かいもので満たした。この子はおそらくユトリロにはなれないだろう。でも画で名をあげたのは彼だけではないし、一人の若者としてそれは幸せなことに決まっている。 笑いの波動を感じたのだろうか、今泉博(いまいずみ ひろし)は背後を振り返った。恩師の姿を見つけてほころぶ白い顔はテレビの中のアイドルにも引けを取らず整い、彼らよりもずっと品があった。それはまあ、師としての贔屓目かもしれなかったが。これはもてるわけだわ、と今更ながら納得する。おはようございます、と元気のいい声に微笑を返すと彼はまた画布に目を戻した。しばらくして「明後日でしたっけ?」と背中が問いを発する。小林がこの街を去る日だった。ええ、と返事を返すと送別会に参加できないことを詫びられた。大検と美大、双方の予備校に通うこの少年は週の大半、夜をこの街の外で過ごしている。 「勉強は大事よ。それに集まるのはほとんど第一期の人たちだから、今泉君にはつまらないでしょ」 自分が積極的に探索者と関わったのはほんの最初の時期に過ぎない。その頃親しくしていた人間たちの大半は街を去り、少なくない数の人間は永い眠りについていた。 「どういう人なんですか?」 興味津々といった声。はっとする美貌にしては浮いた話を聞かなかったが、一八歳ならば恋愛に対する興味や好奇心はあるのだろう。そうね、と桂は話しだした。彼女にしても話の糸口として悪いものじゃなかったから。 熊谷繁実(くまがや しげみ)は第一期の初日に探索者登録した戦士だった。家業を継ぐのが億劫で逃げてきたんだと、からりとした笑顔で言ってのける彼には弱さや甘え、疲労といったものをやさしく肯定する鷹揚さが感じられた。桂が抱えていた心の重石——目の前の少年に望まぬ進路を強制し、人生をゆがめた裏切り——をおそるおそる打ち明けたら、その時はほかにやりようがなかったんだろう? とこともなげに言い放った。 本心では責めてほしかったのだろう。非難されることで心の痛みを感じて、それをもって免罪符としたかったのだ。しかし熊谷はそれをせず、ただ自分が失敗したことだけ覚えておけばいいんだと言った。一人傷つけたことだけを忘れないでいれば、次に誰かに会ったとき少しはマシになる。大事なのは、悔いただけで終わりにしてしまわないことだ。 相談しているうちに、頼りに思う気持ちが、当初は尊敬と友情でできていたものがほかの成分になったのは自然な心の動きだった。熊谷も探索者だった恋人との価値観の違いに悩んでいた。まず既成事実が作られ、熊谷は当時の恋人との関係に結論をつけようと決心した。その恋人も親しくしていたグループの一員であり、桂と熊谷の関係はその交友関係をを危うくすることをわかってはいたが、自分の感情を素直に認める強さを身につけつつあった。 そしてその恋人は死んだ。第三層で怪物に不意をうたれ、頭から高温の硫化水素ガスを浴びたのだそうだ。熊谷が別れ話を切り出した前なのか、後なのか、それは問題ではない。敏い女のこと、相当程度に感づいていたことは想像に難くなかった。桂はふたたび裏切った相手を失ったのだった。 二人を失ったその部隊は、さらに二人が迷宮街を去ることをその晩に決めたことで解散となった。そして突如として異動ラッシュが巻き起こった。極めて高い能力の戦士だった越谷健二(こしがや けんじ)と治療術師の湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)を、第三層に到達していた九部隊すべてがスカウトしたのだ(二人がタカ派でもハト派でもなかったことも騒ぎを大きくする一因となった)。加えて彼らの部隊ですら不意をうたれれば壊滅するという事実が、複数の有力な探索者に引退(もしくは第三層からの撤退)を決意させていた。数週間にわたって全般的な部隊の再編成が行われ、死体買取量の激減に担当者が悲鳴をあげた頃、第三層に挑む精鋭部隊は五つになっていた。そしてその中に熊谷繁実の名前はなかった。迷宮街からも去っていた。 「えらそうなことを言う割には度胸がなくて、冷たいことを言う割には実行できない、やさしいだけが取り柄の人よ」 ひどいな、と背中が苦笑する。でも好きなんですね。その言葉にしっかりとうなずいた。その視界の端に一つの人影が映った。いつもなら自分を見かけると走りよってくるその小柄な身体は柄にもない逡巡を見せていた。くすくすと笑う。 「人を好きになるってのは大事なことよ、今泉くん。そして、好きになった相手にはぶつかってみるのも大事なことよ」 両手でそっと頭をはさみ、人影のほうに向ける。自分と同じ物を見てその身体がこわばった。やさしく添えられた両手から逃れようとする動きはその人物の視線を意識してに違いない。 「これが最後の授業かしらね。——愛していること、愛されていることをわかる男になりなさい。素敵な女性には思い切り愛情を注ぎなさい。そうすれば、その愛情の分だけあなたを成長させてくれるから。そして、自分の好きな人たちには限りなくやさしく、それ以外には限りなく冷酷になれる一人前の大人になりなさい。——ほら! イーゼルは私が片付けてモルグに届けておくから!」 振り向いて見上げる瞳は混乱していた。揺れる不安と迷いの色。教師はそれに気づかぬように、生徒の背中を強く叩いた。濁りが消え、年齢にふさわしい希望と挑戦の覇気がきらめくと、彼は立ち上がり小走りに走り出した。こちらを見て立ち尽くすだけだった鈴木秀美(すずき ひでみ)の姿がうろたえたように揺れる。 浮き立つ思いで見送り、その場に取り残された画材たちを眺めた。ずっと離れていたベンジンの香りが懐かしさを呼び覚ます。 「今泉くん! これ借りて絵を描いていい?」 少年は立ち止まった。いい笑顔だった。 「描いた絵をもらえるなら! ありがとうございました先生! お幸せに!」   鈴木秀美の電子メール ユッコにアキ、元気ですか。私は史上初、全米大絶賛、六週連続興行収入第一位くらいでハッピーです。 詳しいことはまたメールするね。   真壁啓一の日記 十二月十八日 今日が第二層最後の日。バンドマン二人が決心して次回からは第三層に潜ることにする。今回は第二層で数回戦闘してある程度の収入を確保してからエディの訓練場に向かった。俺たち前衛の訓練ではなく、後衛の三人が少しでもスピードに慣れるのが目的だった。第三層ではまだエディより素早い怪物は出ないということなので、もちろん倒せるはずはないけど、エディの攻撃をかわすことで後衛三人の対応できる速度域を少しでも引き上げるのが目的だった。 第二層でもカンフーなどは平気で後衛の人間に殴りかかったりしてくるから回避の動きはきちんとできているようだった。それでも俺たちと違うのは、マチ針とはいえ刃物が怖いのだろう。ツナギ生地も俺たちのように分厚くない(葵のツナギに至っては分厚いカーテン生地と同じようなものだ)し、どれくらいの刃物だったらツナギに任せられるかという感覚もないのだった。それにしても、いつも涼しい顔をしている葵が悲鳴をあげながら逃げ回る姿は面白い。 後衛三人が足腰立たなくなった時点で訓練は終了。エディは結構金になるということがわかった。このことが知れ渡ればさらにエディの訓練場が込み合ってしまう。そういう意味で、第一層に潜るだけでは満足な稼ぎにはならない価格体系にした方が俺たちにとっては都合がいいのじゃないかと思う。 翠は立ち直ったみたいだ。やっぱり芯は強いんだな。   落合・神野由加里のアパート 二三時一六分 入力することでその日記を読むことができるパスワードは自分たちのプライベートな数字だったから、現在の読者は自分一人だけだと確信できた。真壁啓一(まかべ けいいち)がこれを書き始めた当初、神野由加里(じんの ゆかり)にとってその日記を読むことは心苦しい行為だった。恋人の生存を知りたいという欲求、その恋人にはっきりした態度を示せない自分に対する苛立ち、そして、楽しげに描かれる京都での生活を行間から想像して憎らしく悲しく思ったものだ。それも昔の話だ。今では暖かい気持ちしか起こらない。 「あれ?」 マグカップを置いて最後の文章を読む。そして数日前まで日記をさかのぼった。 恋人の仲間である笠置町翠(かさぎまち みどり)とは面識があった。自分とは違うタイプのすがすがしい、やさしい、魅力的な女の子だった。その子がなぜか深く落ち込んで恋人が立ち直らせた話は読んでいるし聞いていた。それですっかり回復したのだと思っていた。だがここでまた立ち直ったという文章が出るからには、結構長いあいだ落ち込んでいたのだ。 電話しようか。携帯電話を取り上げた。たった一日だけの面識しかない相手だったが、由加里は彼女を好きになっていた。所詮男である恋人ではどうにもできないことでも、顔を合わせる恐れのない同性である自分になら言えるかもしれない・・・。 いや、やめておこう。自分のあずかり知らないところで「落ち込んだ」と書かれているなんて、誰だっていい気分はしないはずだ。 立ち上がってカーテンを開けた。昼間は雲ひとつなかったのに、すっかり星は見えなくなっていた。明日は雨だろうか? 雨だったら図書館に行かずに家で卒論を書こうかな。 普段どおりに恋人の無事を、そして今夜はその仲間の心の安寧も一緒に祈ってカーテンを閉めた。 十二月十九日(金) 大迷宮・第二層 九時一二分 「お宝とりまーす!」 いつもはつまらなそうにしている娘の元気な声に、恩田信吾(おんだ しんご)は何かいいことがあったのだろうと嬉しく思った。罠解除師の鈴木秀美(すずき ひでみ)は見かけにも年齢にもよらず豪胆な娘で、それは仲間として頼もしいことではあったが、せっかく愛らしい外見、挙措をそなえているのだから地下に華を咲かせてくれてもいいじゃないかと常々思っていたから。治療術師の今泉博(いまいずみ ひろし)が彼女の後ろに立って、肩に手を置いた。心身の調子を整える技術をよくする治療術師は、罠解除師の感覚を高めることで化け物がのこした罠の解除を補助することができる。 「怪我した奴は?」 誰もいない、という返事にうなずいた。上出来だった。初めての第二層挑戦だったのだから。敵は第一層に出てくる骸骨と同じように、人間型生物の死体が迷宮内のエネルギーに操られ動いているものだった。迷宮街ではバタリアンと呼ばれている。恩田の知らない昔のホラー映画の化け物の名前らしい。 いい調子だな、と戦士の一人西野太一(にしの たいち)が話しかけてきた。恩田は笑顔とともにうなずいた。 自分は不運を撒き散らす星の下に生まれついたのではないか、と恩田はおそれていた。彼の迷宮街でのスタートは第二期の中では遅いものではない。二日目にテストをパスして、第二期の第一陣として初陣を経験した。そこで部隊が壊滅した。小寺雄一(こでら ゆういち)、吉田さつき(よしだ さつき)という二人の仲間を失い、小俣直人(おまた なおと)と大沢真琴(おおさわ まこと)という仲間を駅ホームで見送った苦い記憶がある。その後仲間を募りながら代打の戦士として二つの部隊で剣の腕を磨いていた。菱沼洋平(ひしぬま ようへい)が率いるものと高坂新太郎(こうさか しんたろう)が率いるものだった。菱沼の部隊は恩田が参加した次の探索で、そして高坂の部隊もまさに昨日壊滅し誰一人戻るものはない。四部隊二〇人と関わって三部隊一二人が既にこの世にいない——地上で笑い交わす誰よりもそばに死神を感じる。 大丈夫だ。 この部隊は大丈夫だ。自分も含め逸材とはいえない(たとえばチーム笠置町とは比較にもならない)メンバーだったが、地下に下りたときになぜだか安心感が包んだのだ。絶対的強者に守られているような感覚が。そのためか、各人のびのびと実力を発揮できているようだった。そして慎重にことを進める限り、実力を発揮できればそれで十分なのだった。 この安心感はなんだろう? とたまに思う。代打で一度加わってもらった児島貴(こじま たかし)によれば、彼らの部隊でもそんな安心感があるのだという。確かにその部隊には笠置町姉妹という天才たちがいるから納得できるのだが・・・。 「恩田さん」 鈴木の声が思考をさえぎった。その声はかすかに緊張していた。 「開放性の罠です。おそらく、失敗したら全員もれなくエーテルで殴られます。解除できるとは思いますがどうします?」 「自信は?」 怪物の死体は切り取ってある。だから見捨ててもかまわない。けれども、迷宮内で手に入る石を活用することで武器防具を強化できることがわかっているからできる限りお宝は手に入れておきたいところだった。 鈴木は膝をつく自分の背後に立つ同い年の男を見上げた。今泉の顔は信頼に満ちている。それが娘の顔から逡巡を拭い去った。 「やります。全員、対ショック姿勢を」 両手をひらひらと動かす。戦士の素質しかなかった恩田にはわからないが、その指先は治療術師や魔法使いと同じようにエネルギーを操作しているのだそうだ。相変わらず器用だなあ、と魔法使いの八束忍(やつか しのぶ)が感心したようにつぶやいた。その直後だった。 「あ、ああっ! 対ショック!」 その叫びに恩田をはじめ全員が両腕を顔の前で交差させて備えた。全員心構えがあるし水ばんそうこうも沢山持ってきている。最悪の事態はないだろうと思いながら。 予想された痛みがいつまでたっても来なかった。視界がだんだんと情報を取り入れようとし——そして愕然と周囲を見回した。あわててヘッドランプの明かりをつける。浮かび上がった小野寺正(おのでら ただし)の眩しそうな顔。しかし恩だの視線はその背後に縫いつけられていた。 第二層の壁面は溶岩を思わせるごつごつしたものだったはずだ。だが、これは——たとえば秋吉台の鍾乳洞のように、水で磨かれた石灰岩を思わせる。 「全員いますか? 番号」 五、と八束の声を聞いてひとまず安堵する。そして彼に現在地を調べるように命じた。魔法使いには自分の現在地を調べる方法がある。それと配布されている地図をあわせれば、いつでも帰り方を知ることができるのだった。 「そ、そうだな」 慌てたような返事は彼も呆然としていたことを示していた。こんな壁面は見たことがなかったし、さらに、ここには電気設備が設置されていなかった。各人のヘッドライトを除けば、うっすらと横穴から漏れてくる明かりでぼんやりとお互いのシルエットがわかる程度だった。 「第四層だ」 その言葉にしんと静まり返る。 「それも、未到達地区だ」 それは予想通りの、最悪の返答だった。 「鈴木さん、自分を責めるな。運不運はつきものだからな」 やっとの思いでそれだけを言った。電気設備がない、ということは電話線も通っていないということ。今日はじめて第二層に挑んだ部隊が第四層から自力で帰還することは絶望的に思えた。すぐ隣りに死神を感じる。   迷宮街・小林桂のアパート 九時三〇分 カーテンを開けようと立ち上がった足腰がふらつく。今日は本格的に荷造りをする日ということで、昨夜の酒はほどほどにするつもりだった。北酒場で非探索者の友人たちが開いてくれた送別会においてもそれはしっかりと守られた。その後「すこし話しましょうよ!」ということでコンビニ勤務の織田彩(おりた あや)と買取担当の技術者の三峰えりか(みつみね えりか)とを家に(小林は他の住人のように2LDKをシェアせず、二部屋をすべて一人で占拠していた)招いたことがそもそもの過ちだったのだろうか? それともバーテンからのプレゼントと言いながらズブロッカを取り出した織田を責めていいのだろうか? わかることは現在はもう九時半であり、当初の予定では本と雑誌は全て梱包が終わっているはずの時間だったということだ。梱包どころか大量のファッション誌が二つの死体とともに散らばっていた。一冊を取り上げる。二〇〇二年という日付をみてぎょっとした。その日付にあたる雑誌類は既に梱包できていたはずではなかったか? おそるおそる寝室として使っていた部屋に行くと、すでに作られていた二つのダンボール箱が開け放たれ、雑誌とビニールひもが部屋中にちらばっていた。へたりこみたくなった。起きろと二つの死体に声をかけてから顔を洗おうと洗面所に向かう。部屋の方で盛大なくしゃみの音がした。 「あー!」 織田の声が寝室の方から聞こえる。顔にタオルを押し当てながら何事かと訊いてみた。 「この絵、いいですね! 小林さんが描いたんですか?」 ああ、と納得する。昨日、もと教え子の画材を借りて描いたものだった。ポプラ並木の向こうには建物の群れ、自分が住むアパートもある。そして背後にそびえる比叡山。昨日だけではいまひとつ納得できず、今日完成させてから彼にあげようと思っていた。絵のたしなみがある自分でも出来がいいと思えるものだったから、素人の彼女の目には立派に映るのだろう。 まだ未完成だけどね、そう答えると私にくださいと即座に返ってきた。うーん、と悩む。明るくてやさしいこの年下の娘にはずっと親しくしてもらい、彼女が心に傷を負ったあとも何くれとなく気を使ってもらっていた。迷宮街を去る直前にしてようやく思い出せた、この街に対する暖かい想い。それをうまく表現できたこの絵はどちらかといえばこの娘にこそもらって欲しい気持ちはあった。しかし約束は約束だ。事情を話して断ると、仕方ないですねと笑った。 「まあその代わりにさ、今日一日荷造りを手伝ってくれていいよ。まずはその散らばってる雑誌とか」 女子大生はきょとんとして、吹き出した。 「代わりにて。それ日本語ですか? でもお手伝いします」 東北に嫁に行く女と京都で大学に通う女、普通に考えれば今後会うことはほとんどないだろう。一緒にいられる時間は一秒でも貴重だった。 大迷宮・第四層 九時三二分 ・・・保持したはずの岩が根元から外れた。バランスを取り戻そうと伸ばした腕が、逆に距離感を失って壁面を押してしまう。自分は落下するのだ、と西野太一(にしの たいち)は落ち着いて考えた。墜落の浮遊感は何度経験してもいい気分のものじゃない。自分の身体をささえるザイルが伸びきり、壁の金具を支点にして止まる瞬間の衝撃を思って覚悟を決めた。金具が折れた。 ——墜落する? やたらとゆっくりと動く世界、その中で金具の円環の部分だけが通常の重力をもって自分に向かってくるような気がした。ついに自分にも訪れることになった死を、その金具が連れてくるような気がした。 身体が強く殴られた。落下方向が修正され、腰骨が壁面の突起にあたったことを感じた。無意識に両手両足が動き、その突起をホールドする。そのまま突起の上に這い上がる。先ほど小休止に使ったそこは、三人が座れるだけのスペースがあった。 途端に身体が震えた。すでに腰の下には平たい岩があったのだが、それでも両手両足が取っ掛かりをもとめてさまよった。 「タバコ吸えーっ!」 誰かの声が西野の心を支配する。呆然としながらジャケットのポケットを探り、タバコと携帯灰皿を取り出した。なんとか火をつけて大きく吸い込む。震えが嘘のように引いていった。そして、入れ替わりにもう一度、今度は小刻みな震えが全身を襲った。西野にはわかった。先ほどの震えは事態が理解できない混乱によるもの。今度は死の恐怖によるもの。先ほどは逃げるためのもの。今度は生きるためのもの。 生きている。まだ生きられる。西野は上の仲間たちを見上げて大丈夫だと怒鳴った・・・。 我に返った。昔のことを思い出してしまったようだ。ロッククライミングをはじめた最初の頃のできごと。落下しかけた身体を殴って軌道を変えてくれた先輩、とっさに岩盤をキープできた幸運、タバコを吸わせることで混乱から回復させてくれた仲間、一つ欠けても命がなかったその状況をくぐってきたことで、西野は不可避な死などないことを知った。死は向こうからやってくるのではなく、あきらめた人間が作り出すのだと。 ここは、と状況を再確認する。ここは迷宮の第四層。強制移動させる罠(第二層では初めての例だった)のために第二層から飛ばされてきたのだ。そこで円陣をつくり相談している最中だった。西野は面々の顔を眺め回した。恩田信吾(おんだ しんご)は途方にくれ、小野寺正(おのでら ただし)と八束忍(やつか しのぶ)は同じ方向をにらんでいた。そこには涙で目を真っ赤にしながらそれでも顔を覆わずうつむいている鈴木秀美(すずき ひでみ)とそのそばに寄り添っている今泉博(いまいずみ ひろし)がいる。とりあえずは、と泣いている娘をにらんでいる男たちの頭を殴りつけた。 「これから厳しくなるってのになーに秀美ちゃんいじめてんだお前らは」 でもこんなことになったのは、と反論する小野寺の襟首をつかみ、引き寄せる。 「こんなこと? どんなことだ。まだ誰も怪我してないし、魔法使いたちもほとんど余力を残してる。最悪には程遠いだろ」 何か、いい考えでも? 恩田の質問に対し西野はツナギのポケットから地図を取り出した。現在解明されている第一層から第四層までを綴じたものだ。八束忍に現在地を指し示させた。 「まあ可能性にしか過ぎないけど——あそこ見ろ」 ヘッドライトを向けた先は天井の一角だった。かろうじて光を反射する洞窟の上壁が、そこだけうがたれているようだった。光が届いていないようにも見える。 「あれが何か?」 落ち着いている今泉の声。大したものだと見直した。 「第一層の濃霧地帯の奥にあったでっかい穴を覚えているか? 垂直だから下に降りられず、放置してある奴だ」 ずっと第一層を探索していた者たちである。みな頷いた。 「いまあそこに見える天井の穴、あれは第一層の穴と同じ位置なんじゃないか? 八束」 魔法使いはしばらく考えて、そうかもしれませんとうなずいた。 「西野さん、まさか——」 恩田にうなずいてみせる。 「第一層の穴は確実に第二層まで続いている。あれは確実に第三層から降りてきている。だったら、第一層から第四層までぶちぬきのたて穴である可能性は低くないと思う——あそこを登ってみたい」 皆は戸惑ったように顔を見あわせた。そうはいっても、垂直の壁を登るなんて出来そうにないと今泉が代表する。 「俺ならできる。命綱はないが、これだけゴツゴツした壁面なら必要ない。でもお前たちじゃムリだろう。なんといっても真城雪や笠置町翠でも初挑戦じゃ失敗するんだからな。だから、俺だけ地上に出て救援を呼びたい」 皆がじっと自分の顔を見る。その顔にはもう恐怖はあっても混乱はない。 「地上に出て、長い縄梯子と金具を用意する。金具を第一層に固定してそこから縄梯子を垂らす。第一層までせいぜい三〇メートル程度だ。準備を整えるのにも時間はかからない。俺がこの壁を攀じ登るのに一時間、濃霧地帯を越えて地上に出るのに一時間、準備で一時間、穴のふちまでたどり着くのに一時間だ。四時間、身を潜めて待っていてほしい。——できるか」 全員の視線が恩田に集まった。恩田はじっと西野の目を見てからうなずいた。お願いします西野さん、と。そこで小野寺が声をあげた。 「でも、濃霧地帯から地上まで確実に化け物に出会うでしょう」 「駆け抜ける」 西野の言葉は短く断固としていた。黙り込んだ小野寺の代わりにあの、と小さな声がした。鈴木だった。 「私も行かせてください」 驚く今泉の、全員の顔。それらを見ながら西野はこの娘が壁面にとりついている様子を頭に思い描いた。なぜだかそこに失敗のイメージは描かれなかった。困惑して恩田の顔を見る。恩田も同じ表情で自分を見つめていた。 「・・・自信があるの?」 おそるおそる、という八束の声。無条件に否定するわけでもない。そうか、と西野は理解した。仲間たちはみな、自分がそうであるように、この娘に対して得体の知れない何かを感じ取っていたのだ。だからその申し出を問題外と却下できない。 「あります」 頼もう、と恩田が言った。今泉が心配そうな顔で鈴木の横顔を見つめている。今年まだ一八才、西野と同じ干支の娘は青白い真剣な顔で迷宮の上壁を見つめていた。   迷宮街・出入り口詰め所 一〇時一二分 初日に挨拶した若い娘が謝りながら飛び込んできた。そして自分の姿を見て立ちすくんだ。確か三峰えりか(みつみね えりか)という名前だったはずだ。社内名簿のファイルによれば二五才、神戸の大学院を卒業してすぐ技術者として入社し、昨年の探索開始からここに勤めている。事務の木島の意見を信じるならば、技術的な問題に関して一番発言力があるのはこの娘なのだそうだ。だったら、と思う。それが事実なら相応のポジションと報酬を用意するべきなのだが——まだまだ旧態依然としたところのある会社、さらに前任者はそのあたりでドラスティックな対応をとっていなかったらしく、若い技術者は自分の価値も知らずに直立不動でかしこまっていた。後藤は苦笑して、お茶を飲んでいるだけだから気にしないでと断り朝の挨拶をした。三峰はそれで安心したように迷宮に潜る探索者たちが集まる大部屋に出て行った。ふーん、と見直す。自分に遅刻を見られてその前にかしこまってみせても、それは社内の階級に従っただけのことのようだ。個人としては自分を(その顔も)なんら恐れてはいないのだ。図太いのか、仕事に自信があるのか。後者だろう——脳裏のコルクボードに『三峰えりかに能力相応の処遇を』と書いた紙を貼り止めた。 ここは迷宮街の北端にある迷宮への入り口だった。入り口をすっぽり囲うように分厚いコンクリートの壁がめぐらされ、それに付随する形で陸上自衛隊の警備室と探索者用のシャワー室(あくまで返り血を流すためだけのもので、ここで普段着に着替えることは許されていなかった)、各金融機関のATMが集められた一室、探索者が集合するための大部屋、そして自分の商社の計量室がしつらえられていた。探索者たちは地上に上がるとここで怪物の死体を収めた容器(その形状からシェーカーと呼ばれていた)を買取りの技術者に預け、計量作業中に身体の汚れを落とすのだった。 もう一〇時半になろうとしている時刻だったが、大広間ではまだ数部隊がミーティングをしていた。するするとそこを通り抜ける三峰にいくつもの挨拶の声があがる。小柄な身体を白衣に包み、ショートカットにメガネで穏やかな微笑という彼女は探索者たちからある程度の人気を得ているらしい。 彼女は真剣な表情でホワイトボードの本日の探索者の名前をメモしていた。軽量室に戻ってきた彼女に「何のために」「何を」メモしたのか訊いてみた。 「抽出した成分も、保存方法次第で劣化してしまうんです。地下にあるあいだは不思議と純度が高いんですけど、それ以降はマイナス五度〜一〇度がベストとか、逆に二五度〜三〇度だと劣化が遅いとか色々ありまして。で、どの部隊がどれだけ潜っているかによって今日持ち込まれる成分量を想像しておいてある程度の保存方針を決めておかないと、価値のある成分に適した保存場所を割り当てられなくなっちゃいますからね」 なるほど、とうなずいた。他の技術者がそれをしないのは、おそらく彼らには部隊ごとの進度が頭に入っていないからだろう。目の前の娘は仕事を安心して任せられるほど利発で、なにより探索者の情報も期待できるということがわかった。たとえば今日はどんな感じ? と話の流れで聞いてみたら、今日は暇ですよとの返事だった。第一期の探索者で今日が潜るローテーションになっている部隊のうち有力ないくつかが、何でもあるアルバイトの送別会に出席するとかで、今日は第二〜第三層程度で切り上げるのだそうだ。今日は楽だから遅刻したってのはアリですか? との問いに苦笑した。娘はぺろりと舌を出すと、白衣を翻して立ち去った。 アリもなにも、すぐに遅刻ごとき気に病まないような位置についてもらう。心の中でつぶやいた。   大迷宮・第三層縦穴 一〇時二七分 予想通りに常識を破られた。壁面への体重の預け方、突起のつかみ方、足のかけ方、鈴木秀美(すずき ひでみ)にはそれだけを手短に教えて登らせてみたら自分でも舌をまく安定で登っていった。あわてて後を追う。経験と手足の長さの違いで簡単に追いついたものの、これなら自分の登攀に専念できるようだった。先行は西野である程度壁面の状態をつかみ、鈴木が手がかり足がかりの選択に迷ったらアドバイスをする。登り始めて二〇分、すでに七メートルの高度を稼いでいた。もうじき第三層にはいる。恐れていた第三層の天井は、同じように大穴となって第二層とつながっていた。第一層から四層までをつらぬくたて穴ではないのか、という期待は当たったわけだ。 ここから地上に助けの電話をかけるという選択肢もあったが、それをするにせよせめて第二層まで登るのが現実的だった。第三層ではこの大穴の位置は地図に記載されていない未到達地区に分類されていたから、電話の設置されているところにたどり着くまでに数度の遭遇を覚悟しなければならなかったから。 「君はいったいどういう人間なんだ?」 理不尽な日本語だったが、それが自分たちの思いを正直に代弁する言葉だった。比較対象を第二期に絞ったとしても、もっとも実力ある罠解除師と呼ばれている大田憲(おおた けん)ですら、これまでに幾度も解除を失敗している。目の前の娘は本人がそれを吹聴しないものの、これまでたった一度しか失敗したことがなかった。その失敗すら第二層では強制移動の罠はないという先入観さえなければ起きなかったのではないだろうか。どんな状況でも一〇〇%という数字は異常だが、何事も極限下で起きるこの街ではそれはさらに珍しいことだった。 鈴木の顔にはもう自責の念は消えていた。若いからか明るい性格か、希望があってそれに対して努力している実感があれば強くいられる娘だった。私は、と言葉を選んだ。私は笠置町さんと同じような境遇なんです。 事業団理事の双子の娘である笠置町翠(かさぎまち みどり)と葵(あおい)とは西野も親しくしていた。第二期の探索者でありながら迷宮街すべてで考えても屈指の剣士と魔法使いのペアは、他の探索者と違いその能力を地下で高めたものではなかった。事業団理事夫婦に幼少の頃から鍛え上げられたのだという。超常の力を代々伝えていく家系——漫画の世界でもなければ存在が許されないそれを目の前に見たとき、その能力以外はあくまで普通の娘だった安堵感も手伝って西野は納得し、そして思ったのだ。他にもこういう男女がいるのだろうなと。何の事はない。それは自分の部隊にいたわけだ。 「翠さんは脇差での剣術と魔法を習ってますけど、私は小太刀と手裏剣術です。あとは、より重要科目として体術と径脈の知識」 よくわからないが、簡単に重要科目と表現した体術のレベルはこの登攀力を見ても想像がついた。壁面は少し斜めになり、壁に体重を預けられるようになっている。足を止めて上空を見上げた。ヘッドライトの届く限りでは、オーバーハングはないようだった。これなら想像よりも早く第一層に到着できるはずだ。 大迷宮・第四層 一〇時三三分 迷宮内部で一言に怪物といっても三種類がいる。一つが知能のない、野獣と同じく餌をもとめて徘徊する「化け物」という言葉が似合うものたち。二つ目は二足歩行をして道具を使うものたちで、これはある種の文化社会を地下に築いているようだった。そして三つ目は最初の種類と同じものだが、二足歩行のものたちに家畜あるいは護衛獣として飼いならされている化け物たちだった。完全武装して地下を徘徊する二足歩行の化け物たちは、何も自分たち探索者を迎撃しているのではないのだ。彼らも生活があり、それはおそらく狩猟によって成り立っており、食肉調達あるいは使役のための獣を求めて迷宮を歩いている。当然第一と第二の集団が出会えば戦闘にもなる。野生の緑竜が尼さんと呼ばれる治療術師の群れを硫化水素の息で蒸し殺す姿を彼らは目撃した。硫化水素は空気よりも重い。漂ってきたガスが拡散するまで必死になって息を止めた。 隅の暗がりに隠蔽用として販売されている暗緑色のビニールをかぶって横たわり、行過ぎる化け物たちの足音を聞きながら一時間が経過した。その間で三つの種類のうちあとの二つには見つからないということがわかった。二足歩行の種は——人間がそうであるように——野生の感覚能力を大きく失っており、彼らだけの集団ではまったく気づかなかった。彼らに飼いならされた化け物はさすがに異変を察知するようだったが、何も気づかない飼い主に叱られて過ぎ去っていった。——このまま、野生の群れに出会わなければ。 この層ではかなり地下社会の狩人たちが歩き回っている。野生の群れが出会う可能性は上層よりもはるかに少なかった。皮肉なことに、階層の低さが彼らを救いつつあった。 かさり。 それは乾いたブラシで机をこするような音だった。すぐにかさかさと大量になって迷宮を向かってくる。こちらに。 野生の群れか? 気づかれたか? しかしここで慌てて動き出して、実際は気づかれていないということになったら——。逡巡は唐突に破られた。跳躍した何かが恩田のかぶったビニールの上に飛び乗ったのだ。絶対に気づいている。恩田はビニールを跳ね除けつつ鉄剣を振り下ろした。それはサッカーボールくらいの大きさの生物で、ふさふさした毛に包まれた胴体からは、同じく毛ガニを思わせる毛で埋め尽くされた肢が八本伸び、不気味な複眼がきらめいた。恩田の剣に右側の四本の足を叩き落されたそれはしばし肢をばたつかせてから動きを止めた。サイズをのぞけばそれはアマゾンを取材したテレビで出てくる毒蜘蛛にそっくりだった。 今泉の治療術によって彼らは視覚情報を瞬時に知識に結びつけることができるようになっている。一瞬にしてその怪物のファイルを思い出した。正式名をヒュージスパイダー、通称をタランチュラ。大量に現れ、仲間を呼び、毒気を注ぎ込んでくる危険な化け物。それが視界には五匹いた。 「八束さん! 焼け!」 恩田の言葉が終わるよりも早く、タランチュラすべてを飲み込む炎が巻き起こった。八束忍(やつか しのぶ)が使える最高の攻撃魔法で、火の海を発生させることができる。火の海のふちはぎりぎりで自分たちに害を与えない。 炎が消えた。火の海の中心地あたりに黒ずんだ死体がいくつかある。動かないようだったが、念のために恩田と小野寺が死体をすべて破壊した。 「少し場所を移動しましょう——用を足すなら今のうちですよ。あと三時間以上は粘らないと」   迷宮街・小林桂のアパート 十一時五分 こんなものかな! と両手を一つ打ち、小林桂(こばやし かつら)は晴れ晴れとした思いで段ボールの山を眺めた。バッグに詰める生活用品、布団を除いたほとんどがそこには収められていた。この街のアパートは家具類がすべて据付になっていたから、引っ越すといっても衣類と本やCD、食器類だけなのだ。イーゼルにかぶせられた新聞紙を取り払った。その下からは昨日描いた風景画が顔をのぞかせた。じっと眺める。 「もらってきましたよー!」 がちゃりとドアが開き、織田彩(おりた あや)が部屋に入ってくる。北酒場に前日のうちに頼んでおいたお昼の弁当を受け取ってきたのだった。手近なダンボール箱を寄せ集め食事が始まった。すごい量だねと驚くと、サービスらしいですと笑顔が返ってきた。 ねえ彩ちゃん、と小林はあらたまった声を出した。この絵、やっぱりあなたがもらってよ。今泉くんには事情を話すから。 でも、と遠慮しようとした娘はすぐに思い直したようにうなずいた。そしてじんわりと涙ぐんだ。 「そんな一生の別れみたいなこと言わないでくださいよ」 一生の別れじゃないの、と桂は笑った。だって彩ちゃんにとっては東北ってビザが必要なんでしょ? この数日、こう言ってさんざんにからかわれたのだ。 「密入国でも行きますよ。だから小林さんも雪だるま送ってください。でっかいの」 それは溶けるなあ、と小林は苦笑した。鼻の奥がつーんとし、視界がにじんだ。   大迷宮・第一層縦穴 十一時八分 「第一層だ!」 西野太一(にしの たいち)の言葉を聞き、鈴木秀美(すずき ひでみ)は壁面から身体を引き剥がした。ねじって背後を眺めると、確かにぶあつい岩盤の向こうに何度も見た濃霧地帯の白いもやが漂っていた。一一時八分、とつぶやく西野の顔を眺めた。ヘッドライトに照らされたその顔はさすがに消耗しきっていた。鈴木ですらかすかに疲労を感じさせた登攀は、趣味として日々いそしんでいる者にも過酷だったと見える。その顔に、ふっと父の言葉を思い出した。 市役所勤務の平凡な公務員だった父は、ただ一つ毎晩娘に格闘の技術を教え込むという一点で他の父親とは違っていた。それは決して鬼気迫るものではなく、遊びもご褒美も混ぜたものだったから娘は屈託なく受け入れいていた。弊害が一つあったとすれば、その強力な行動力と生命力からどうしても周囲を軽く見てしまうようになったということ。しかし父親はあえて若竹を矯めようとは思わず成長するに任せていた。時期を待ったのだろう。 そして、新聞の一面に載った「迷宮探索の第二期募集決定」という記事を(当然テレビらん以外のページは読まなかったから)気づかずに遊び暮らしていた娘に父親はこともなげに言った。学校は来週で終わりにするように、お前は京都に行くのだと。 はあ? 何言ってんの? 反射的に聞き返しそれが父親への口の聞き方かとゲンコで殴られて落ち着いてから、反論を開始した。せっかく三年間学校に通って、春からはキャンパスライフが始まるってのになんでここで学校を辞めなきゃいけないんだ。私は女子大生になりたいんだ。そう言ったら行けばいいだろう、大学に行くのに高校は必要ないと大検の過去問題を渡された。とりあえずめくってみると、特に問題はない。作戦を変えることにした。沢山ひとが死んでいるところに娘を送り出すなんてそれでも人の親か、私にもしものことがあったらどうするつもりだ。それに対してもそんなやわな鍛え方はしていないの一言で納得してしまった。 お前は、と父は真剣な表情で言った。 お前は、他人を畏れる心を知った方がいい。本当に誰かをすごいと思ったらいつでも帰って来い。そう言われた。さらなる反論をあきらめたのは、その父親の言葉だった。修行の日々で少しだけ強い絆を築いている娘にはわかったのだ。父がその目をする時は従った方がいいのだと。万事自分のためを思ってくれているときの目だと。信じて行ってみよう、と覚悟を決めた。多分自分には何か足りないのだ。 迷宮街での暮らしは予想と反して楽しいものだった。素養としては基本四職業全てに適性を認められたが父からは戦士もしくは罠解除師にせよと言われている。前衛で剣を振るうのは面倒だったので罠解除師を選んだ。 父の言葉に反して、すごいと思える人間はたくさんいた。それはこれまでもそうだった。親戚の家の近くにあるパン屋さん(オリンピック選手らしい!)のパンにもすごいと思うし、両親、とくに母親はすごいと思う。この街でも部屋をシェアしている女性やその仲間たちは強く魅力的でああなりたい、と思う。父はどれだけの想いを感じたら帰って来いと言っているのだろう?  そのときが来れば、多分それとわかるのだろう。なんといっても自分の心なのだから。そう結論付けて楽しい日々を送っていた。 ふっと意識を現実に戻した。脳裏に警報が鳴ったからだ。意識を集中する。 (西野さん) 小声に、西野が振り向いた。探索者相互で流通している手の合図を送る。すぐそこ、敵数匹。その合図だった。西野は表情をあらため、壁に張り付いた。そのままじり、じりと横移動を行う。第一層と第二層を隔てる岩盤にまで移動した。あと一メートル登れば濃霧地帯に入ることが出来る。駆ければ二〇分で地上に到達できた。敵さえいなければ。 (いなくなる気配は?) 鈴木は首を振った。向こうも違和感に気づいて警戒している。一分その場にとどまって、西野が意を決したように鈴木を見つめた。飛び込もう。そう言っている。鈴木はしっかりとうなずいた。 西野はその強力な背筋力で、鈴木は身の軽さで、それぞれ同時に濃霧の中に飛び込んだ。その勢いにかき混ぜられた空気があたりのもやを晴らす。そして青鬼がいた。鈴木に近く、二匹。西野のほうには三匹。臨戦体制だったらしく、即座に切りかかってきた。その二匹同時に動きが止まった。どうと横倒れになるその額には五寸釘が根元まで埋まっている。間髪いれずに身を翻した視界に三匹からそれぞれ斬撃を受ける西野が映った。真っ赤な血が吹き上がった。 頭に血が上り、無我夢中で両手を振り上げた。こちらに向ける後頭部、頭蓋の付け根にそれぞれ五寸釘が突き立つ。異変を察知した最後の一匹が殺戮者を振り返る。その胸からナイフの刀身が生えた。引き抜かれると青鬼が倒れた。 「西野さん!」 悲鳴をあげ、ポケットから水ばんそうこうを取り出して駆け寄る。西野は歩きながら胸元をひろげ、血が流れだす傷口に自分の水ばんそうこうを振りかけた。 「西野さん座って! きちんと止血——」言葉は西野の形相に飲み込まれた。水ばんそうこうをひったくると乱暴に身体にふりかけ、歩調はまったく緩めずに濃霧の中を歩いていく。本当に怪我人なのか? 小走りにならないと追いつけない。   大迷宮・第四層 十一時一〇分 奇妙に聞こえるかもしれないが、連戦連勝とは強さを意味しない。もちろんほとんどの場合それを成し遂げるには秀でた能力が必要だったが、あるいは強運によって対戦相手に恵まれただけ、ということも考えられるからには強さを保証してはくれないのだ。本当の強さは負けてなお立ち上がるその時に見られる。困難を受け止めること、被害を最小に抑えること、次からは未然に防ぐこと。それこそが強さなのだった。 迷宮街の探索者はほぼ例外なく第一層で毒気の洗礼を受けていた。新参の罠解除師ではすべてを無事に解除することは不可能だったし、第一層の罠の大半は毒気だったからだ。そのことによって探索者は毒気に冒された場合の判別法、対応法その他を学んで克服していく。そうして、化け物が毒気を使うようになる第二層に降り立つ頃にはある程度の心構えができているのが常だった。 連戦連勝は強さを意味しない。鈴木秀美(すずき ひでみ)という際立った罠解除師が第一層の罠をすべて危なげなく解除した華々しい事績は、その仲間たちから毒気に対する対処法を学ぶ機会を奪い去った。 恩田信吾は異常に冷えてゆく体温の中、先ほどのタランチュラが飛び乗った瞬間その爪か牙か針か、痛みすら感じなかった何かが自分の身体に毒気を注ぎ込んでいたことを理解した。 助けを求める声は、すぐ隣りにいる小野寺正(おのでら ただし)にも届かなかった。 寒い。それが最後の思考になった。   迷宮街・出入り口詰め所 十一時一九分 電話が鳴った。自衛隊の詰め所に設置されたそれは迷宮内部からの直通電話だった。一般人である自分がとっていいものだろうか? と後藤誠司(ごとう せいじ)は一瞬だけ考えた。いや、いいのだ。迷宮内部から電話をかけるということは、大抵の場合「○○の部隊、これから第二層の探索を開始する」などといった非常に重要な用件なのだから。向こうにとってこっちの事情など関係ないのはビジネスと一緒だった。電話は待たせてはならない。 「お待たせいたしました。——」そこで言葉がとまる。普段の自分の社名を言いそうになったためだ。 「ええと、地上です」 「鈴木秀美(すずき ひでみ)です! この電話を今から言う番号につないでください! 急いで!」 かしこまりました、と番号をメモしながら電話の脇にある操作票を見る。外線へのつなぎ方は・・・。 言われた通りに携帯電話につないだ。受話器を置く。通話待ちを示す赤いランプを固唾を飲んで見守った。電話の向こう、鈴木さんは必死だったのがわかったからだ。今朝からもう二人の死体を見た。そんな場所からの電話なのだ。 通話中の緑色のランプに切り替わった。しばし安堵し、鈴木さんが地上に出てくるまではここにいようと決めた。地上だって電波が切れてしまう場合がしばしばある。そのときすぐに交換手をしてあげなければならないからだ。   迷宮街・コンビニ 十一時二五分 「はい真壁です。どうしました?」 『真壁? いまどこに、誰といる?』 「ミニストップです。一緒にいるのは翠と津差さん」 『恩田くんたちの救助隊を組む。協力してくれる?』 「わかりました」 『ありがとう! そのまま鍛治棟に行って、お前たちと健二、葛西くんの剣とツナギを受け取りなさい。二人とは迷宮の入り口で合流』 「はい」 『葵ちゃんはつかまらないかな?』 「試してみます」 『頼む。私は一度地下に潜って、秀美ちゃんと太一を回収する。地上で待ってて』 「——分断されたんですか?」 『事態はもっと悪そう。すぐに準備して!』 電話が切れた。笠置町翠(かさぎまち みどり)が怪訝そうな顔をしている。真城さんからだ、と説明した。恩田くんの部隊が遭難して、救助隊を組むから協力してくれって。それだけで顔色が変わった。から揚げ弁当を棚に戻し、菓子パンとおにぎりに替える。大量の食料を買い込んでいた津差にも歩きながら食べられるものにするように頼んだ。 迷宮街・出入り口詰め所 十一時四七分 目の前でいらいらと携帯電話を耳につけているのは、この街の探索者でも重要人物の一人、真城雪(ましろ ゆき)だった。彼女については特別なファイルが編集してある。いわく、最強の戦士の一人。いわく、この街での最高権力者で通称『女帝』。いわく、唯一ロイヤルスイートを占拠し同じ服は二度着ないというレディ・アマゾネス・・・。 見たところ、先ほどの鈴木秀美(すずき ひでみ)の電話に関係したことのようだった。すぐにも助けに行きたいのだがその前にするべき準備が整っていないような。おそるおそる、どうしたのかと訊いてみた。じろりとにらむその目には邪魔を迷惑に思う気持ちと、根本的な不信感がある。どうやら桐原聡子(きりはら さとこ)に投げた石はこの女のところにまで効果を与えたようだった。 迷宮街の外の店に必要な道具を用意してもらっているのだが、取りに行ってもらう人間と連絡がつかない。 聞き出したのはそのような状況だった。だったら、と後藤誠司(ごとう せいじ)は携帯電話を耳につけた。 「木島さん? 後藤です。すみませんが、いつも使っている赤帽の電話番号を教えてもらえませんか?」 メモを彼女に渡す。地図から住所を探すこと、この街で最短の道を進むこと、両方とも赤帽より優れているものはいませんよと付け加えながら。 赤帽? と不得要領の顔でつぶやいた。案外、ビジネスで使ってもいなければ赤帽の存在などなかなか思いつかないのかもしれない。後藤は彼女の返事を待たずに電話をかけた。携帯電話は二度のコールでつながった。迷宮街支店の後藤と名乗ってから至急の運搬を頼めますか? と訊く。住所を要求された。 「住所の紙を」 言われるままに差し出された紙を読み上げ、届け先は迷宮街の検問前ですと付け加えた。 「何て言えば受け取れますか?」 おそらく敵意に近いものを抱いていた相手の突然の申し出に少なからず混乱しているのだろうか。気の弱そうな表情は、この強烈な異名を誇る娘の素顔なのかもしれないとふっと思った。説明してやったら、お金を払わないと受け取れません、と言った。 「金額は?」 一五万とちょっとという返事。それは赤帽に立て替えさせるわけにもいかない金額だった。とにかく赤帽にその店に向かってくれと、品物の受け取り方はあとで連絡すると伝えて電話を切った。そして再び電話をかける。自分が勤める商社の京都営業所だった。迷宮街の後藤です、と名乗り品物を買う店の名前を伝えた。ここと取引はあるか? しばらくの沈黙のあと、海外の携帯食料販売で取引があると返事があった。営業担当者の名前と電話番号を訊くとすんなりと教えてくれた。 ことの次第に呆然としている目の前の娘に小さくうなずいて、今度はその電話番号にかける。幸いにも電話はすぐにつながった。名前を名乗ると、若い女の営業マンはかしこまったような声を出した。 「君のお客さんで、マキノ登山具ってあるだろう? そこにちょっと電話をかけてもらいたいのだけど」 メモを用意する間を待って伝えた。今日の真城雪への販売は代わってうちが支払うので、掛で売ってもらうように、と。 営業の女性は少し警戒する空気で金額を訊いて来た。二〇万円と大目に言っておく。今日すぐにでもうちの事務所に売上立ててくれていいからと言ったのだが、いちど木島さんに確認をさせていただきますと言い残して切られた。なかなか用心深くていい営業だとにやりと笑った。 あ、あの、と真城雪が尋ねてきた。結局どうなったんでしょうか? 「別に難しいことじゃありません」 店の売上は一度うちの会社に立てられるから、今月末までにうちの事務所に対して払ってくだされば結構です。赤帽がいまお店に向かっていますから、お店と赤帽とで受け渡しが出来るように調整しておきます。住所から考えてもあと三〇分もすれば着くんじゃないでしょうか。鈴木さんの電話は私がつないだんです。これも縁だろうし気にならないといえば嘘になる。早く助けに行ってあげてください。 女帝はぐっと後藤の手を握って頭を下げると、立てかけてあった鉄剣を引っつかんで地下への階段のある部屋へと駆けていった。後藤は呆然とした。まさか、ジャケットとスカートにロングコートという普段着で行くとは思えなかったからだ。   大迷宮・第一層 一二時一三分 五寸釘は既に尽きた。両手に握った二本のナイフ(とはいえ刃渡り一五センチ以上あるものだが)だけで既に三度の襲撃を撃退していた。濃霧地帯を出た直後の電話機の横である。西野に命ぜられるままに地上への電話をかけ、真城雪(ましろ ゆき)につなげてから西野に代わった。自分たちの救助に関しての指示を的確に出した後、今度は彼の行きつけの登山用品店につながせたようだった。縄梯子など必要な道具を全て指示して力尽きたように西野は座り込んだ。濃霧地帯に飛び込んだ直後、青鬼から三回切られた。すぐに止血をすれば良かったのかもしれない。しかし西野は先を急ぐ方を選び、電話までたどりついた時にはもう歩く体力は残っていなかった。 「真城さん・・・早く来てよ」 涙と返り血で顔を汚しながら、必死に西野の身体を抱きしめマッサージする。体温の低下は危険な兆候を示していた。必死で名前を叫ぶ。西野はうっすらと目を開き、早く逃げろとつぶやいた。三度の襲撃を無傷で切り抜けたその戦闘能力も何も、もう見えてはいないのだ。この登山家はそんな状態でありながらなお年下の娘の安全を気遣っている。 じり、と足音がした。救援かと振り向く視界に今度は赤鬼の群れ。三匹。小柄な娘と瀕死の男と出会った幸運を喜んでいるように耳障りな声を立てた。 「・・・こないで」 ぴたりとその声がやんだ。不安げに顔を見合わせる。娘は立ち上がった。 「どっかいってよ」 一匹が上体をそらした。一匹があとじさった。それが引き金になって、三匹がいっせいに逃げ出した。生物としての本能が絶対にかなわない相手を教えたのかもしれない。 その後姿が同時に二つ潰れた。残る一匹の上半身が消えうせた。鈴木にも何が起きたのかわからなかった。 「太一! 秀美ちゃん! いるの!?」 「真城さん!」 カードで買ったから金額わからない! と笑ったコート、会うたびに頼んで肌触りを楽しませてもらったカシミアのそれがどす黒い血で汚れていた。返り血を避ける努力もせず、おそらく出会うもの全て切り殺してきた女性は真っ黒になった顔の中で双眸だけを炯々と輝かせていた。 「よかった、秀美ちゃん! ——太一!」 西野の脇に膝を突き、ツナギの前をはだける。真っ青になった身体にポケット一杯の水ばんそうこうを振りかけた。 普段ならば炭酸のような音を立てて反応が起きるはずなのに、粘液はどろりとツナギの中に垂れていくだけだった。ちょっと! どうなってんのよ! と必死の形相で垂れていく粘液を肌にすり込む。鈴木は虚脱して西野の顔を見つめた。青白い顔、その瞳孔は開いている。 口元は満足げに微笑んでいた。   迷宮街・出入り口詰め所 一二時三一分 ドアを乱暴に開け、全員そろってる? と叫んだ。鍛え上げられた動体視力は返事よりも前にすべての人間の顔を勘定し、床に積み上げられたロープと金具も確認していた。葵ちゃんは? と笠置町翠(かさぎまち みどり)に双子の妹の所在を確認した。デートです、という申し訳なさそうな言葉にそりゃしょうがないわねと頷く。 西野太一(にしの たいち)の死体にビニールシートをかけて隠しただけで、二人して迷宮を駆け抜けてきた。騒々しい足音は徘徊する化け物たちを呼び寄せ、それらは次の瞬間には急所を貫かれるか原型を失うかして絶命した。それでも跳ね上げる泥、まぐれでかすった爪や剣、そして返り血でご自慢のコート(五〇万円もした!)はボロボロになっていた。そのありさまに室内の男女は息を呑み、そして西野がいないことに気がついたようだった。 死んだとだけ言って、円になるように指示する。当然の顔をして加わる後藤誠司(ごとう せいじ)——商社の買い付け担当者——にもちらりと視線を送っただけだ。鈴木の持っていた地図を差し出した。第四層のページであることに気づいた真壁啓一(まかべ けいいち)が驚きの声をあげた。無視する。 「太一は死んだ。秀美ちゃんは今ここにいる。あとの四人はこのあたりにいる」 指し示す地点は第四層の未探索地域。強制移動の罠ですか? と葛西紀彦(かさい のりひこ)がつぶやいた。真城はそれにうなずき、すこし指を北にそらした。それは真っ白になっていた。地上よりもなお寒い迷宮内部、普段は手袋の下にフリースのインナー手袋をつけるのが普通なのだ。そこを素手で、底冷えのする鉄剣を握り締め、泥や返り血という水分を手に浴びながら走ってきたのだった。地上に出てみると四肢にしびれるような倦怠感がわだかまっている。後藤が無言でヒーターの温度を上げた。感謝の視線をちらりと送って続けた。 「濃霧地帯の奥にある大きな穴は第四層まで続いていたわ。太一と秀美ちゃんはそこを登って来たのよ」 驚きの視線が高校を中退してきた少女に向けられた。その中で笠置町翠(かさぎまち みどり)だけが納得したような表情を見せていた。 「金具と縄梯子は用意したから、第一層の大穴のふちからこれを使って下に行ってほしい——葵ちゃんがいないのは痛いけど、健二、葛西くん、翠ちゃんだけでなんとかできないかな。津差さんと真壁は第一層で、その綱が切られないように守って」 第四層組と命ぜられた面々が顔を見合わせた。中でも翠の顔は蒼白だった。第三層にようやく挑戦しようと思っていた時期に、いきなりの第四層への侵入だったからだ。一瞬だけためらい、しっかりとうなずいた。 「じゃあ、ハト組は先に。タカ組はあとで。地下で合流して。帰りは太一の死体回収も忘れないでね」 はい、と返事をして津差龍一郎(つさ りゅういちろう)が歩き出した。その足が止まった。そこには星野幸樹(ほしの こうき)がいる。完全武装だった。 「星野さん。——ああ、自衛隊の訓練ですか?」 星野には二つの顔がある。もっとも先行している部隊のリーダーと、陸上自衛隊の将校というものとが。探索がない今日のような日であっても、迷宮内部の空気に慣らすため自衛隊員を連れてエディの訓練場を訪れていることが多かった。 「誰の救助隊だ?」 別室で待機、と配下の部隊員に指示をかけてからいきなり訊いた。さすがに熟練の探索者だった。メンバーを見て、真城の状況を見て、即座に非常事態を悟ったのだった。恩田くんの部隊です、と越谷が答えた。彼にとっては自分の部隊のリーダーにあたる。 「今泉くんがいるな——『お絵かきのお兄ちゃん』には由真がよく懐いていた。俺も手伝おう」 ありがとうございます! と深く頭を下げる真城にうなずきを返し、背後を振り返った。 「お前たちはどうする?」 振り返った先には同じく完全武装の鯉沼昭夫(こいぬま あきお)と緑川浩一郎(みどりかわ こういちろう)、そして伊藤順平(いとう じゅんぺい)の姿があった。三人ともが星野の部隊の術師であり、おそらく訓練に補佐としてついていったのだろう。第一層で魔法を使い果たすわけもなく、その顔には疲れは見られなかった。 「どうするも何も」 鯉沼があきれたように言った。笑顔が若々しい彼は探索者同士の夫婦という珍しい境遇の持ち主だった。 「私たちが見捨てて全滅でもされたら明日から前衛がいなくなるでしょうが」 伊藤があとを継いだ。緑川は肩をすくめて表情は動かない。星野はにやりと笑って見せた。   大迷宮・第一層 一三時一九分 「しっかし、まあ。金具の固定、解けない結び方、そういうものもわからず縄梯子で三〇メートル下りようとしてたのかお前さんたちは」 濃霧地帯のふち、白いもやがかなり薄くなった場所で星野はつぶやいた。さすがは軍人というところだろうか、なれた手つきで岩盤を探ると、金具を打ち込んでいった。第四層までの上下移動はすべて斜めの壁面を鎖を伝って上り下りしている。その鎖はすべて自衛隊が設置しているもので、その指揮官である星野にも設置の心得はあるのだった。 「西野さんがやる予定だったんです」 津差の言葉にそうか、とだけうなずく。 「準備完了だ。上に残るのは誰だ?」 いくつか手が挙げられた。真壁啓一(まかべ けいいち)、津差龍一郎(つさ りゅういちろう)、笠置町翠(かさぎまち みどり)だった。普段第二層を探索しているメンバーである。 「津差なんかは一足飛びに第四層を経験してもよさそうだが・・・まあ、お前さんが縄梯子を使うのは怖いな。秀美ちゃんは来てもらう。すまないね」 自分より一〇以上若い娘はしっかりとうなずいた。 「鯉沼、生きてるかどうか探ってくれ」 「じゃあ鈴木さん、仲間のみんなを思い出して」そういって手袋を外した手を鈴木秀美(すずき ひでみ)の額に当てた。そして目を閉じた。治療術師の高等技術だった。大地に自分の感覚を這わせることで見知った人間がいるかどうか、生きている限りその位置を探ることができる。対象が空中に(たとえば飛行機に乗って)いたりする場合は察知できないが迷宮内部ではそれで十分だった。ちなみに星野家の猫、チョボが行方知れずになったときは、高いところを好む猫の習性もあって苦労したものだった。 「今泉くんは生きてます。ちょうどこの下のあたり。第四層ですね。あとは・・・小野寺さん、八束さんも生きてます。・・・恩田くんはダメです」 「秀美ちゃん、泣いている余裕はない」 居場所を探る術は、本人が知らない相手であっても探ることができる。しかしそのためにははっきりとイメージできる誰かが必要だった。彼女を外すわけにはいかなかった。星野の厳しい言葉に泣き顔のまま唇をかみ締めた。 星野が縄梯子を投げ下ろす。黄色いザイルは暗闇に飲み込まれた。 「じゃあ、上を頼むな。三〇メートルの上下移動、いる場所もわかってる。三〇分もあれば戻るから」 そう言ってするすると降りていった。   大迷宮・第四層 一三時四〇分 自分の女運は最悪だったな、と今泉博(いまいずみ ひろし)は昔を思い出していた。思い出は女性の顔をしていた。それらは一つではなく表情もさまざまだったが、すべてに共通するものがあった。自分を見つめるときの、隠そうともしない侮蔑の色がそれだ。 県内最高の進学校の入学式会場で、彼の心は希望に満ちていた。中学校時代の恩師が信じるほどには自分の画才を確信できず、いい成績を取って定職につくという人生設計も残しておきたかった彼にとっては最高の選択肢だと思ったからだ。何もなかった中学時代でも、先生と二人で美術クラブを作り後輩もできた。コンクールでも入賞した。高校生になって自分は少し頭がよくなり、少し行動力が増した。勉強と絵の両立は難しくなく達成できるだろう・・・。 その意気を砕いたのは幼稚な、それだけに強力な悪意だった。衆に優れて整った容姿を妬んだ同級生の一人が彼を屈服させようとし、他の男達も同調したのだ。形だけ従って見せるには彼は強すぎ、かといって打ち倒すには弱すぎたのだろう。三ヶ月でその学校に絶望していた。どうしてその時恩師に相談しなかったのか——何度も後悔したことだ。しかし当時はできなかったのだ。男の見栄は勇気の材料になるものだったが、身を縛る鎖にもなるものなのだ。 学校を辞めた。親と話し合うこともせず、家からも出た。今になってみればすべてが逃げだったのだとわかる。逃げこんだ世界は高校生活よりも自分に無関心で居心地はよかった。しかし高校中退の人間が一人で生きていくのはつらい。彼は女性に養ってもらう道を選んだ。高校から彼を追い出した容姿が今度は彼を救ったことになる。 生活の面倒を見てもらいながら喫茶店でウェイターのアルバイトをはじめた。バイト代はすべて画材につぎ込んだ。ウェイターとして暮らすうちに、寂しさを紛らわす愛玩物を欲している女性を見分けられるようになった。そうして幾人もの女性のもとを渡り歩いた。 女運がいいとは言えない。一八歳という年齢になっても彼は恋を知らなかった。中学時代は年上の教師に対する憧れでいっぱいでクラスメートは視界に入らなかったし、その教師がいなくなったと思ったら、単なるペットに成り下がっていたのだから。彼を養う女性たちは彼に依存していたが支えにはしていなかった。関係は常に、彼が逃げ出すか突然捨てられるかで破綻した。 一八歳になるのを待って迷宮街にやってきた。絵を続けるためには安定した収入が必要だと痛感していたからだ。高校卒業の資格もない人間が手っ取り早く大金を稼ぐ方法としては他に思い浮かばなかった。そこで二人の女性に会った。一人は再会だったが。ようやく最悪の女運も終わりだな、とまさに昨夜、晴れ晴れとした気持ちになったところだった。 彼女は無事に地上にたどり着いただろうか——すでに三時間以上が経過しており、ついに二人とも滑落してこなかった。当然地上にはもう連絡がついているところだろう。一秒ごとに生き延びる可能性が増していくのを感じる。 小野寺正(おのでら ただし)が声を潜めて言った。移動するぞ、と。 (どうしてですか?) 小声で訊き返した。先ほどタランチュラを撃退して移動してから何度も近くを化け物たちが通りがかったがいまだに知られていなかった。今いるのはよい隠れ場所ということではないのか。 (恩田くんが死んでいる) 驚きの声を努力して押し殺す。何かと出会ったわけでもないのに——。 おそらく毒気だろうな、と八束忍(やつか しのぶ)はつぶやいた。毒気にあてられたらどうなるのか、俺たちは知らなかった。だから恩田くんも気づかなかったんだ。 それよりも、と小野寺は身を起こした。死んでからもう一時間以上が経っている。こんな寒い場所だから大丈夫だと思っていたが、死体の筋肉が緩みだした。体内の糞尿が流れ出しているんだ。その匂いで見つかってしまう。 先ほど移動した際に各人小便は済ましていた。そのアンモニア臭は確かに迷宮内では目立つらしく、徘徊する化け物たちも一様に嗅ぎに行っているのを目撃した。死体の括約筋などがゆるむことによって体内に残っていた大小便を流すことはよく知られている。恩田の死体でそれが始まった以上、すぐにでも動かなければならなかった。そろりと身を起こした。 そして八束が悲鳴をあげた。そちらを振り向くと同時にヘッドライトの電源をつける。キャン、と声をあげて大型犬くらいの大きさの動物が闇の中に逃げていった。ランタンのスイッチを入れ、窓を全開に開くとこちらに向けて身構えている生き物の姿が照らし出された。突然の強烈な光にたじろいでいる。 「八束さん!」 振り向いた向こうで、魔法使いは首筋を抑えてしゃがみこんでいた。噛み破られたのか、手のひらの下から赤い血が流れ出している。小野寺が悲鳴をあげた。見れば灰色の剛毛に包まれた剣士が彼に切りかかっていた。刀身は小野寺の左肩をえぐっている。ここまで耐えたのに! 脳裏にいくつかのイメージを描いた。 今泉に飛びかかろうと、後ろ肢をたわめた動物がそのまま突っ伏した。治療術を応用したもので、一時的に脊髄にあたる部分を阻害して行動できなくするものだった。状況を瞬時に把握した。正式名称をコヨーテと呼ばれ通称は山犬と呼ばれる動物が三匹、正式名称をワーラットと呼ばれネズミ男と通称される剣士が二匹だった。ネズミ男は二匹がかりで小野寺を攻めている。どうやら今泉の治療術で三匹の山犬は動きを止められたようだった。あとは剣士二匹。もういちど同じイメージを脳裏に描こうとして肩に激痛が走った。首を捻じ曲げると、緑色に光る山犬の瞳がそこにあった。 彼らは包囲されていたのだ。地面に引きずり倒された。前足が胸の上に置かれ、山犬が彼を見下ろして唸る。半開きの口から生臭いよだれが彼のツナギを汚していった。 甲高い声がネズミ男の片方から発せられた。視線だけ動かすと、うずくまった小野寺の身体の向こうでネズミ男たちがこちらを見ていた。すぐには襲い掛かってこないようだった。突然理解した。彼も実家に住んでいた頃に犬を飼っていたからわかるのだ。餌を目の前にしてどれだけ飼い犬に我慢させられるか、しつけを示す基準として「お預け」「待て」というものがあるのだと。ネズミ男たちは飼っている山犬にそれを命じている。勝利を確信した彼らは自分のしつけの成果を競い合っているのだった。 毛むくじゃらの動物たちが顔を見合わせて笑ったようだった。片方が誇り、片方が感心しているようにも見える。 そうだ、もっと長引かせろ。今泉は不思議と冴えた頭で思った。自分の飼い主としてのしつけをせいぜい誇るといい。 もう三時間経過している。助けはすぐそこまで来ているのだ。   真壁啓一の日記 十二月十九日 酒場では道具屋のアルバイトの小林桂(こばやし かつら)さんの送別会が行われている。最初の予定では昨日が探索者ではない友達とのもので今回が探索者達とのものという話だったが、見る限りそんな区別なく皆で小林さんの門出を祝っていた。中では真城さんが一番陽気に騒いでいた。俺と翠はいたたまれなくなって早々に場を抜け出した。真城さんに、笑顔でいられないなら消えろと言われたからだ。「この街に笑顔で来る人間も出て行く人間もほんとに少ないんだ。お前たちは彼女に昔何が会ったのか知らないだろうけど、小林さんにとって、笑顔でこの街を出て行く最後のチャンスなんだ。邪魔をするならあたしが相手になるよ」 自身が恋人を失った直後、赤く泣きはらした目をカモフラージュするために酒を大量に飲んだ女性にそう言われて誰が逆らえるだろう。 恩田くんの部隊が遭難した。生き残った鈴木さんによれば、第二層で強制移動させる罠にひっかかり、第四層の未到達地域に飛ばされたのだそうだ。決死の覚悟で西野さんと鈴木さんが迷宮内部の縦穴を登りきり、俺達が救助隊を組んだ。俺や翠の役目はたて穴のふちで縄梯子が切断されないように守ること。俺、翠、津差さんという第二期でも屈指の戦士がいればそれは難しいことではなかった。 小林さんの門出を何より大切に——できたろうか? 感づかれなかったろうか? 翠と先にお暇するときお幸せにと挨拶した小林さんは、微笑んでからこう言ったのだ。モルグに戻ったら、今泉くんに言っておいてもらいたいことがあるの、と。あの絵はやっぱり彩ちゃんにもらってほしいから、もしどうしても欲しかったら他の絵を描いて届けるって、と。俺は必死の思いで「伝えます。文句は言わせません」とだけ言って笑った。 誰に伝えればいいのだろう。今泉くんたちの遺体は回収できなかった。噛み破られたツナギが散らばる中、遺体どころか血の一滴まで嘗め尽くされていたという。ただ全員分の荷物が彼らの死亡を伝えていた。 救助隊が縄梯子を降りるほんの十数分、その差で彼らは命を落としたのだった。 ご両親には明後日来てもらい、モルグにある遺品だけを渡すことになる。今泉くんの両親と小林さんは面識があるそうだ。万一を考えると明日来てもらうわけにはいかないのだ。   迷宮街・落合香奈と鈴木秀美のアパート 〇時二八分 三度目に抱きしめて寝かしつけてから、落合香奈(おちあい かな)は真城雪(ましろ ゆき)の携帯電話にメールを打った。今夜はずっと秀美ちゃんについていてあげないといけないから、明日の探索は延期にしてほしいという内容だった。深夜だったのに迷惑を考えずメールを打った理由はなんだろう? 悲しみにくれる娘をなぐさめるつらさが他人への配慮を奪ったのか。確かにそれもある。しかしメールを送った相手もまだ眠っていないだろう、今日は眠れないだろうという確信があった。彼女も恋人を失ったのだ。 再び、低くすすり泣く声が聞こえてきた。ベッドから起き上がって隣室へ続くドアへと向かった。